第三章 六話
「ここから出して!」
あれから一週間。受肉組成録に書かれたやり方ではやはり、死体を怪異に憑依させる方法しか見つからない。
トルバランはあれから病状は悪化していないが、時おり私やリベールのサポートが必要だ。疲労のせいで寝込むことも多い。
彼のあのような姿は、見ていて気持ちいいものではない。
(やっぱり、ニーナのことで早くに彼を満足させ、ヴィレナさんの肉体から離れてもらうのが一番……)
コン、コン。
「ねえ、出して!」
「…………だめだよ、ガラスを叩いては」
本を読み返していた手を止め、ポッドを見る。
そこにいるのは、目を覚ました少女。黒い長髪、生気のない白い肌、小さな体。
しかし、決定的に違うのはその瞳が見開かれ、ガラスを叩いている点だ。
「どうして?足ならもう出来たでしょ?私早く外に出たい!」
彼女が自分の足を指差す。
たしかに、一週間前よりずっと完璧に足として存在している。可愛らしい 、年相応の少女の足。
「……まだ内臓と筋肉の稼働テストが終わっていない。見た目は出来ていても、中身がだめだ」
嘘だ。受肉組成録を見る限り、もう充分動くことはできる。内臓や筋肉は外でのテストになる。
だが、外の環境に適応できるかは、正直なところ分からない。
「もう、そればっかり~」
ぶぅ、と頬を膨らませ、腕を組んで不機嫌さをアピールしている。直後、隻眼の目に髪がかかり、邪魔そうに耳にかけていた。
「私は早くお父さんに会いたいのに」
「…………そうだね」
少女の声が鼓膜に響く。それはどう聞いてもあの子のそれに他ならない。手の中にある本を閉じて、表紙に目を落とす。
黒の表紙に、緑の装飾をした禍々しい本。
受肉組成録。
(この子は、本当にニーナなのか?)
この本に書いてある通りに、私は従ってきた。この本があの子を取り返す唯一の術であると思い込んできた。
だが、一週間前に気づいたあの作為的な工作を考えてしまうと。
思わず、片手で顔を覆う。
数年掛けて求めてきた答えが、努力が、何もかも利用されるためのお膳立てだったなら。
ふる、と体が無意識に震えた。
「ねぇ、それ楽しい?私より?」
「…………難しいかな」
「じゃあ、じゃあ、難しいことなんてやめて私を外に出して!一緒に遊ぼうよ!」
コン、コン。
ガラスの叩かれる音が聞こえると、ついそちらへ目がいってしまう。視線が合うと、少女は口角だけを上げる不格好な笑顔を作った。糸繰りの人形が、演者にしたがって引き上げたような笑顔。
「こっちみた!」
そこから発せられる声色は、まさしく虫を観察するような楽しげな声だった。指先がガラス越しに押し付けられ、指紋のない指の肉がぎゅっとつぶれた。ガラス玉のような赤い目は丸く見開かれ、じっと私を凝視する。
「私、お父さんのこと大好きなんだよ」
「……そうかい」
「ねえ、大好き。だから外にでて、父さんを早くぎゅっとしたいのよ」
そういえば、あの子もハグが大好きだった。何かにつけて抱きつく癖は、時おり料理中にも発揮され何度叱ったか分からない。今はだめだ、と口で伝えてもずっと剥がれなかった暖かな優しい感覚が脳裏をよぎる。
「だから、外に出して!私を見て!」
コンコンコン!
ねぇねぇ。としきりに少女は声をかけてくる。
私に向かって何度も何度も手を振っている。
「私は、上にいかなきゃいけないから」
逃げようと、体が無意識に背を向けてしまう。駄目だと理解しつつ、どうしても直視が出来ない。
「上ってなに?りべぇる?がいるところ?」
「……よく知ってるね」
「だって、だって、喋ってたでしょ!とるばらん?と喧嘩だってしてた。父さんは頭から赤いのが出てたでしょ」
私たちが話している間、この少女はずっと会話を聞いていたことになる。"頭から赤いの"は恐らく血の事だ。この場所で私が頭から血を流したのは、トルバランへ掴みかかったあの日だけ。
「……いつから」
「なあに」
「いつから、見ていたんだい」
「んー、わかんない!」
あははは。と少女が笑う。どこか感情の起伏がなく、笑い声という行為を真似ているような、そんな不気味な耳触り。
「出して、私ならもう大丈夫!だから出して!」
コン、コン。
ガラス越しに鳴るノック音。何度も何度も叩かれたそれは、私を酷く急かしているようで、外に出さない私を責めているような気がして、落ち着かない。
コン、コン。
何故逃げるのかと。何故こちらを見ないのかと。ただの音が、耳奥を痛烈に穿つ。
「どうして出してくれないの?」
抑揚の無い声が、淡々と私に尋ねる。
「私はニーナよ」
言葉を発する為だけに、口がぐねぐねと動き回る様子が脳裏に浮かぶ。拡大して思い起こした人体の、なんて奇妙なことか。
「ねえ、ニーナだよ、ねぇ」
コン、コン。
「ニーナが目を覚ましたんだよ、どうして喜ばないの?私は父さんのことが、こんなに大好きなのに」
コン、コン!
「ぎゅっとしてよ、だっこもしてよ、こっちを見てよ、頭を撫でてよ、ここから出してよ」
コンコンコン!
「ねえ、父さん、遊んで!」
つい、その言葉に振り向いてしまった。
ヴィレナさんに取り憑いたトルバランと同じ、光のない赤い目。彼に頬に触れられた時の冷たさを、ふと思いだす。この子は、きっと同じくらい冷たいだろう。
「……なら、少しだけ遊ぶか」
「ほんと!?やったー!」
目の前の少女が笑う。遊べるのが兎に角嬉しくてたまらない。とでもいうような声色で。髪は水の中に揺蕩い、それを指にひっかけて遊ぶ様は完璧に年相応の少女の仕草だ。
「何して遊ぶの?」
「クイズだよ」
「くいず?」
「ああ。私が質問して、君が正解出来たら勝ちだ」
「わあ!楽しそう、やりたいやりたい!」
彼女は額をぎゅっとガラスに押し付けて、私を見下ろした。早く遊びたくて堪らない。そんな様子で、じっと私の唇が動くのを待っている。
(この質問に正解出来たら、トルバランを引き連れて見せよう)
もしかしたら、この質問に答えられたなら、本当にあの子かもしれない。
抑揚の無い声も、機械的な動きも、全ては生き返った直後だからこそ上手く動かないだけなのかもしれない。そんな薄氷のような希望が、まだ叶うかもしれないから。
言葉を紡ぐ直前、目を伏せてしまったのは、単なる臆病だった。
「──ニーナが生まれた年はいつだ?」
十秒。
二十秒
三十秒。
時計など飾っていないこの地下室で、静かに心の中で数えていく。暗闇の中。時間が過ぎていく。
ニーナが生まれた年。当人なら当然知っているべきだ。そして、この地下室で口にしたことが無い情報でもある。
「わからないわ」
──パキリ。
最後の希望が、当たり前のような声に踏みにじられた。
「だって、随分眠っていたからすっかり忘れてしまったの」
悪びれもせず、当然のような物言い。まるで本当にうっかり忘れてしまったかのような。
「でもそれが重要だっていうのなら、私と父さんが目を合わせた日にしよう!今年は何年?今日の日付は?教えて、父さん!」
受肉組成録。
怪異のトルバランが書いた本。
『魂の蘇生は私の技術でも不可能だ』
目の前には自らをニーナと名乗るナニか。
私も娘の体に、土足で入り込んだ無礼者。
それが、怪異や化け物たちにとって、当然の現象。
「私はニーナよ!」
違う。目の前の少女はニーナじゃない。
トルバランのように、死体に滑り込んだ何かだ。怪異かもしれないし、別の何かかもしれない。自分の娘の体へ異常な物が入り込むなど、気色悪くて堪らない。
実際、虫が全身を走り回るような嫌悪感が、頭から指先までばっこしている。
「お父さん、笑ってよ、私はニーナだもん!」
自分がどんな表情をしているのかが、上手く掴めない。こんなにも目の前の生き物を、気持ち悪いと思っている。腹の奥底が煮え繰り返りそうな程、吐き気を覚えている。
『何を調べても、何処を探しても、世界の全てがあの別人をヴィレナお嬢様だと、本物だと指し示す証拠しか出てこない水中のような無力感を、経験したことはありますか?』
ヒステリックな女性の声が脳裏に響いた。リベールだ、この声は。あの激情に晒された時の声だ。
目の前のニーナは、誰がどう見ても"ニーナ・ラヴェニ"だ。どれだけ経歴を辿ろうが、私の記憶を掘り出そうが、体の特徴を探そうが。
どうしたって、どうやったって、この肉体はニーナだ。
(精神の証明など、どうしたらいいんだ?)
頭が強く揺さぶられた時のように、酷い目眩を感じる。肉体はニーナだけど、中身は違うんです。なんて誰が信じるんだ。
(今はいいが、こいつが知識を身につけてしまったら、私はどう判別すべきなんだ……?)
あの子が、コレに塗りつぶされていく屈辱的な不快感を、どうやって外に出したらいい。
「お父さん?」
「……やめてくれ」
「父さん!ねえ、聞こえてるでしょ!」
「………やめろ」
「ねぇー!お父さんってば!」
「黙ってくれよ」
幼い子供特有の高い声が、テレビを止めたようにピタッと聞こえなくなる。
見れば、彼女の顔はストンと表情が抜け落ちていた。皮膚が陶器で出来てるのかと思うほど、真っ青で固く、作り物のように見える。
「頼む、今は、静かにしてくれないか」
勝手なのは理解している。
ただ、頭痛がズキズキと脳を穿ち続け止まらない。
(いっそ受肉のことなど知らないままの方が、良かったんじゃないか)
受肉の構造なんて知らないまま。
受肉の言葉を蘇生と勘違いしたまま。
トルバランの言葉なんて全て聞かなかったまま。
そうした方が、目の前の少女を受け入れられたんじゃないのか。いっそ彼の全てを恨んでしまって、責任転嫁してしまった方が楽なんじゃないか。
手の中の本に視線を落とす。彼の知識を体現したような、パンドラの箱。
(出来るわけ無いだろ、なにを考えているんだ)
下らない妄想に頭を振る。トルバランは最初から嘘など言っていないのだから。そんな考えをするのなら、さっさとトルバランを助け出す方法を探した方がいい。
ニーナの肉体は見掛けは完成している。なら、さっさと彼に見せて、ヴィレナさんの肉体から出ていけと話す方が、よっぽどましだ。
「お父さん」
「ちょっと待って」
「お父さん、ねぇ」
「今、考え事をしてるんだ。後でにして──」
「とるばらん、って人助けたいんだよね?」
シン、と冷たい氷を脳に刺されたような感覚がした。目を向けると、相変わらず口角だけがニコニコと笑っている。長い黒髪を指先に絡みつけながら、彼女は私を見つめていた。
「だったら、とるばらんって人に見せたらいいじゃない、私が地上を歩く姿」
「な、なにを言ってるんだ」
「だってちょっと前に言ってたでしょ?見届けるものがあるって。会話から察するに、ニーナのことでしょ?合ってる?合ってるよね?」
ひひひ、と彼女が笑った。
彼女の言うことは確かに合っている。彼は今の彼女を見れば、きっと満足してヴィレナさんの体から出ていくだろう。
(でも、だけど……いや、それは)
こんな得体の知れない物を、外に、出す?
トルバランでさえ、暫く生活してもどこまでの能力を持っているのか測りかねているのに?
「ねえ、ねえ。本当はお外に出られるんだよね?私分かってるもん。だけどお父さんがお外にだしたくないだけでしょう?」
「そ、それは」
「あ~、お父さん、嘘つけないんだ!私、分かっちゃうんだもんね!」
赤い目はぎょろりと私を凝視する。
今まで直視したくもなかったのに、心臓を捕まれたように目を背くことが出来ない。
「ねえねえ。お外にだして、絶対いい子にするから」
「……」
「ねぇ、お父さん。お願い!お父さんから離れないし、とるばらんって人にもケガさせないから!ね!」
「……だめだ、それでも」
「このまま、とるばらんさんが死んでもいいの?よく分かんないけど、ニーナを見せたら満足するんでしょ?助かるんでしょ?死んでほしく無いって言ってたじゃない!」
少女特有の高い声が、鼓膜を突き抜けてくる。赤いガラス玉のような目が、ギラギラと輝いて私を見ている。
「お父さん、ねぇ、お願い」
こんなときばかり、生前のニーナにそっくりな、完璧な声が垂れ流される。ニーナの肉体は、出来ているのだ。外に出してやる事は、叶えられる。
トルバランが救えるかもしれない。
だが、罠かもしれない。
今、不調のトルバランに合わせたら、本当にどうなるか。
「……絶対に傷つけないと、約束できるか」
無意識に、そんな言葉が漏れ出ていた。
「うん、大好きな父さんの側にずっといるよ」
間髪いれずに、言葉が返ってくる。
私の娘である、ニーナの声で。
「……………」
トルバランが、死ぬ可能性がある。
私がニーナを作り上げる発端になった怪異で。
冷酷な食人鬼で。
私を窮地から掬い上げた人間で。
受肉組成録の制作者で。
数年間誰にも言えなかった、私の研究の唯一共有できる存在。
それが、死ぬかもしれない。
「…………絶対に、約束を守れるか」
「守れる!」
「暴れないか」
「うん、暴れない!」
「出るのは、少しの間だけだ、いいね」
「勿論!出たらすぐにぎゅっと抱き締めてね、父さん!」
たとえ、彼女が求めていたニーナと違うとはいえ。
トルバランを、家族を失う。それはもう耐えられない。だったら、騙す事になろうが、失望されようが。私の元から去ってしまおうが。
生きてさえ、いれば。
「……ガラスから離れて」
カチ、とボタンを押した。
控えめな機械音が鳴り、疑似羊水が排水されていく。ポッドの中ので水位が下がるにつれて、少女がはしゃいだような様子で天井をみていた。
「わあ、すごいすごい!」
頭が出て、濡れた髪が頬に張り付き、耳にかける動作さえ鬱陶しそうに、少しの間だけ眉を潜めていた。
だが、足元の水が完全に流れ出せば、その赤い目はすぐに私を見た。
ガタン、と重い音が響く。
ポッドのガラスが、完全に開いた。
「ああ、お父さん!待ち焦がれちゃった!」
一歩、彼女がポッドから出る。
長い髪を引きずりながら、赤ん坊のような頼り気のない動きで。なんとも嬉しそうに口角をあげた表情で。
「お父さ──」
表情は、すぐに崩れ去った。
しゅう、という音と、焦げるような妙な匂いが鼻を突く。彼女の脚や、腕や体が、溶けている。
「ああ、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い!!!!」
地下室に、雷のような叫び声が鳴り響く。しゅう、しゅう、と肉体から赤黒い泡が出て、醜悪に崩れていく。人間の焦げ落ちるような、生臭い匂いが鼻腔へと絡み付いていた。
ぼとん、と重い音がして右脚が溶け落ちると同時に、一気に体制が崩れた。
「ニーナ!!」
咄嗟だった。彼女を抱き止め膝を付くが、強烈な泡の熱が自分の両手を焼き、激痛に顔が歪む。私の服はべっとりと肉片と赤い泡で汚れ、じわりじわりと侵食を増やしていく。
左足がどろりと溶け出し、下半身がごとりと骨のような部位と混ざって、落ちた。
「おとうさん、おとうさん」
ニーナの声がする。溶け落ち崩壊した顔面の穴から、娘の声がする。
「あつい、いたい、いたいよ」
ぐちゃ、ぐちゃ、と水音がする。全身から人体から鳴ってはいけない音がする。微細な気泡が弾け飛び、私の服がその度に汚れ、時おりパン、と小さな音がして床に肉片が飛び散る。
彼女が腕を伸ばし私の顔を触ろうとするが、ぼと。と腕が落ちた。
赤い目は、必死に私を見ようとして。
「お、とう、さ──」
頭が取れ、べちゃっと柔らかいものが潰れる音がする。細い首が溶けてしまったのだろうと、殆ど止まった脳の裏で何故か冷静に理解していた。
ゆっくりと視線をそれに向ける。
潰れたトマトのようになったそれは、しかし真っ赤な瞳だけが私を見つめていた。そのままゆっくりと肉片が溶け落ちていき、目玉だけが残っていく。
事故の時に見た、赤黒い物に包まれた、赤い目玉。
視線が、合う。
「……」
声など、出せなかった。
全身が硬直して、動くことも出来なかった。両手の火傷の痛みも、熱も、しゅうしゅうといった音さえ耳にすら入らなかった。
ただ、途切れ途切れに口が呟く。
どうして。
なんで。
自分の声では無いみたいような、何処かぼんやりとした声。だが、少し経てば徐々に現実を処理できるようになってくる。目の前がクリアになる。
それを言葉にする前に、呼吸が荒く、浅くなる。全身が震え、足の先から冷たい拒絶が広がっていく。
「私、は……」
ばしゃ、と急に目の前で何かが動いた
視線をやると、未だ音を立てて溶け落ちる肉片の影が、ぐねぐねと動いている。
「えっ」
呆然とみていると、それらは重なりあい、大きくなり、頭が出来、女の体が出来、魚の下半身が形作られ。尚も奇妙に動き続ける。
首には陶器の、魚を模したネックレスがかけられ、そこだけ妙にキラキラと輝いて浮いて見える。
(にん、ぎょ)
影のはずのソレが、顔を上げて此方を見た。地獄の底から聞こえてくるような、悲鳴に似た酷いガラガラ声が地下に響く。
「オ゛ト゛ウ゛サ゛ン゛」
暗闇が、ぐねぐねと動く。その形は上手く形成を行えず、何度も何度も崩れては再生し、崩れては再生し、ずりずりと音を立てながら、私の膝元へと這い寄ってくる。
「オ゛ト゛、サ゛」
ずり、ずり。と這い寄る。
余りにも異常な光景に動くことも出来ず、目も離すことが出来ず、それを見つめていた。いつの間にか膝元へたどり着き、膝にひやりと身の毛もよだつ冷気が触れる。
「オ゛ト゛ウ゛サ゛ン゛!!」
影が私へ向かって両手を伸ばした。
刹那。
──ガシャン!!
「アァ、ア゛、ア゛ア゛!!!!」
目の前で、1本の杖がそれを貫いた。
黒い影が悲鳴を上げ、下半身の尾をバタバタ揺らす。
「イダイ、イダイ、イダイィィイ!!!」
いや、杖ではない。ギラつくこれは、剣だ。
銀色の、剣だ。
「全く、別の怪異に粉を掛けられおって」
上から、不機嫌そうな聞きなれた女性の声が聞こえてくる。化物はジタバタしながら、耳をつんざくような悲鳴をあげ続けている。
「私ではもの足りぬというのか?浮気性な旦那様だ」
茫然としたまま、ゆっくりと上を向く。
見慣れた黒い双眼が、私を見下ろしていた。
「やあ、ヴィクトル。随分な顔をしているじゃないか」
「あ……トル、バラン……?」
名前を呼ぶと、彼は嬉しそうに顔を歪ませた。
彼が手に持つものを見れば、それは手持ちは近頃持っていた杖そのままだ。しかし、その先には銀色の剣が飛び出て、目の前の怪異を貫いている。
「ほら、どきたまえ」
蹴飛ばされると、力が抜けてしまった体は流れるがまま影から離れる。
「イダイ、イダイヨォ……!!」
「受肉を果たしても、怪異の体を手放さなかったのは感心、感心」
血の気のない横顔が、楽しそうに笑う。
「だが、他者のものを横取りするのは、実に頂けない」
見下ろす目は、同族に向けるものとは違う。
軽蔑と嘲りを含んだ色だ。
「このトルバランの物を、よくも傷つけてくれたじゃないか、彼の手は命を救う手だというのになぁ」
影は必死に逃げようとジタバタと暴れまわる。その手が伸びて剣を触ろうとしても、じゅう、と焼けたような音が鳴り、酷い悲鳴が鳴り響く。
「お前のような矮小な存在は、私の目に触れるのすら穢らわしい」
音もなく、剣が肉体から引き上げられる。
人魚の影はその隙をつき、私の方へ向かって来ようとして。
「朽ちたまえ、無礼者」
仕込み刀は、陶器のネックレスへ迷いなく振り下ろされた。
「ヤダ!!ヤダヤダ!!オトウサン、オトウサ──」
ガシャン。
と軽い物が壊れるような破壊音が響く。
影は私に手を伸ばしたまま、叫び声をあげて溶けるように消えた。一連の動作が夢の中であったかのように、一気に静寂が訪れる。
「…………」
声を発する元気がなかった。
目の前の光景を、ただぼんやり見つめていた。まるで映画でも見ているような現実感の無さに、動くことも出来ない。
「ヴィクトル」
呼ばれて見れば、カシャン、と彼が刀身を仕舞う所だった。ああ仕込み刀か、と気付いたのは、彼が私のところへ歩いて近づき、しゃがみこんだ辺りだ。
「ヴィクトル、私だ」
軽く2度頬を叩かれる。焦点が上手く合わないまま、目の前の双眼を見れば、まるで観察するようにじっと私を覗き込んでいた。
「……私は」
「ああ」
「わたし、は」
脳裏に浮かぶのは、泡立ち溶けたニーナの肉体。生臭く人間の焼けただれた匂い。べちょりと触れ、へばりついた水っぽい肉片。
「うっ」
胃の奥底が、急にひっくり返ったように暴れだす。視界が点滅を起こし、頭を酷く殴られたような痛みが襲い続け、急激に胃酸が喉を昇る。
「お゛、え゛ッ……!!」
止める隙がなかった。ただ、胃の中の物が全て出しきるまで、えずきが止まらない。止めなければいけないというのに、全身が震え、喉が引きつり、意思とは関係なく嘔吐が続く。
「楽になるのなら、全て吐いてしまえ」
背中に、冷たいものが置かれ擦られる。
それがトルバランの手だと分かっても、申し訳なさが心へ沸き上がっても、止まらない。
生理的な涙が溢れ、ぼろぼろと涙が溢れていく。
「はあ、う、げほっ…………」
胃の中がひっくり返り、残ったのは酷い匂いの吐瀉物と、ニーナの泡立った死体、離れた所に転がった目玉。
ぼろぼろとなき続ける私と、その中で私を気遣うトルバラン。
地獄絵図、というのが正しい。
「す、みま、せ……」
「ああ」
トルバランが、美しい顔で聖女のように微笑んだ。
その優しさが余りにも痛烈で、収まった気がした涙がまたぼろぼろと溢れ落ちた。 けれど、彼の存在に安心してしまっている自分がいる。
「う、え゛……」
一度吐いてしまったら、抑えが効かない。胃酸に喉を焼き焦がされながら、最悪な味にまた吐き気を催す。
「ヴィクトル、話すのは落ち着いてからでいい」
彼は青いハンカチで私の涙を拭う。柔らかな布が頬を撫でると、耐え難い苦痛にまた全身が震える。彼女の服の裾が目に入り、汚れてしまうからと避けようとしたが肩を捕まれ動く力が入らなかった。
「……は、ぁ、はぁ」
口の中が気持ち悪い。涙に歪む視界の中、目の前の吐瀉物をぼんやりと眺めながら、脳は徐々に冷静さを取り戻していく。
(これが、結末)
赤と、吐瀉物と、最悪な匂い。
これが私が求めた結果なのであれば、見たかった『煌めき』とやらならば、もう充分だろう。
全身の疲労感と横たえる空虚に押し潰されそうになりながら、それでも彼女に目線を合わせる。
「と、るば、らん」
「どうした」
「これが、終点、ですよ」
「……」
「早く、はぁ、私の、もとから、去りなさい」
今の私を見てほしくない。というのもある。だが隠すものがない今、全てを晒してしまったなら手遅れだろう。
正直、もう限界だ。
「結末を見たでしょう、私は、失敗した。貴方のいう煌めきなど、持っては、いない」
赤い泡を直視したくはない。匂いを感じとるだけでまた胃がむせ返るようだが、口を押さえようとしても身体に力が入らない。
「ニーナは、もう、戻ってこない。分かりましたよ、充分すぎるほど」
あまりにも、自分の物分かりが悪すぎる。
ニーナは数年前にもう亡くなっている。生き返らせることなど、出来ない。不可能だ。ようやく、心の奥底で納得が出来た。
自分の両手を見て、酷い火傷にため息をつく。
受肉組成録は、私には扱いきれる代物ではなかった。死者を蘇生しようとするなど、彼もいう通り傲慢だった。
もう、こんな真似は繰り返せない。
「本は、返し、ます。あそこのテーブル、あの上にあるから、早く」
だから早く、満足したなら彼女の体から出て、生きてくれ。
「……トルバ、ラン?」
彼に目を向けると、ドキリと心臓が跳ねた。一寸の違いなく、私を見ていたから。ポッドに入っていたあの子によく似た視線。
「聞いて、ますか」
「ああ、」
じっと私を彼が見ている。
どうして、こんな薄ら寒いものを感じるんだ。
「そうです、か。けほっ、なら、早く、受肉組成録を持って、彼女の体から──」
「ああ、もう一度やればよい」
「へ」
表情変えず、彼は言い放った。まるで至極当たり前だとでも言うように。
「ヴィクトル、お前は素晴らしい。あの人魚の怪異に人間の死体だと認められたじゃないか」
「……は?」
「だから、次こそはきっとうまくいくはずだ」
「つ、つぎ?いや、私は、もう」
「細胞が古く上手く結合が保てなかっただけの事。新しい人間の血肉さえ与えれば問題ないだろう」
全身が硬直し、彼から目線が離せない。
顔はひく、と口角が動くばかりで、とてもじゃないがまともな表情は出来ていないと思う。彼の言う言葉さえ、上手く噛み砕けていないのだから。
「あた、らしい、ちにく?」
「ああ、致死量などはいらないさ。例えば──」
彼が、私の目の縁を指で触る。
まさか。まさか、嘘だ。
「これさえあれば、問題なく肉体の組成を助けられるだろう。良かったな」
嘘だ、やめてくれ。私はもう、もうやりたくない。
「失敗とは成功の母という」
黒い双眼の悪魔が、酷く興奮した様子でぎょろりと私の目を覗き込んだ。
「さあ、続きを始めようじゃないか、ヴィクトル!」
ああ、神よ。どんな神様でも構わない。
誰か、だれかこの地獄から助けてくれ。




