第三章 二話
「なんできたんですか」
「観察対象が動くのだ。当然だろう」
翌朝。午前中のみ晴れる予報だったので、買い物を済ませようと家を出ると何故か彼がついてきた。
(日光がダメというわりには普通に外に出るじゃないか)
家を出て、町に向かうまで二十分そこそこの道のり。足取りが軽いのは彼だけだ。
「日傘は最高の発明品の一つだ、影の者ですら日常に溶け込める」
「よっぽど日焼けしたくない貴婦人に見えますけどね……ちゃんと前見てくださいよ」
「人が栄えれば我らも栄える。常に未来という前を見ているよ。当然だとも」
「トルバラン、会話ってできます?」
嬉しそうに渡した傘を差している。くるりと彼が傘を回せば、パッと見は実に優雅で幼さの残る少女の振る舞いだろう。
腐っても彼の姿は今、ご令嬢のヴィレナ・フランなのだ。 暗闇の残る早朝なら誤魔化せるだろうが、日は既に上り空は白んでいる。人の目にもつくだろう。
下手な噂が立つ前に、事を終わらせたい。
「……あなた、町で人間をいきなり食べる、なんてことないでしょうね」
「そこまで無節操ではない、下品だろう」
「人食いの貴方のことが分からないから確認を取ってるんですよ」
「私の食性を理解したいと?構わない。まず丸のみにするわけではない。必ず細かく刻んで──」
「詳しく話さないでください」
冗談なのか本気なのか。常に声のトーンが一定なせいでひどく分かりづらい。その上今は帽子で表情も隠れてしまっている。
分かるのは、流れ落ちる黒髪が歩くたびにゆらゆらと気紛れに揺れていることぐらいだ。
「頼みますから、町に着いたら大人しくしてください」
「理解しているとも。私は常に従順だ」
「……彼女の姿でそれをされると不自然極まりませんね」
「ああ。未成年を丸め込んだ男として有名になるだろう」
「…………………」
社会的な死。
脳裏によぎったその言葉に、思わず足が止まった。そういえばそうだ。色々あって実感が薄れていたが、そもそも「彼女」は本来、未成年なのだ。
成人目前とはいえ、そして本人と家族に意思を取っているとはいえ、肉体関係がないとはいえ。
字面で見れば犯罪臭がひどい。
「どうした、ヴィクトル。珍妙な顔をしている」
ギギ、と顔を上げれば視界が陰る。
少し腰を曲げて私を覗き込む少し濁った黒い瞳。相変わらず光が宿っていない死者の冷たい瞳。
「……いえ。改めて、事の重大さを実感していただけです」
ふぅん、と腑に落ちたような、少し興味が削がれたような気の抜けた返事が返ってくる。そうして、彼がゆっくりと離れ、また歩き出した。
追い付こうと、彼の斜め後ろに歩く。トルバランは一瞥だけしたと思ったら、歩幅がわずかに遅くなる。
「私の振る舞いは他者から学んだものだ」
隣に並んだ彼が、町をまっすぐ見ながら続ける。
「貴婦人の仕草は問題ない、カーテシーでもして見せようか」
「しなくて結構です」
この化物にとって、人間の社会性をどこまで理解しているのかはわからない。しかし、ある程度の知識として知っているのはよく分かった。
立つ噂の種類をちらりと脳裏で考えただけで憂鬱な気分になる。しかしこの状況を否定する気はない。
私の妻はこの怪物で、この怪物に私は救われている。それなら、放り出すことは出来ない。
(トルバランが外で人を襲うとは思ってないが、万が一もある)
彼の仲間であるブギーマンたちによる無差別な虐殺は起こっていない。殺人鬼が闇の中で多く存在するのに暴れていないのならば、それなりに枷があるはずだ。それを理解さえ知れば御しやすい、かもしれない。
それは弱点。例えば日光の出ている間はだめ、とか。
それは趣向。例えば童話から子供しかだめ、とか。
ほとんど仮説にすぎないが、他に考えられそうなのは──。
「ところで」
鈴のような声が不意に鼓膜を打つ。
思考が途切れ、現実が戻ってくる。湿気た土の匂い。灰色の空、遠くに見える陰る街、雨粒の残る汚れた雑草。濡れた地面を歩く重い音。
「これから何を買いに行く」
「知らずについてきたんですか」
彼が言葉の無いまま頷いた。
この純粋な表情だけなら、人はきっとこれを化物だとは思わないだろう。
「ブーダンノワール。あなたのご飯です」
…………
ブーダンノワール。
豚の血と肉と脂、香辛料などを使って作られた血のソーセージ。ネブロンでもごく普通に食べられる食材で、主に茹でたり焼いたりして調理するのが一般的だ。
「何故それを選んだ」
「人の食事をしたいなら、貴方の食性に近いものから慣れた方がいい。そう思っただけです」
「なるほど」
肉屋にはここしばらく馴染みは無かった。彼が私のもとに来るまで。そして彼が妻という席に座ってから。理由は違えど、長い間来るきっかけを失っていた。
自炊をする気力も時間も金も、なにも無かった。
「……」
灰色の町の中を少し歩くと、可愛らしい豚の吊り看板が見えてくる。石段を登って赤い扉の取っ手を掴んだ時、ほんの少し体が止まった。
「?どうした」
昔はここの肉をよく買いに来ていた。
二人分。
「いいえ、何も」
カラン、と乾いた軽快な音が鳴る。
暇そうにレジで肘をついていた人懐っこそうな青年が、客の私に気付くとパッと笑顔を咲かせた。
知らない顔だ。人が変わったのだろうか。
「いらっしゃい」
青年の視線は一度私を見て、隣にいる「彼女」に向けられる。肉屋に身なりのいい女性がくるのは珍しいのだろう。わずかな間だけ目を丸くしたが、すぐに笑顔を直した。
「ト……ヴィレナさん」
扉を開いてトルバランを誘導すると、軽く頷いてパチンと傘を閉じる。どうやら本当に大人しく従ってくれるようだ。
「何にされます?」
「ブーダンノワールを1つ」
リベールには家を出る前、用事があるから退勤を昼頃にしてもいいと伝えてある。彼女は特に理由を聞くでもなく、素直に従ってくれた。
夫婦という都合上、「用事」への好奇心が見え隠れしていたが予想しているものとは違う。
(勘違いしてくれているなら、それでいいか)
トルバランという未知の化物の為に夕食を作る。そんな事を伝えて面白いことはない。
「品揃えが豊富ね」
当の本人は吊り下がった干し肉を呑気に見ていた。食人殺にとって人間の肉を見る感覚と、その他の食用肉を見る感覚に差はないだろうに。何が面白いのだろうか。
(そういえば食べるときは細かく刻んで、とか言っていたな……)
軽く想像して、すぐに思考を振り払った。あまり考えていると気持ち悪くなりそうだ。現に胃の奥が既に重苦しい。いや、これは元々か。
「1つしか買わないのですか」
店員の動きを見たのか、急に彼が話しかけてくる。
「あなたの分です、私はいりません」
不思議そうに首をかしげたあと、彼はゆっくりと私の耳元まで顔を寄せ、声を潜めて尋ねた。冷たい息が耳を撫で、背筋がぞっとする。
「ヴィクトル。家庭は共食が人の常では?」
「……半分に切り分けたらいいでしょう」
「定量は?」
「1本丸々は、胃がもたれます」
「あれよりうまいのか」
低い声のトーンは変わらない。真っ直ぐ見つめる先には、店員の青年。全く気づかず、後ろを向いて肉を袋に詰めている。
「外で襲うのは下品ではないのですか」
トルバランが何か言いかけた時。
急に店員がぐるりと振り向いた。
「そうだ、今日おすすめの肉が入ってるんですけどついでに……どうかしましたか?」
雰囲気がおかしいのに気付いたのか。私たちを交互に見て小首をかしげる。
「このお肉も、美味しそうだと言ってたんですよ」
私が答える前に、「彼女」がショーケース内を指差して笑う。横目で見れば既にいつもの上品な振る舞いに戻っていた。にこやかに細められる目は、先ほどまで鋭く青年を見ていた者と同一だとは思えない。
「ええ、ああ!それは今日解体したばかりの新鮮なやつでして」
「あらそう、何のお肉ですか?」
そのまま私を置いて、雑談まで始めてしまった。その日常に馴染む姿がどうにもごく普通の人間にしか見えず、不快感が心に滲む。
(食べる気はないだろう、ただ、普通に会話をしているだけ。化物の癖に)
トルバランのような人に紛れた怪物はどれほどいるのだろうか。一目に判別はできない。たとえ二人きりになったとして、相手が牙を向くまで警戒ができない。
「……」
「フランさん」と対峙していた時のような、理不尽への嫌気を覚えた。きっと正体が分かっているトルバランに襲われたとしても、私は抵抗が出来ないだろう。
あんな大きな怪物、どう抗えというのか。
「じゃあこれも」
「はい、まいど!」
「え」
ふと気が付けば、青年がショーケースを開けていた。どうやら会話の中で肉に興味を示したようで、それが何の肉か私には分からないまま話が進んでいるようだ。
隣の「彼女」を見れば不意に視線が交わった。すぅっと目が細められる。
「構わないでしょう?」
主導権は無さそうだ。
頷くと、肉屋の青年がいっそうニコリと笑って肉を包み始めた。これは思考に耽って話を聞いていなかった私が悪い。しかし、宝石ならまだしも肉をねだる令嬢がいるだろうか。
「どうぞ。どうしましたか?旦那さん」
肉屋は笑顔で商品を渡してくる。トルバランが演ずる令嬢は違和感がないようで、大人しくしていろ、という言いつけを守っていると言える筈だ。
この空間で顔をしかめる私が、一番浮いているだろうか。少し眉間をほぐす。
「いえ、なんでも」
彼に何かを伝えたところで意味はない。日常をわざわざ失言で壊すなど、その後の始末を考えれば処理する気力はない。トルバランが私の手から商品を取り、耳元で礼のような言葉を言った気がした。
「仲が宜しいんですね」
「……ええ、はは」
無理に微笑んだ顔は、引きつってはいないだろうか。「彼女」は当たり前のように私の隣で微笑んでいた。
…………
夜。雨音が重く枝垂れに落ちる頃。
室内では蛍光灯の明かりと肉の焼ける匂いがキッチンに広がっている。
ブーダンノワールの調理は簡単だ。
皮のまま少量のバターを敷いたフライパンで熱する。片面がカリッとしたのを確認し、ひっくり返すと皮が裂け、身が出ていた。
暫くぶりの調理だ、中々手こずる。
「これが代替品か」
「うわ゛っ!」
唐突に全く聞きなれない低い声が耳元で聞こえた。
思わず振り向くと私より大きな体格の怪異。猫耳のついたローブをかぶり、顔の部分が真っ黒に塗りつぶされているせいで不気味極まりない。
これがトルバラン。明るい場所で見たのは初めてだ。
しかし、急に耳元で至近距離で喋ってくるのだから本当に驚いた。軽い苛立ちと焦りに顔をしかめる。
「ちょっと、近づかないでください!」
「む……」
「油が跳ねてるんですよ、熱いんですから座っててくださいっ」
「問題ない。私に肉体的なダメージは──」
「いいから、怪我をするから座りなさい!」
「………………………………理解した」
渋々。という雰囲気で、トルバランは豊かな二股の尻尾をゆったり揺らしながらキッチンテーブルにつく。しかしその視線(首の動き)は頑なに私以外を見ようとしない。
ローブの中は黒。ただ黒がある。
渦巻いて飲み込まれてしまいそうな深い黒。
「……っ」
不気味で思わず目をそらす。肉の調理に戻っても、背中に刺さる視線のせいで居心地が悪い。
雨音がぼとぼと、と重く重く窓を打つ。
肉が程よくなってきたらキッチンペーパーで油を切り、皿に盛り付けようとしてぼろりと中身がこぼれた。
「…………」
まあ、仕方ない。
リベールが作り置きしていたマッシュポテトを隣に添えて、上に少量のハーブでも散らせて置けばましな食事になるだろう。 あの猫男に摂食不可の食品があるかは分からないが、人の肉を食うのだ。きっと問題はない。
「どうぞ」
カタン、と皿とカラトリーを差し出す。
しかし私が対面に座るまで彼は微動だにしない。彼の興味は私から料理に移ったようだ。不思議そうに肉の断片をじっと見ている。
彼が胸につけたブローチが、毒々しく緑に輝いていた。
「どうしました」
「ぼろぼろだ」
「……さっさと食べてください。必要ならスプーンも出します」
今度は彼の姿から目を反らさない。
食事の最中、もし姿さえ見なければ人間との食事と錯覚できるだろう。けれども、私はこの瞬間だけは必ず確認しなければいけない。
この食事は重要な試行だ。
人の食べる肉に満足出来なければ、トルバランは私を食べる。そして、ニーナに再会する可能性はきっと閉ざされる。
それを考えたら、正面の「黒」を覗き込む恐怖など些細なものだ。
「ボナペティ」
乾いた唇で、言葉を発した。
トルバランは真似するように「ボナペティ」と発した後は何も言わず、カラトリーに手を掛ける。銀の食器が小さく音を立て、フォークの先が黒々しい肉の破片にゆっくりと埋め込まれた。じわりと傷口から肉汁が溢れ出し、その身から垂れていく。
カチャリ。
そのまま、トルバランは口付近にフォークを近づける。一つ瞬きをした後には、既に肉片は無くなっていた。
──。
───。
────。
彼が黙っていたのは、僅かな間だった。しかし、長く静寂が支配していたようにも思う。
無意識に止めた呼吸が苦しくなる頃、ようやく彼が口を開いた。
「共食をしよう」
そうして、もう一度同じようにパクリと食べた。
重苦しい肩の荷が降りたと思ったら、窓の雨音が一気に、ざぁと鼓膜を穿った。
□□□
「トルバラン」
「なんだ」
皿を洗いながら呼び掛けると、素直に返事が返ってきた。まだ、キッチンの椅子で座っているようだ。
「これで、もう人を殺さないでくれますか」
「何故」
食器の擦れる音。蛇口から流れる冷たい水。スポンジから溢れ出す汚れた白い泡。食事の残り香を感じながら、彼に言い聞かせる。
「そういう約束だったでしょう。それに、あなたはこれから、人として暮らす。そして食事の代替品もある。罪に手を染める必要はないはずです」
「できる限り従おう」
食器を洗う手が無意識に止まる。
「できる限り、ではありません。全てにおいてしたがってください」
「人は物を食わねば死ぬ。怪異も人を食わねば死ぬ。単純明快だろう」
同時に、ギィ、と椅子を引く音が聞こえた。
「人間は物語を作り、口伝し、我らの恐怖を伝播させ利用する。その報酬に少し肉を分けて貰っているだけのこと」
コツ、コツ。と数歩、革靴の音が聞こえた。いる。私のそばに。私の隣に。氷のように冷たい手が、私の肩に掛かる。
「つまり、我々と人間は常に善き隣人なのだよ、ヴィクトル」
耳元で、低い声が囁いた。
「我々は人の創作物から生まれた、実体を持たぬ寄生生物だ。しかし、その本質は人間との共生と呼べるだろう」
蛇口の水が私の肌を滑り落ち、あかぎれを濡らしてチクチク痛ませる。
「人間は我らに人間への加害を定義した。そして、我らは従順にそれを守っているにすぎない。だというのに、改めて拒絶するなど、酷ではないか」
彼の指は私の頬を滑り落ち、片手で私の首を軽く圧迫した。
すこし、息苦しい。
「どこかの国では、隣人を愛せよ、というだろう。ヴィクトル」
──キュ。
蛇口を捻って水を止めた。
僅かに、彼の手の拘束が緩む。
「だから人殺しを認めろと?何言ってるんですかトルバラン」
正面の窓から見える雨は、まだやまない。
反射した私の顔は酷く落ち着いていた。
「私は、あなたが人間として生きる為のルールを話しているんです。論点をずらさないでください」
トルバランの手を首から引き剥がし、振り返る。元々力はあまり入っておらず、彼はされるがままだった。
「二度と、は無理だと分かりました。それが逆らえない性であることも」
飲み込まれてしまいそうな黒が、相変わらずそこにある。表情は分からない。しかし、真っ直ぐ私を見ている。
「ですが、あなたが私の隣で生きている間は我慢しなさい。未来永劫の制約じゃ無いんです。出来ますね?」
「ふむ、しかし」
「しかしじゃない」
「………………可能だ」
彼のローブについた耳が、あからさまにヘタっている。屁理屈を言って人食行為を煙に巻こうとしていたが、言い返され少し拗ねているようだ。
「約束です、小指を出して」
トルバランが不思議そうに小首をかしげ、素直に出してくる。お互いの小指だけを引っかけると、彼が調子の戻った声色を出した。
「これはなんの儀式だ」
「約束の時にするでしょう。ただの形式的なものです」
「口頭で済むものを、わざわざか」
嫌みでないことは分かる。じっと興味があるものを見るのは、もう彼の癖なのだろう。この猫男が幻覚だとは、私にはとても思えない。
「"貴方が約束を守りますように願いましょう。約束を破ったなら舌を抜いて海に撒いてしまいましょう"」
もはや形骸化した約束事を口にする。約束を破った程度でそんなことをしているような人間などいない。彼も子供騙しの儀式に退屈なのか、肩をすくめて見せた。
「不毛な、私には肉体がない」
そっちか。
「形式的なものと言ったでしょう、それにあなたは罰がなくても約束を守る」
「…………」
「ほら、終わりですよ。皿の片付けを手伝ってください」
皿を押し付けられた彼は一拍の間固まっていたが、すぐ大人しく従ってくれる。後ろを向いて戸棚に向かう彼の尻尾が、ピンと立ったまま歩行に合わせて揺れていた。
トルバランは元より、私を傷つけるつもりなど無かったのだろう。喉を絞められた時、一定以上は絶対に力が入らなかった。
盲信はしていない。ただ、ルールの範囲内では信じてもいい。
少しだけ、そう思っただけだ。




