フォルシェン・デアパウ
初日、僕たちは早々に紅玉楼を後にした。
あのまま居座ったとしても、これ以上の情報は望めないだろう。
少なくとも常連客にでもならなければ、噂以上のものは掴めない。
初日にして、マダム・シュランゲと顔見知りになれたのは――それでも上出来だった。
まだ、宵の口で、辺りには酔客が溢れている。
それにしても。
僕は隣を歩くユノを見た。
「あー、早く服脱ぎてー」と、首をコキコキ鳴らしている。
「……ですわ」
思わず呟いた瞬間、
僕はぶん殴られた。
「ったく、アレのおかげで最低限の情報が得られたんだろ?!」
もちろんその通りで、全面的に僕が悪い。
僕が悪いけれど……。
「ユノア様にしては、上出来でしたわ」
と、リシアが追い打ちをかける。
結果、
僕はもう一度殴られた。
そんなアホなことをしていると、
「やあやあ、君たち!」
後ろから、やけに陽気な声がかかる。
振り返れば、あの派手な孔雀王子。
……っていうか、外でもその格好なのか。
まあ、僕たちも大概だけど。
仮面が派手なだけに、色々と奇抜な格好をした人間が行き交うアウターヴァルでも、彼はそれなりに目立っていた。
「えっと、なんですの?」
ユノは恐ろしく冷たい目で僕を一瞥してから、男に問いかける。
「君たちに、渡したいものがあってね!」
男はそう言って、懐から何かを差し出した。
狼……いや、犬だろうか。
いびつな獣をかたどった小さな瓶。
中には、金色に輝く液体が揺れている。
「本当はさっき渡したかったんだけどね!
マダム・シュランゲに睨まれては敵わん。まったく、あれは恐ろしい女だ」
男は笑った。
……あなたが問題行動ばかりしているからじゃないだろうか。
「で、これは何ですの?」
ユノが問う。
男は辺りを素早く見回し、ユノに耳打ちする。
「一口飲めば、すべてを忘れて幸福になれる薬さ」
その瞬間、ユノの目が、すっと細くなった。
僕とリシアに一瞬だけ目配せをすると、
次の瞬間には男をひねり上げ、路地裏へと引きずり込んでいた。
スカートの中からナイフを抜き、男の首元に当てる。
「てめぇ、何者だ。
俺たちに麻薬を売りつけて、どうするつもりだ?」
「ひっ……!」
男は情けない悲鳴を上げたあと、
「意外にワイルドなんだね。でも、それはそれで――」
などと、わけの分からないことを口走る。
「違う違う、売る気はないってば!
僕も貰ったんだよ、常連客にね。
そいつは“マダムから貰った”って言ってた」
ユノはさらにきつくひねり上げ、男の表情をじっと覗き込む。
数秒後、ふっと力を抜いた。
「……嘘は言ってなさそうだな」
解放された男は、パンパンと服の埃を払う。
「いやはや、なかなかの力持ちじゃないか。
本当に気に入ったよ」
「そりゃ、どういたしまして」
ユノは、すっかりいつもの調子に戻っていた。
僕は、路地裏に落ちた影と、男の手に残った小瓶を見て、何か嫌な予感がした。
***
彼の話は、こうだった。
名をフォルシェン・デアパウ。
もちろん偽名だよ、と前置きしたうえで。
彼は、さる名家の次男坊なのだという。
家督争いに巻き込まれては堪らないと、若いうちに家を出て、放浪の旅に出た。
その旅の途中で立ち寄ったのが、この街だった。
紅玉楼を気に入り、気づけばここに居着くようになった。
それが、半年ほど前の話だという。
最初は、マダム・シュランゲ目当てで通っていたらしい。
だが、箸にも棒にも掛からない。
曰く、白い肌がどうとか、強い眼差しがどうとか、
マダムの凄さをフォルシェンさんは力強く語ってくれたが、
正直あまり興味もないので、そのあたりは割愛しておこう。
ともかく、彼は辛抱強く通い続けた。
けれど、ついぞマダムからお呼びがかかることはなかった。
そんな時だったという。
同じように紅玉楼に通っていた男から、あの小瓶を貰ったのは。
その男も、生い立ちは大してフォルシェンさんと変わらない。
所謂、うだつの上がらない名家の子息、というやつだ。
どの程度の家柄で、どんな立場かまでは知らないが、まあ似たようなものだろう、と彼は言った。
男は、小瓶の出どころは語らなかった。
ただ、凄い薬だが、飲んだ仲間がおかしくなってしまって、怖くなったのだと話していたという。
ラウンジで何度か挨拶を交わした程度の仲だ。
どこまで信用できる話かは分からない。
だが、少なくとも――
その男が、何日か前にマダムに声をかけられていたこと。
それだけは確かだった。
「そして、この薬の効力は、本物さ!」
フォルシェンさんは、そう断言した。
「ためしたんですか!?」
思わず声を上げた僕に、
「当然じゃないか!」
と、本当に当然のことのように言う。
「飲んだ瞬間、凄まじい快感と幸福感、それから……解放感だね」
「解放感?」
「抑圧されていたものが、ぱっと解き放たれるような……そんな感覚さ」
けれど、それだけだとも言った。
一口で、信じられないほどの快楽と幸福感を与えてくれる。
何より厄介なのは、自分の中に抑え込んでいた感情を、外に出したくなる衝動が湧くこと。
まるで、自分が自由になったような錯覚を覚えるらしい。
つまり。
普段から自由で、抑圧とは無縁のフォルシェンさんにとっては、
まあ、大した薬じゃなかった、ということだろう。
ともかく。
「これは、君たちにあげよう。僕には無用の長物だしね」
「話は分かった。だが、それを俺たちに渡して、お前に何の利がある?」
ユノの問いに、フォルシェンさんは、今さら気づいたとでも言うように、
「なるほど」
と頷いた。
確かに、自分には何の利もない。
下手をすれば、厄介なことに巻き込まれる可能性すらある。
「なんだろうね……」
少し考える素振りをしてから、彼は笑った。
「君たちはVIPルームを気にしていた。僕も気になる!
それに何より、この薬――僕が持っているより、君たちが持っていた方が面白そうじゃないか!」
彼は、完全に言い切った。




