第三章 一話
「……ん、あめ、か」
簡易ベッドの上でぐったりと横たわりながら小さな窓に目をやると、雨粒が落ちているのが見えた。白い朝日が雲を突き抜け、起きたての目に刺さる。
随分と眩しい朝だ。
時計の確認すらしていないが、体感でわかる。まだ診療所の開く時間ではない。思考は霧がかったように纏まらず、遠く聞こえる雨音を感じていた。
まだ仕事の時間でないなら、ゆっくりしていても問題はない筈だ。
「……?」
不意に脳内でフラッシュバックする黒い影。
光が瞬く部屋。壊れた蛍光灯。倒れた女性の肉体。怪しげに輝く緑のブローチに、フードの中の真っ暗な空間。
深淵から私を見据える、強烈な視線。
「!」
ガバ、と跳ねるように体が起きた。
胸に手を当てればドク、ドク、と心臓は鼓動し、全身から嫌な冷や汗が吹き出す。
「な、なんだったんだ、夢……?」
今、自分がいつもの部屋に横たわっていたことを考えると、夢だと言う方が説得力がある。あの奇妙な出来事は夢の出来事で、リアリティが高すぎて現実と見誤った。きっとそうに違いないのだ。
だって、あんな化け物、現実に存在する筈がない。
「ヴィレナさんは無事か……!?」
夢のなかで殺害した女性の事を心配するなど、荒唐無稽もいいとこだ。けれど、姿が見えないことに不安を感じてしまう。夢の事を話して笑われても構わない。
寝巻きのままあわてて部屋をでて、キッチン方面へ向かう。二階への階段はその奥だ。
──カタン。
扉に手をかけようとして、小さな物音が確かに聞こえた。時間的に使用人のリベールはまだ来ていない筈だ。となれば、私以外でこの家に居られるのは一人しか居ない。
「……ヴィレナさん?」
彼女が、すでに起きているのだろう。
キッチンに立っている彼女は想像が難しいが、紅茶でも淹れているのだろうか。
ともかく、彼女が無事なようで少し安堵のため息を漏らす。死んでいたら、紅茶さえ作れない筈だ。なら警戒心などは必要ない。奥にいるのはただの少女なのだから。
ドアノブに手を掛けて、扉を開ける。
──ギィィ。
ふわり、と漂ってきたのはコーヒーの香り。
閉め切られたキッチンの窓はタオルで雑に光を遮り、部屋を照らしているのは蛍光灯の白。黒い長髪を腰まで伸ばした彼女は、背を向けて立っていた。
「あの……」
コーヒーを淹れる手が止まり、不意に彼女が振り返る。
「おや、起きたかねヴィクトル・フラン」
真っ黒な瞳が私を捉えたかと思えば、すっと細められる。口角は上がり、彼女らしくない口調と落ち着いた声色が溢れ出る。
「お前のために淹れたのだよ」
言葉が示すのは明らかにコーヒーの事だろう。
彼女は、そんなものは飲まない。他者のために淹れようだなんて、きっと思わない。
だから、コレは彼女じゃない。
「……トルバラン、ですね?」
彼女の目が僅かに見開かれた。口許の笑みは消え、驚いた表情を隠さない。しかしそれもつかの間の事。
「ああ、ヴィクトル。私だよ」
この化け物は、嬉しそうに微笑んで見せた。
□□□
「……」
「うまいか」
「……あの、飲みづらいんですが」
「そうではなく、感想を言え」
キッチンテーブルでコーヒーを飲みながらも、じっとまばたきをせず真顔で観察してくるヴィレナさん、もといヴィレナさんの死体に取り憑いているトルバラン。
折角コーヒーの素材としてはいいものを使っているのに、これでは気になって味を楽しめない。
「だから、あんまり見られると嫌なんですよ」
「問題ない。感情と味覚は影響しない」
「します」
真顔のまま、小首をかしげるトルバラン。
やけに人間味を感じるが、これの正体はローブを被った大きな化け物だ。
「……夢じゃ、なかったんですね」
「何が」
「おまえのような化け物がいることです」
食卓に肘をついたまま、彼は不思議そうにまた小首をかしげた。もとより幽霊や怪物と言ったものは信じてはいない。
目の当たりにした今も、信じられない思いが拭えない。
「ブギーマン、と言いましたか。子供を攫う怪物がなぜ未だここに?」
「言わなかっただろうか、本の回収だよ」
受肉組成録。ニーナを再生する方法が載った怪しげな本。目の前の怪物が綴った、正気の飛んだ内容の。
「回収したらさっさと姿を消せばよいではありませんか。何故留まっているのかと聞いているんです」
「最もだな」
「ええ……?」
意外とあっさり首を縦にふる彼に、肩透かしを食らったような気分だ。白い指先で長い黒髪をくるくると巻き付けながら、彼は楽しげに目を細める。
「既に回収は迅速に、そして達成した。王命だ、当然だろう」
どういった手品か。一つ瞬きをした後には、白い手の中には髪ではなく緑の装飾が施された、あの本がある。
「だが、少しぐらい遊んでも問題はないだろう?事は早く済んだのだから」
あの本がなければ、私のニーナの体を再生する目的は達成できない。それをわかっていながら見せつけてくるのは嫌みか何かか。
彼は表紙に視線を落とし、愛おしそうに指先で撫で上げる。
「私はお前に興味がある。ヴィクトル・フラン。だから私はここにいる」
瞬間、視線が私を居抜き、ぞっと背筋に薄ら寒いものが走る。興味があると言われても、こんな怪物の興味を引くような事をした覚えはない。
「この椅子に座るまで、なかなか時間が掛かった。可愛い妻を褒めはしないのか?」
ギシ、と彼女の座る古い椅子が音を鳴らす。
この怪物の言う言葉はうまく理解が出来ない。からかうように僅かに上がった口角も、敵意の無さそうな目線も信じられるわけがない。
「あなたは、ヴィレナさんに化けているのですか。それともその体は本当に彼女のものなのですか」
「本物だ、彼女を殺した上で私が使っている。触ったらいい」
抵抗もなく、すっと手首が差し伸べられる。
きっと彼にとっては小さな意味もない動きなのだろうが、僅かな希望は打ち砕かれた。
本当は、ヴィレナ・フランはまだ生きている。そんな脆すぎる希望。
「あなたは」
「ん?」
「あなたは、その椅子に座るためにどうしてヴィレナさんを選んだのですか」
彼が、どういう経路をたどって私を見つけたのかはわからない。しかし、どうしてよりにもよって彼女だったのか。
私の問いに、彼は少しの間思案するように空を見上げた。首を動かすたびにさらりと流れ落ちる黒髪だけが、あの頃の「フランさん」と変わりない。
「都合がよかった」
薄く形のいい唇が紡いだのはその一言だけ。
冷たい言葉に眉を潜める。この怪物は、人間を個人として見ていない。
彼女が酷い性格だったとして、彼女を愛していた家族は存在する。リベールもその一人だ。
「……っ゛」
いや、倫理観に訴えたとして、意味はないだろう。
口の端を噛んで、出そうになる感情論を飲み込む。
「トルバラン」
「ん?」
「二度と、人を殺さないでください」
「安心したまえ、余分な殺しはしない」
「そういう問題ではありません」
必要だからしない、のではなく元々してはいけない。それを彼はわかっていない。
「人の社会は法によって定められています。殺人は重罪です」
「ああ、理解している。だが見つからなければ問題はない」
「いいえ。一度疑われてしまえば、人々からの信頼は落ちます。それはあなたが人として生きる上で不都合になる」
人間の倫理は彼に通じないのは分かっている。だが、「人間の妻」という席に座る以上、私の目の届く場所にいる以上、放置は出来ない。
「貴方は私に興味があるんでしょう。だから彼女を犠牲にした。だったら、彼女として生きるのなら、まずは人の法に従いなさい」
「ふむ、ある程度は許容しよう」
「ある程度ではなく、全面的にやらないでください」
「しかし、私は人の肉を食らう怪異だ。食べなければ死ぬ」
だったら死ねばいい。と反射的に出そうになった言葉を飲み込んだ。化物の都合など私は知らない。人食いをやめられないのならば生きること自体が罪だろう。
だが、そんな不快感を表沙汰にしたところで彼に通じるとは思えない。
(……それに私は色々と助けて貰っている。なら少しぐらい付き合うのが道理だろう)
たとえ、それが私を観察する為の副産物だったとして。
結果論から言えば、この怪物を完璧に弾圧できるほど私は純白ではない。今、こうしてノック音を気にせずに平和に生きていられるのは、間違いなく彼のお陰ではある。
人間社会の倫理や常識と、個人的な恩。
それを天秤にかけるのなら、どちらが重いとも私は言えない。だったら、個人的な感情は排除して人間社会に彼を適応させる方向にシフトさせた方が早い。
私には、この怪物を帰らせるような技術はないのだから。
「豚肉や牛肉など、他の肉では駄目なのですか」
「さあ」
「試したことは」
「自らの食性について省みる時間は無かった。ブギーマンはみな人の肉を食うし、怪異のそれに興味が湧かない」
「……お前みたいなのがあと何匹いるんですか」
「人の子の数だけ」
「嘘言わないでください、見かけたこと無いですよ」
「表で活発に行動するものは少ない。しかし、世界中でどれだけの行方不明が起きていると思う?きっとお前の思うより多い」
考えたくもない。こんな寄生生物のような生き物が他にも無数にいるだなんて。
くるり、と指がもう一度彼女の髪を巻き付けた。少し考えるように暫く空を見て髪をいじっていたが、不意に目線に意思が戻る。
「だが、試してみよう。お前が試せというのであれば」
「……何で私基準なんですか」
「夫の言うことは従うのが妻というものだろう」
「なら最初から従ってください」
「気分と納得感による」
「ええ……」
彼は本当に何を考えているのだろうか。表情は大きく変わらず感情が読み取りにくいが、空気は軽い気がした。
意志疎通は、出来ただろうか。少し肩の力が落ちる。
「だが、もし他の肉が気に入らなければまた人を食うだろう」
「え?」
気を抜いていたせいで簡単な声しか出せなかった。彼は無表情のまま、ただまっすぐ私を見た。
からかっているのか、本気なのか。わからない。
「また食人を始めたとき、私はお前を食らおう」
「は!?」
「当然だ。お前は死者を出したくない。しかし私は人を食いたい」
カタン、と音を立て彼は立ち上がる。コツ、コツ、と無機質なヒールの音をならして私に近づき、ゆっくりと指先を取り、撫でた。
「なら、お前の指を1本ずつ齧っていくのが最適解だろう?なぁ、ヴィクトル」
その光を写さない真っ黒な目には、冗談やからかいといった色は何もない。本気で条件を満たす方法を提案している。
私の手をつかむ指先は、氷のように冷たい。
「お前は素晴らしい」
こつん、と額に冷たいものが触れた。
いつのまにか、彼が眼前まで近づき、お互いの鼻先が触れそうなほど近い。真っ黒な瞳は、私の奥底の意志さえ覗き込もうと瞬き一つ起こさない。
「小さな子どもたちより、ずっとね」
──コン、コン
玄関の扉から響くノック音。彼の目線がぎょろりとそちらを向き、一度私を見てゆっくりと離れていった。
「は、はぁ……!」
無意識に息を止めていたらしい。
何度か重く呼吸を繰り返す。体が呼吸で動くたび、血流が勢い良く流れていくような感覚がした。
緊張や恐怖は、本当に疲れる。
「おはよう、リベール。時間通りね」
遠くではヴィレナさんに化けたトルバランが、リベールと話す声が聞こえてくる。2ヶ月の間行われてきた、日常の一部。
ようやく落ち着いたと思ったそれが、化物に侵食されていたとしたら。
「どうしたらいいんだ、私は……」
リベールがキッチンに顔をだし、ぐったりとした私を見て不思議そうに首をかしげた。赤い髪の後ろに、黒い彼が佇んでいる。
ぱちり、と目線が合うと、彼はほんの少し笑った。




