第三章 五話
ニーナは目を覚まさない。
未だポッドの冷たい水の中で、静かに浮いている。
「ニーナ」
黒い髪は随分伸びた。最初は肩までしか無かったのに、もう腰まで伸びている。
この子が生きている、という唯一の証だ。可能であれば昔のように髪を結ってあげたいが、彼女を出すことは出来ない。
「ニーナ、寒くないか」
ポッドの中は常に一定の温度に保たれ、手で触れるとヒヤリと冷気が伝わってきた。
小さな頭を、ガラス越しに指先でなぞる。いつか、こうして撫でられるのがこの子は好きだった。
「こんな狭い場所に閉じ込めてすまない」
トルバランの協力で、ニーナの肉体は再生した。
完璧ではないが、誰もが彼女をみれば生きた人間が眠っているとしか見えないだろう。
ポッドの中を緩やかに揺蕩う黒髪が、ニーナの青白い頬を撫でている。
「ニーナ」
返事はない。
分かっている。
「お前が目を覚ましたら、また一緒に太陽を見に行こう」
努めて優しく、冷静な声を出そうと喉を動かした。
ポッドから見える頭を、ガラス越しに指先で撫でる。この子を照らす光は、青白い照明なんかではなく太陽の方が似合っている。
「今度は、父さんがちゃんと守ってやるからな」
暖かい世界で、隙間から見えた虹にはしゃぐ姿が懐かしい。
花を摘み、花輪をつくる事もあった。
雨の中でカエルを捕まえて驚かせてきた事もあった。
寒いとストーブの前で丸まって、布の山が出来ていたこともあった。
『────』
虹色の髪留めがお気に入りだった。
それを買った日の、あの子が嬉しそうに口を動かして喋るあの日の映像が、脳裏で再生される。
早く、あの子に会いたい。
「ヴィクトル」
耳奥に女性の声が届く。
振り向くと、ヴィレナさんの姿をしたトルバランが立っていた。黒い癖のある長髪と、光を宿さない黒い目、深緑のショールだけが彼に色をつけている。
カツン、とハイヒールの音が鳴った。
一拍遅れて、黒い杖の先がコンクリートの床を叩く。
「……トルバラン、あなた、杖なんて持ってましたっけ」
「ああ、気にするな。ソレの様子はどうだ」
勝手に入って来たことについては、もう何も言うまい。制御できるとも思わないからだ。
それよりも彼の様子が気になる。いつもよりずっと顔が青白い。
「見た通り順調です、ただ」
カツ、カツ、と音を立てて歩いているが、その動きはすこしぎこちない。明らかに杖に頼っている。
「トルバラン。貴方、歩き方も変ですよ」
「気にするな」
「流石にしますよ」
「私は怪異だ、何ら問題はない」
「怪異は関係ありません。貴方が肉体について異常がないか聞かせなさい。ほら、これに座って」
ゆっくり歩く彼に駆け寄ると、出来るだけパイプ椅子を引き寄せ彼を座らせる。いつまでも不安定な様子は見ていられない。
「少し痺れがあるだけだ、お前が気にする事ではない」
座ったその姿は、疲労を隠すことができていない。手に触れると、相変わらずの冷たさと軽い痙攣が感じられた。
「トルバラン?どういうことか説明してください。痺れとは?」
「万物、時間制限はあるものだ。その事前通知がきただけの事」
「はい?時間制限?」
思わずおうむ返しになってしまったが、致し方ないだろう。彼がこんなことを言うなんて始めてだ。深いことは分からないが、首筋を冷たいものが這うような、嫌な予感はする。
「この肉体の稼働限界が近づいている」
「稼働限界?」
「水銀が肉体を蝕み始めているという事だ」
「……最初から説明してくれますか?」
単語が飛び飛びで理解が追い付かない。トルバランは私を一瞥すると、仕方がないなと面倒そうに呟いた。
「これを見ろ」
掬うように指を動かすと、足元の影が彼の手のひらに集まり、小さな影を作り出す。ひょこひょこ動いて、とても可愛らしい。
「我々怪異は肉体を持たぬ。寿命や病という制約を持たずとも、噂で姿が変わり、心が変わり、性質が変わるのだ……もっとも、人の空想から生まれた存在なのだから、当然だがね」
影は掌の上でぐにゃりと曲がり、捻られ、捻り潰され、また再構築を始めている。犬の影、蜘蛛の影、猫の影。小さな人形劇は繰り返される。
「我々ブギーマンのような肉体を持たない怪異は、人間のような死や病が無い反面、とても脆い。意思の強いものは生き残れるが、そうでないものは潰れていく」
いつしか影は猫と魚の二つに別れた。
猫の影はその場に留まり、魚の影はまたその姿をぐにゃりと変えた。不格好な形状は、アメーバのようにぐねぐねと異様な動きを繰り返し、いつしか闇に還っていった。
「しかし、対して人間は違う。死や病はあれど、肉体が存在する。その肉体、魂、あり方。全ては個々が作り上げる。我々とは根本から違う。そこで──」
猫の影は奇妙に伸びたかといえば、別の影が作られる。紙人形のような大雑把な作りだが、明らかに人間だ。
「私は人間に怪異を同化させる術、受肉を考えた」
「……受肉?」
「ああ。アンカー……こほん。我々にとっての肉体代わりは、人間よりも軟弱でね。お前たちの肉体を使い、その精神を保護する方法だ。今の私がその状態だよ」
思わず、彼の今の姿を再度眺める。
黒い髪、黒い目、生気の無い肌。美しい容姿。死体を利用した彼は、仕草と言動さえなんとか隠せば本人にしか見えない。
(死体を使っているから、当然なんだけどな)
「肉体に依存した人間は怪異よりも精神性が脆い。だがそんな有象無象の中にも、時たま群れの常識を逸脱し、滅茶苦茶するやつがいる」
彼の掌に立つ人影が、私を指した。
視線のあった黒の双眼は、にっと細められる。
「お前のような煌めきをもつ人間だ」
「随分、少女趣味な言い換えですね」
彼の趣向を満たすような行為はした覚えが、いや、恐らくニーナの事なのだろうが、あまりの趣味の悪さに思わず眉を潜める。
「己で価値を作り、追求し、その先が奈落であろうと、子供のようにそこへ飛び込んでいく。そんな人間の精神構造を、煌めきという言葉以外でどう表せというのか」
「褒めてるんですか?貶しているんですか?」
「褒めているとも、当然」
自分の趣味を話し始めたからか、トルバランの顔色は先ほどよりも少し良い気がする。表情のせいだろうか。それとも喋り方に軽く熱が入っているからだろうか。
「いいかヴィクトル。こういった異常個体は、常々人間社会に紛れ込んでいるが、その振る舞いには独特な振る舞いが──」
「分かりましたから。それで、それがなんで今の水銀やら体調不良やら肉体の稼働限界、でしたっけ?につながるんですか」
話が反れる前に聞き直す。喋る内に内容をはぐらかされて終わるのが一番面倒だ。
「……ああ、まあ些細なことだよ」
一気にトルバランのテンションが下がる。
落ち着きを取り戻した、というべきか。手の中の人形も、気落ちしたように影の海へ消えていく。開いた手は行き場がなくなったのか、少しさ迷った後に着こんだショールの上に落ち着いた。
「お前のような人間を見るため、一番手っ取り早いのは人間として紛れることだ。特に身近で、離れられない方がいい」
「それでヴィレナさんを選んだ。そうですよね」
「ああ、だがこの行為には些か問題があってね」
「なんですか」
「肉体を得る、それはすなわち存在し得なかった死や病が襲い来る。こればかりは自然の摂理だ、致し方がない」
(仕方ない、のか?)
疑問に思うが、正直に言えば怪異の判断基準は今一理解しきれない所はある。怪異の例がトルバランしかいないというのもあるが、人間とは感覚が違いすぎる。
「そしてもう一つ危険性がある」
「はい」
「前の人格に、怪異としての人格が呑まれる可能性があるということだ」
「はい……はい?」
さらっととんでもない事を言わなかったか。あまりにも簡単に言うものだから、一瞬流しそうになってしまった。思わず彼の目を見直すと、彼は目を閉じたまま軽く肩をすくめた。
「私が、本当にヴィレナ・フランになってしまう可能性がある。ということだ」
ピシ、と体が固まった。シトラスの香りが一瞬鼻腔を擽った気がした。全身が無意識にぞっと鳥肌が立ち、心臓が羽で擽られるように落ち着かない。
「ヴィクトル、落ち着け。彼女本人が戻ってくる訳ではない」
「ええ、いや、その。分かっているんですが……」
思わず腕を擦る。もう随分時間が経つのに、彼女が帰ってくる、なんて考えるだけで酷く動揺してしまう。無意識に足も組んで、静かに擦り合わせてしまっていた。
「安心しろ、対策は打っている」
「た、対策?」
「水銀を飲むのだよ」
思わずぎょっと彼を見る。
どう考えても水銀は毒だ。わざわざ身を滅ぼすような自殺行為をして、いったい何をするつもりだ。
「お前の言いたいことはわかる。だが怪異への作用は少々違うものがあってね。これには魔を祓う性質があるのは知っているな」
「知りませんが……?どっちかっていうと塩では?」
「我々は幽霊ではない。一緒にするな」
トルバランは指をトントン、とこめかみに当て、呆れたような目を向ける。そんな顔をされても、私には違いが分からない。ただ下手なことを言うとへそを曲げそうなので、口をつぐんで大人しく聞く。
「肉体と怪異の受肉は、その進み具合を癒着と表現する。水銀の反発作用を使い、癒着を無理やり剥がし続けるのだ。磁石の同極同士が反発するようなものだよ」
「は、はあ」
「これは私が見つけた作用でね、受肉による人格の侵食を防ぎながら肉体を扱うことができる。素晴らしいだろう?」
嬉しそうに口角をあげ、いかに自分の研究が優れているかを語る口は饒舌だ。いつもは最低限のことしか口に出さないような奴だろうに。
ただ、その内容に思うところとしては、正直。
「それ、力業過ぎませんか」
む、と少しだけ彼の唇がとがり、姿勢を正して私をみ見る。
そんな不満そうな顔をされたとして、感想はかわらない。ミイラ取りがミイラになった、なんて言葉があるが、綺麗にそのままじゃないか。
「肉体をこまめに脱いだら受肉?癒着?を防げないんですか?」
「癒着は過程、受肉は結果だ。我々が使うのは死体のみだ。そして怪異が肉体に入らなければ腐敗は進む。腐敗のスピードは我々の想像よりずっと早い」
トルバランが己の手を撫でる。
痙攣が未だ止まっていない。
「肉体の許容量が限界になるか、精神と肉体の癒着が進めばこのように一気に症状が出る。痛みは感じないが、より制御が難しくなっていく。どれだけ足掻こうが、結果は同じと言うことだ」
「……中毒症状の一つですね。貴方が不調なら意味が無いでしょう?水銀を飲む事態になる前に撤退するのは」
「私にはまだ見届ける物がある、それに、いつリベールに見られるともわからん」
「受肉をしたら、もう怪異には戻れないんですか」
「コーヒーにミルクを入れて混ぜ合わせ、再度それからミルクを出せると思うか。不可能だよ」
八方塞がりじゃないか。
簡単に聞いた私でさえ、想像が出来る結末だ。彼の事だ、自分も餌食となる未来は見えていたはず。
「それに水銀によっての傷は、人間の肉体にも怪異の体にもダメージを与えるのだ。癒着が進めば着脱時に激痛が走る。だったらもういっそ、走り抜けた方がましだ」
トルバランが、あからさまにため息をつく。融通とか、そういう問題ではない。デメリットが大きすぎる。
軽く口にしているが、それは自滅と同意義ではないか。
「どうして人間の身体に取り憑く事に拘るんです、死の危険までおかして」
受肉の性質を考えれば、トルバランがヴィレナさんのふりまでしながら生きる理由が分からない。
「だから言っているだろう」
質問に彼は少しだけ、考えるように顎に指を当て。
「好奇心だ」
と黒目を細め、答えた。
「人間を見るなら、人間になるのが手っ取り早い。お前をこうして、近くでみられる」
私の両頬を、彼は両手で包み込む。視線は私の顔をじっくりと眺め、満足そうに頷いた。先程よりも随分と機嫌が良さそうだが、何がそんなに面白いのか。
「あなた、自分が何を言っているのか分かってます?」
「ああ、当然」
私の後ろには、命を取り返そうとする娘の身体。
片や私の前には、命を手放そうとする怪異。
「あなたを、救う道は?」
「救う?」
先ほどまでの笑顔とは打ってかわり、今度は彼が不思議そうに首をかしげた。黒髪が、彼の動きによりさらりと落ちる。
彼が肉体を操らなければ、起きない現象だ。彼の冷たい両手をつかんで、頬から引き剥がす。力は入っていなかった。
「だって、あなたを失うのは、つまり」
「水銀のダメージは遅い。娘の肉体の完全復活は間に合わせる、問題はない」
「そうじゃない、それもありますけど……」
「では、なんだ」
なんだ、と言われても。
上手く言葉が出てこず、口が一度開閉する。
「私は」
数秒、ポッドの静かな音が地下室に響いていた。
椅子に座る弱った女性。中身は大きな猫男。よく理解している、これは人を殺して成り代わる化け物だ。
「なんだ、ヴィクトル?」
黒の双眼が、本当に意図がわからないというようにぱち、ぱち、と二度瞬きをした。
「私は、貴方に死んで欲しくはない」
トルバランが、そのままじっと私を見ていた。
ろくでもない食人鬼、目的のために手段を選ばない怪異、好奇心で溺れ続ける間抜けな猫野郎。
だからといって、命を放り出すなど黙って見ているものか。
「貴方が勝手に死ぬなんて、認めませんよ」
彼はなにも言わず、代わりに少し首を傾げた。珍しく思考の処理が上手くできていないようだ。
「聞いてますか」
「……ああ、聞こえてはいる、だがお前は何を言ってるんだ」
「だから、貴方があんまりにも簡単に自分の命を手放そうとするから、それを許さないって言ってるんです、分かりますね」
こく、と彼が頷いた。
完全に理解はしていないだろう、表情を見るに肩透かしのような気がするが、この真っ黒くろすけに叩き込まなければ。
「目の前で勝手に死なないでください」
ほんの少しだけ、今更とも言える臆病な自尊心が顔を覗かせる。
「……迷惑ですし」
歪んだ言葉は今更飲み込めない。
言った手前、幼子のような精神の未熟さを強烈に感じて、こほんと咳払いで誤魔化した。
「命を粗末にするような者は、怪異であろうと人間であろうと許しません」
「ただの結果だろう、研究にとって犠牲とは常につきもので──」
「生き急いだ結果、道半ばで倒れるのならば意味がないでしょう。それとも、後継者でもいるんですか」
「ん゛っ………」
喉の奥で潰れた蛙のような音が聞こえた。
何か言いたげだが、上手く言葉にできていない顔。怪異のくせに、随分なじみのある表情をする。
「お前にとって、我々怪異は好意的な存在ではないだろう。そんなものの命をざわざわ気に留めるなど、暇か」
「でも貴方は今は妻でしょう」
「そんなもの、役割に過ぎない」
「貴方が私の生活に自分をねじ込んだんでしょうが。なら、医者の私が患者を気にかけるのは当然です。」
「私は怪異だ」
「私は医者ですが」
しん、と再度静寂が訪れる。
だが好奇心なんかに命を売ることを許容できるほど、私は心が広くない。彼は自分を軽く見すぎている。こんな無茶苦茶な生き方をするのなら、許してはおけない。
「……全く」
先に口を開いたのは、トルバランだった
その目はあきれ返っている。
「ニーナだけでは飽きたらず、私の命も救えると?些か傲慢がすぎるのではないか?」
「何か悪いですか」
すでに水銀で蝕まれた体。癒着の進んだ彼とヴィレナさんの繋がり。彼のいうことが確かであれば、怪異としての体にもダメージが蓄積している筈だ。
「お前にトルコランプは荷が重い、ヴィクトル」
医療の基礎となった、クリミアの天使が持っていたというランプ。救済の光の原型。
この猫、私の蔵書を勝手に読んだな。
「……何を言うんですか、杖まで必要になっておいて」
「杖さえあればまだ動ける。それに、これは特別製だ。お前が気にするような事ではない」
「トルバラン」
「お前が気にすべきはニーナのみ。コレの完璧な肉体再生だろう」
彼の鋭い目は、ニーナに向けられている。
まだ脚が溶け、完璧ではない娘の体。私の手を振りほどき、彼は凛とした姿勢で立ち上がる。カタン、とパイプ椅子の音がなった。
「肉体の細胞が古すぎる。時間も手間も掛かるだろう、ここまで再生できているのも奇跡に近い」
杖を支えにしながら、トルバランが光るポッドに近づき、白い指で触れた。
「だからこそ、成し遂げた時を見たい。お前の執念ならば、不可能とした魂の蘇生さえできるやも知れぬ」
彼の視線が不意に私に戻り、にやりと口角が上がった。
「そして、その暁にはお前がどう咽び泣くのかもぜひ見てみたい」
「むせっ……!?」
「ふふ。ヴィクトル」
ガラスを撫でていた指が、もう一度私の頬に触れる。手は、やはり軽度の痙攣が感じ取れた。もう慣れたと思っていた筈だが、改めてその冷たさが身体に染みる。
「お前は酷く傲慢だ。その手でどうしても私すら絡めとりたいというのなら、やってみるがいい」
水銀の影響を正確に把握することはできないが、時間は限られているだろう。彼の手に己の手を重ね、掴んだ。
冷気は私の体温と混ざり、ほんの少しだけ熱を持つ。
「ええ、約束ですよ。貴方はそれまで必ず生きてください」
「ならば、私を退屈させぬよう努めるがいいさ、旦那様」
退屈もなにも、勝手に娯楽を探して勝手に楽しんでいる癖に。内心では悪態をつくが、この手を離すつもりはない。
怪異で、食人鬼で、サイコパス。
だが、妻で、研究者で、ニーナを唯一知る存在。
ここまで私をつれてきた癖に、勝手に死ぬなど、許せない。彼を救うには、彼が取り憑いても問題の無い肉体を作らなければいけない。
「たとえば、人格影響は肉体の何%から影響が始まるのですか」
知らなければ。相手のこと、受肉のこと、そしてその抜け穴。トルバランの口角が不自然に上がる。
本当に、楽しそうなやつめ。
□□□
受肉組成録。
受肉とは、怪異が人間の肉体と同一化すること。
組成とは、あるものを構成する要素や、その構成を表す。
○録とは、記録を表す。
「…………ん?」
ふと計算式を書いていたペンが止まる。地下室で、先程までいた彼が置いていった本を手に取る。仰々しいタイトルの、緑の装飾がされた黒い本。
『これは、人間を生き返らせる本ではないよ』
散々トルバランが言っていた言葉。人体を蘇生するような事をしっかりと書いておきながら、一体何を言っているんだと聞き入れなかった言葉。
(人を生き返らせることができないなら、これは何の本だ?)
パラパラとページを捲る。
淡々と書かれた解剖録、再生させるために書かれた成分や、方法や、魂についての考察が淡々と書かれたもの。そして、それらを使った成功事例。
(……ルル・コルコレの肉✕を構築す✕ために✕要な素✕、読みづらいな相変わらず)
ルル・コルコレ、というのが何かは分からない。怪異なのか、ニーナのような人間なのか、噛み砕けず読めない部分も多い。本の文章に文字化けなんてあるはずがないが、何度目を擦っても文字が揺れ動いて認識が出来ないのだ。
だが、穴埋めをしていくことはできる。幸い数字を使った計算式には影響が少なく、やることは明確に理解が出来る。
(今思えば、どうでもいい情報は読みにくくしているのか……?)
謎の技術過ぎるが、怪異であれば妙な力を使っていたとしても不思議じゃない。この本を手に取ったものにやって欲しい事は明確だ。それは肉体を再生、または構築することに注力される。
受肉組成録、というタイトルの事を思い出す。
何度思い返しても、妙に堅苦しい言葉の本。そのタイトルの意味は。
(受肉を構成する要素についての記録……)
あの研究大好き怪異が、わざわざ自分の本へ細工をしたと考えると、必ず意図は存在する。
なら、彼が本当に伝えたかった内容を考えると、そこに記された回答はおそらく。
「……怪異の受肉の為に、必要な肉体の作り方?」
──コツ。
と、あり得ない音がした。ガラスを叩くような音。
──コツ、コツ。
トルバランはもう地下から出ている。
戻ってくるのなら、またあの杖の音がするはずだ。あれはこんな軽い音じゃない。またあの高い声で私の名前を呼ぶはずだ。
ありえない。私は音を出していないのだから。私以外が出す音なんて、機械音以外ありえない。
それも、"私の前から音がする"なんて当然、絶対にありえない。
──コツ。
ぞっと全身から冷や汗が出る。体は凍りつき、妙に心臓がバク、バク、と音がなる。血流の流れる音が耳まで届き、頭がきゅうっと絞られるような痛みを感じる。
呼吸一つさえままならず、無意識に息を止めていた。
──コツ、コツ。
これは、何の音だ。
油をさし忘れたブリキ人形のように、ギ、ギ、ギ、と頭が不格好に動いた。目は受肉組成録から、ゆっくり持ち上がっていき、ポッドの青い光、ニーナの不完全な白い足、胴体、肩、そして。
──コツ、コツ。
赤い、赤い隻眼と目があった。
黒い髪の隙間から見える、赤い目。私と目が合うと、不格好に口角だけあがり、白い手でガラスをもう一度。
──コツ、コツ。
ニーナが。
ニーナが目を覚ました。




