第三章 四話
「こちらは、ラジオ・クロノ」
わずかな間。
「4回目の合図のあと、丁度19時になります」
ぴ、ぴ、ぴ、ぽーん。
「ラジオ・クロノ。今日も正確に19時です。こんばんは、皆様。明日は雨。素敵な傘を差す準備は出来ていますか?さてお次は皆様の心を鷲掴み!おかしなお菓子で人気店!店主のキャンディ・カラーさんにお話を──」
トントン。
「っ!?」
ばっと振り返れば、仕事が片付いたらしいリベールがいつの間にか隣に立っていた。
蛍光灯の明かりが降る診療所。気付けばもう外もすっかり暗くなり、相変わらず雨音が大きく響いている。
跳ねた心臓を押さえながら振り向くと、灰色の瞳と視線が合う。彼女は軽いため息と共に肩をすくめた。
「旦那さま、本当にそのラジオお好きですよね」
「……驚いた、せめて声をかけてください」
「かけましたよ、2回も。でも旦那様ったら無視するんですもの」
リベールはこの数ヵ月の間に、随分肩の力が抜けたように思う。代わりに叱られることは増えたが。
「もうお夕飯の時間ですよ、仕事はおしまいにしてください。お嬢様もお待ちです」
「いえ、もう少し片付けてから」
「多忙なのはわかりますが、一旦休憩した方がいいですよ。今日は昼休みも返上しているの、分かってますよね?お昼も召し上がっていませんよ!」
じとっとした視線を向けられると大変居たたまれない。今日は日曜日。いつもより来訪する患者の数が多かったのは確かだろう。せっかく作ってくれた彼女の手料理を食べられなかったのは残念だ。
「今日は旦那様が構ってくださらないから、お嬢様も暇そうで暇そうで。ずっと御本を読まれていましたよ」
それはいつもの事だろう。
今の中身はトルバラン。普段は本を読んでいるイメージが強く、大人しい怪異だと思っている。
時折、謎の行動力を発揮するのを除けば。
(そういえば、この前は目玉焼きを焦がしてたな……なんだったんだあれ)
一週間前、彼がリベールが帰宅後に料理しようとしていたのを思い出す。笑顔で出されたそれは、灰の味がした。コーヒーの苦さは好きだが、あれは得意ではない。
「旦那様、旦那様?」
「え、あ、はい」
「もうっ、本当にお疲れのようですよ、全然集中できてないみたいですし……」
彼女の視線が、私の手元に注がれる。
「そこのカルテのスペル、間違ってますよ」
「えっどこです」
「ここ、ここですよ」
彼女が指差した所を確認すると、本当に間違っている。ボールペンで二重線を引くと、一つため息が漏れた。自覚がなかったが、本当に疲れているのだろう。
じっとりとした湿気のせいで、服が肌に擦れるだけでも気分が良くない。感覚も過敏になっているのだろうか。
「ありがとう、リベール。今日はもう終わりにします」
「ええ、そうしてくださいな。お夕飯もお嬢様のお気持ちも、すっかり冷めてしまいますわ!」
お嬢様。お嬢様か。以前のヴィレナ・フランという人物を考えればこんな日常はあり得なかった。
(遅いだのなんだのと、軽く文句を言われる気がするな)
きっと笑顔だろうが、チクチクと弄ってくるような物言いはされるだろう。
フランさんの、顔で。
(……ん?あれは、トルバランだ。フランさんじゃない)
理不尽を言ったり、人を嘲笑ったり、気紛れに人の尊厳を踏みにじったり。フランさんとは、そういう人だった。
(私は今、誰のことを考えている?)
目玉焼きを焦がしたり、水をティーカップでわざわざ飲んだり、太陽を見ようと言ったり、私を妙な呼び方をしたり、使用人に優しく接したり。
フランさんの筈がない。
だが記憶の中の人物は、全て彼女の顔をしている。
──これは、なんだ?
全身から、サァっと血の気が引いていく。
あまりにも、「ヴィレナ・フラン」の輪郭が、ぼやけている。
「リベール」
「はぁい?」
キッチンへと向かおうとする彼女に、声をかける。
「ここにくる前の彼女は、どういう人だったんですか?」
机の上のカルテが、クシャりと音を立ててひしゃげた。静かな診療所の中、バクン、バクン、と心臓の音が耳に届く。妙に落ち着かなくなって、足首を擦り合わせた。
こんな簡単に、人の記憶は塗りつぶされるものなのか?
「なんです~?いきなり」
「……いえ、もう少し彼女の事を知りたかっただけです」
彼女の過去を知れば、人間として記憶の輪郭が戻るかもしれない。そんな、悪あがきだ。
「そんなの、旦那様がよく知っているのでは?怪我も癒えたら記憶も消えちゃったんですか~?」
彼女のいう通り、この生活が始まる前の傷はとっくに癒えていた。根性焼きをされた舌の熱傷も、打撲傷も、内出血も、気まぐれに付けられた耳の切創や、体のピアスの傷も、もう痛まない。
「徴収に来ていた彼女は覚えていますよ。その時のことも。今でも近づくたび緊張を感じます」
「あっはは~、難儀ですねぇ」
嘘ではない。過去の夢も見て、何度飛び起きたか分からない。それも、時間が経つにつれ落ち着いてきている。
「ええ。でも、それ以外の彼女を私は……知らないので」
「やだな、知って何になります?もう旦那様は幸せでしょう?」
「……はい。彼女は変わったと思います。随分、大人しく」
「そうですよねぇ~、だったら別に──」
「だから、変わる前の彼女を知りたい。それだけです。昔は彼女の一面しか、見えてなかったと思いますから」
「……ふうん、例えば?」
リベールの声色が変わった気がして、カルテから目を上げる。
顔だけは軽くこちらを振り返り、口角は上がっている。ただ、眼は髪に陰ってよく見えない。
「彼女は恐ろしく、そして理不尽です」
「あは。間違いないですねぇ。辛い記憶は思い出したくもないと思いません?なら放っといても」
「でも人はそれだけではないでしょう。 彼女を恐怖だけで覚えておきたくないだけです」
スワンプマンが、血反吐を吐いてそれまで積み上げた何もかもを奪っていく。
そしてその周囲は、入れ替わったスワンプマンを喜び、歓迎し、あっという間に馴染んでいく。
誰も、本人が消えたことに気付かない。
(それがもし、自分だったら?)
考えても仕方ない恐怖が、つい彼女に疑問を投げた。それが藪蛇になると、薄々感じていながら。
「変なことを聞くんですね、旦那様」
ギ、ギ、ギ。と、いう音が聞こえてきそうなほど、彼女の体がゆっくりこちらを向き直る。その間も、首から上だけはぶれることなく、私から目線を外すことはない。
「……リベール?」
猛禽類のような視線だけは、彼女の主人と良く似ている気がした。ギュッと心臓を捕まれたように息苦しいのを誤魔化して、息を吐く。
たった数秒。二人の間に沈黙が落ちた。
「ぽっと出の男が何を、偉そうに」
「え?」
カツン。と革靴の音がなる。
顔を上げると、目の前に灰色の両眼がそこにあった。
「っ!?」
息すら肌に掛かる距離。
あまりに唐突な接近に体は固まり、動かない。
「今の優しい優しいお嬢様が、お好きなんでしょう?過去なんてあんたに必要無いじゃありませんか」
彼女は笑っていない。
ただ、声色だけが妙に熱を帯びている。彼女が言葉を発する時、口の動きが妙にゆっくりに見えた。
「私はね、旦那様。ヴィレナお嬢様に十何年仕えているんです。あんたよりもずっと。あの方の、何から何まで知っています」
「朝起きる時間、味の好き嫌い、好きな服、お気に入りの仕立て屋、好きな天気、文字の歪み、言葉の癖、興奮する拷問の種類や、私の肉体に与える痛みや、玩具にする男の趣味まで」
「お嬢様のことなら何でも知っていました。一寸の間違いなく、なんでもです。それがある日突然、全く意味がなくなる恐ろしさをご存知ですか?」
ギリ、と彼女の拳が固く握られる音が、静かに響いた。
「私のヴィレナお嬢様が世界のどこにも存在しなくなって、全く知らない赤の他人がヴィレナお嬢様として世界に存在する気色の悪さを理解できますか?」
「何を調べても、何処を探しても、世界の全てがあの別人をヴィレナお嬢様だと、本物だと指し示す証拠しか出てこない水中のような無力感を、経験したことはありますか?」
「あんたはあの別人を愛しておいて、何を今更お嬢様を知りたいとか言い出したんです?ただの貴方の自己満足に、私のお嬢様を使わないで下さい、貴方はただ分かったような気になりたいだけです」
「私のお嬢様は嫌いな人間なんて視界にいれるのも嫌なんです。だっていうのに貴方はお嬢様の視界に何時間映ったんですか?どれだけお嬢様の特別を独占したんですか?あれだけ寵愛を受けておいて、恐怖しか感じなかったとか本気で言ってるんですか?」
「ぐっ!?」
ガクン、と視界が揺れた。リベールが私の胸ぐらをつかんで、見開いた両眼で私の中身を覗き込もうとする。灰色のそれは奇妙なほどの熱で焦がされ、焼き切れているような淀んだ目。
「毎日毎日毎日毎日毎日、お嬢様はいないのに、肉に張り付いた皮膚が、あの方の顔をして笑ってるんですよ?吐きそうになりながら、あれをお嬢様と呼ばないといけないこの気持ちが、あんたに一ミリだって分かるんです?」
「ヴィクトル・ラヴェニ。お医者の先生。あんた、何か知ってますよね。私分かるんです、言いましたよね。私、嘘が分かるんです」
「あの別人が誰か、知ってますよね。あいつは誰ですか。私のお嬢様は何処、お嬢様に何が起きたのか教えなさい」
ギリギリと、衣類で首が締まる苦しさ。彼女の腕を押し返そうとするが彼女の力がひどく強い。
「……っリベー、ル」
知っている。私はこれをよく知っている。
大事な人が消えた現実を受け入れられない。
喪失に耐えきれず、感情の処理機能が壊れ暴走する。
感情任せの怒り。暴力。拒絶。
地下でトルバランを刺した私と、一体何が違うんだ。
「喋れよ偽善者!!私の、私のお嬢様はどこ!!!!」
──ギィ。
扉の音が聞こえた。
顔を上げると、開けられたのはキッチンの扉。リベールが振り向くと、隙間から見えたのは。
「何をしているの、二人とも」
穏やかな顔をした、ヴィレナ・フラン。
黒い癖のある髪に、光のない黒い目。深緑のショールを羽織り、影からチラリと見える胸元には、エメラルドのブローチが蛍光灯の光を反射して輝いている。
「私、待っているのだけど。随分遅いのね?」
声色は優しい。髪を耳にかける仕草すら品がある。私たちに向ける笑顔は、悪意や暴力性など一切抜け落ちている。
シトラスの香りは、全くしない。
(──トルバラン)
私にとって、あれは本物の怪異。
リベールにとって、あれは偽物の主人。
「あら、お嬢様」
張り詰めた空気の中、先に声を発したのはリベールだった。表情は見えない。
「旦那様に埃がついていたから、取っていただけですわ」
「あらそう。ありがとう、リベール」
「いえ、当然のことですから。それでは私、もう19時ですから。失礼いたしますわ」
声色はいつも通り。美しいカーテシーは一度だけ。
メイド服を翻し、さっさと玄関へ向かっていく。一瞬見えた彼女の顔は、何ら変わらない、普段の笑み。
赤い鮮やかな髪が、玄関口を潜ってゆっくりと闇夜と雨の中に消えていく。
パタン、と乾いた音がした。
「旦那様、お体は」
「……」
思わず訝しげな目線をトルバランに向ける。今のこれで、よくもヴィレナさんの振りをした台詞が飛び出すものだ。
黒い双眼は暫く扉を見ていたが、帰ってこないと分かると私を一瞥し軽く肩を竦めた。
「言い返せばよいものを」
「どの口が言うんですか」
トルバランが笑う。
それで、緊張の糸が切れてしまった。カルテをしまいながらため息をつく。
正直、リベールがあそこまで壊れているとは思っていなかった。こればっかりは、下手に藪をつついた私が悪い。
「……彼女には悪いことをしました」
「む?なにかしたのか」
「おそらく地雷を踏みました。聞いてなかったんですか」
「私も万能ではない、異常を検知したので首を突っ込んだだけだ」
「タイミングよく野次馬をしに来ただけだと?」
「ああ」
ああじゃない。この怪異にはやはり、人間の情緒を感じ取るなどというのは、難しいのだろうか。
「棚上げは承知ですけど、貴方が半分は悪いですよ」
「ふむ……叫んでいた内容から察するに、ヴィレナの肉体のことか」
「彼女は生きていたんですよ」
「知っている」
「二度と戻らなくなることも?受肉組成録なんて書いておいて」
「魂の再生は私の技術でも不可能だ。何度も言っている」
「ならどうして、人を殺したんです」
「言ったろう、都合がよかった」
トルバランを睨み付ける。
彼は言葉では人格を重要視するようなことを言いながら、その実自分の観察対象でない「その他」に対する扱いがあまりにも浅い。
危険だ。下手に悪意をもつ人間よりよっぽど悪質だ。
「貴方にとって人間というのは、それほど軽い玩具なのですか」
「玩具?まさか。私は人間が好きなのだ」
不思議そうな顔で、彼は首をかしげた。
ゆっくりと腰を折り、座る私に視線を合わせた。深淵のような瞳の中に、反射した景色が映る。
「特に、ヴィクトル。おまえだ」
にこりと微笑まれても、甘く名前を呼ばれても。そんな特別扱いなど、私には嬉しくもない。
「違いますよ」
彼が目を丸くした。
人間観に口うるさい彼が、私の次の言葉を待っている。さらり。と長い黒髪が彼の肩から流れ落ちた。
「あなたが本当に好きなのは、あなたがつけ込みやすい人間です。支配の仕方は違えど、フランさんと何ら変わらない」
彼の言う、煌めき。
人間が地べたで泥をのみながら、助かろうともがく様子。水溜まりに落ちた脚の多い虫を眺めるのと、一体何が違うのか。
そうでなければ、リベールにも目移りしている筈なのだ。性格は違えど、立場の変わらない私たちの違いは一つだけ。
この怪異を、受け入れたか、拒絶したか。
「あなたは正真正銘、化物ですよ。トルバラン」
「新たな知見だな。考慮しておこう、ヴィクトル」
至って真面目に、考えるような仕草をする。
「だが」
トルバランが、ブギーマンが、嗤った。
「おまえは、私から逃げられない」
白い指が、私の頬を撫でた。
冷たい手。死人の手。化け物の手。
そのまま指は私の唇を触り、柔らかさを楽しむように何度か押し返す。
「おまえが望む限り、私はおまえを支援する。希望さえあれば、おまえは必ず立ち上がる。壊れきらない"ヴィクトル"としての罪深いエゴが、きっとそうさせる」
はあ、と熱に侵されたような吐息が、彼の口からこぼれた。
「煌めきを見せたまえ、それがおまえの罪状だろう?」
すり、と彼が額を合わせてくる。
彼の目付きは、お気に入りのテディベアを眺めるそれと、何らかわりない。少なくとも、私には違いを見つけることが出来なかった。




