Ⅲ
いざ交渉すべき相手が決まると、クレスツェンツの行動はやはり早かった。
まずはヘルツォーク女子爵に連絡を取り、事情を話して医官長と大学院の学長に接触したい旨を相談した。彼女も自分の上役を説得する必要を感じていたそうなので、二人への根回しは任せておけと言う。
それでもクレスツェンツはじかに医官長らへ手紙を書き、またオーラフの手紙も彼らへ届けた。
一方のオーラフだが、「施療院の院長は私がなんとかする」と言っていた通り、彼も早速行動に移った。
どういう手を使ったのかは知らないが、元院長を半月もしないうちにその役職から異動させ、代わりに穏やかなだけで足腰すら弱っている老導師を長に迎えたのである。
そして彼自身が副院長の座に納まり、施療院を実質的に動かすのはオーラフということになった。それに伴って彼は導師の位階も授けられた。
「以前の院長は施療院の運営にあまり関心がなかったのですよ。むしろ閑職に回されたと思っていらしたので、余所へ行けばよいと推挙して差し上げたのです。しかし、後任に意欲のある方を迎えるのはなかなか難しく……」
本当にそれだけだろうか。僧侶たちの間にある派閥争いや出世競争の一端を垣間見た気がして、クレスツェンツは不安げに眉を顰めた。
「何か汚い手を使ったのではないでしょうね。あとあと叩かれるのは嫌ですよ?」
「ご心配なく。アマリア施療院にて勤めを果たす僧医たちの意見をまとめ、導主さまに注進しただけのことです。それから新しい院長に我々の展望を申し上げたところ、若い者たちに任せるとおっしゃっていただきました。そして身に余ることですが、私がその中心になればよいと副院長の役を拝命した、それだけの話」
「はぁ……これで施療院側の意見は『医官や大学院との知識の交流を望む』という方向でまとまるわけですね。それならまあ、よいでしょう」
「姫さまは柔軟に考えてくださるので助かります。アヒムの冷たい視線ときたら……」
クレスツェンツの隣に座っていたヘルツォーク女子爵ナタリエが、くつくつと喉を鳴らして笑う。潔癖な性格である教え子の顔を思い浮かべているのだろう。
クレスツェンツも友人がどんな視線をオーラフに向けているのか想像し、その対象が自分でなくてよかったと思った。
三人は王城からの帰途、オーラフを送り届けるため馬車に揺られてアマリア施療院を目指していた。半年にわたって方々へ根回しを進め、今日、ようやく王との対談に持ち込めた、その帰りだった。
とはいえ王との対談は施療院と大学院の学術・技術交流を認めてもらうための正式な交渉ではなく、直臣であるヘルツォーク女子爵、そしてエルツェ公爵の名代として息子のテオバルトが招かれた、王個人の主催する昼食会という形だった。クレスツェンツとオーラフはおまけで参加することを許されたのみだ。
形はどうあれ、ナタリエとオーラフはその席で熱心に交流の必要性を説いていた。これが大きな進歩になるかは、正直なところクレスツェンツには分からない。
なにしろ王は表情の変化も口数も少なく、ふたりの話に耳を傾けているようではあったが、芳しい反応を見せてはくれなかったからだ。
そしてクレスツェンツはというと、昼食会に同席することを兄が許してくれたものの余計な口をきくなと厳命されており、ふたりと一緒に王を説得することには参加させてもらえなかった。
クレスツェンツが勝ち気で出しゃばりで、普通の姫君に求められるおしとやかさなど持ち合わせていないことを、兄はどうしても隠したかったらしい。
ふん、そんなもの、今隠したところで結婚してしまえばバレるに決まっている。
とは思いながらも、クレスツェンツは命令に渋々従い、黙って料理をつついていた。
とにかく暇だったので、とにかくじっくりと、クレスツェンツは王の顔を観察していた。彼がナタリエとオーラフの話をどう受け止めてくれているのか気になって仕方がなくて。
けれどあまりにも王の反応が薄いものだから、彼女はだんだんと上の空になっていった。
そうして気がついたのは、王とほとんど目が合わないなということだった。
わたしは本当にこの方のところへ嫁ぐのだろうか。
淡い緑の瞳と視線が絡むこともほぼないまま、クレスツェンツは考えた。
王は三十代も半ば。確かクレスツェンツより十八も歳が上だったはず。
親というには少々若いが、親といえなくもない歳の王を見つめ、クレスツェンツは「ううむ」と内心で唸った。
勤勉で国政に情熱を注ぐ王からすると、クレスツェンツなどただの小娘ではないか。果たして、自分は伴侶として彼に釣り合うのか?
そう虚空に問いかけて、自分の溜息で応える。
ふたりが〝釣り合う〟かどうかなど誰も気にしていない。
歳若いクレスツェンツが妃候補に選ばれたのは世継ぎのいない王の子を産むためであって、エルツェ公爵家の娘であるクレスツェンツが妃候補に選ばれたのは、シュライエル侯爵、ゼーリガー侯爵ら武門派貴族の勢力増長を牽制するために王家と王家の血統を結びつける目的があったからだ。
クレスツェンツが終始むすっとしているうちに、昼食会は終わった。彼女にとって幸いしたのは、その終わりがけに兄がやむを得ず中座したことだった。
何があったのかは知らないが好都合だ。どこかに沈みかけていた思考を瞬時に呼び覚まし、クレスツェンツはナタリエ、そしてオーラフの陰に紛れ込んで別れの挨拶を交わすべく王に近づいた。
テーブル越しに向かい合うより少し近くへ。連れたちの肩と肩の間から王を見上げる。
アヒムの黒髪も羨ましいと思ったが、王の淡い金色の髪も癖がなくて真っ直ぐで、陽に当たると蜂蜜の糸のように透明に輝いてきれいだ。
愛想よく施療院のことを宣伝しようと思っていたクレスツェンツだったが、またしても劣等感を刺激されるものを見つけてしまってついつい眉間に皺が寄った。
なんなんだ二人して、男のくせに、そんな綺麗な髪がいるのか!? 今日も背中でふわふわさせている髪を一房手に取り、彼女は唇を尖らせる。
王の視線に気づいたのは、女子爵とオーラフ声が不意に途切れ、不思議に思ったクレスツェンツが顔を上げたからだ。
(やっと)目が合った! 真正面から、互いの姿を映した鏡のように瞳が向き合う。
王の瞳の明るさに魅せられ、クレスツェンツは視線をそらせないままじわじわと頬を染めた。
王の瞳の淡い緑は、クレスツェンツの中にも流れる王家の血の色。クレスツェンツの瞳の緑は代を下って灰色に濁ってしまったが、王の瞳はペリドットそのもののようだった。アヒムの鮮やかなエメラルドとは、また違う色。
ふっと、王の口許が弛んだ気がした。けれどそれ以上にクレスツェンツへ関心を示すわけでもなく、ヘルツォーク女子爵とオーラフ導師の来訪を労い終えた彼は踵を返そうとする。
「陛下」
クレスツェンツが呼び止めれば、無視はされなかった。振り返ってくれた王のきれいな瞳を見上げる。
やっとお話出来る好機だ。何から言おう――どうしたら自分たちの願いを伝えられるだろう。
よく考えてから言わなくては、王には次の予定があるだろうから長く引き留めることは出来ない。
そう思ったものの、口うるさい兄が戻って来たのが視界の端に見えた。内心舌打ちし、まどろっこしい計算はひと思いに頭の隅へと追いやる。
「一度、施療院へおいで下さい」
兄があんぐりと口を開けているのが見える。そして慌ててこちらへやって来るので、あれに邪魔されないうちにとクレスツェンツは畳みかけた。
「僧医たちの働く姿をご覧下さい。そうすれば彼らの知識や技術がいかに有益か、お分かりいただけるはず」
澄んだ明るい緑の瞳は、やはり感情を見せてくれなかった。クレスツェンツの言葉に興味を持ったのか、驚いているのか、見つめ返されるだけでは分からない。
けれど決して冷ややかではない王の眼差し。
まだ王位について五年と経っていないが、彼の政事は法規に基づく厳正なものである一方、弱者への細やかな情に溢れていることをクレスツェンツは知っていた。だから期待した。
しかし、
出しゃばりな妹を黙らせようと駆け寄ってきたテオバルトを片手で制し、王は身体ごとクレスツェンツに向き直る。
ナタリエもオーラフも思わず左右へ退いてしまうほど、彼のまとう空気がしんと冷えた気がした。
瞬きひとつで回想の海から戻り、クレスツェンツは窓枠に額を押しつけながら溜息をつく。
隣に座っていたナタリエが慰めるように肘で小突いてきた。クレスツェンツは曖昧な笑みでそれに応え、やはり溜息をついた。
「わたくしがこの話をだめにしてしまったのではないでしょうか……」
「まさか。陛下がああいう返答をなさることは予想できていましたよ」
「でも、それを口にされない限りは交渉の余地があったのに」
クレスツェンツの願いに、王はまず問いで答えた。
医官は王城や各官庁、行政施設にしか常駐しない。なぜか分かるか、と。
クレスツェンツには答えが分からず、思わずナタリエに助勢を求める視線を送った。
『姫に訊いている』
特別冷たい口調でもなかったのに、クレスツェンツはまるで氷で背中を撫でられたような心地になった。
『分かりません』
蒼白になりながらも、やっとのことでクレスツェンツは答える。
もしかして王の不興を買ったのだろうか。王の半歩後ろで兄が顔を顰めている。王は変わらずの無表情。せめて、不快感でも示してくれればいいのに。
『医官は、王族と官吏、そして行政機能の維持に必要な人員のために存在する。庶民に医療を施すことは、彼らの職務ではない』
つまり、まったく違う目的で医療を行う施療院や民間医と、官制医師は行動をともにしない――と言外にほのめかし、王は無駄のない所作でクレスツェンツに背を向けた。
兄の非難がましい視線より、その大きな背中を見送ることのほうが辛かった。
「はぁ…………ぅぅぅぅ……」
政治の知識などろくにないのに口を挟んだ自分をひたすら呪う。
あれでは何も知らない小娘がわがままを言っただけではないか。その身をもってこの国を守る王がそんな言葉をいちいち聞いてくれるはずがない。だからナタリエとオーラフは、様々な根拠を携えて交流の必要性を説きにやって来たのに。
「そう落ち込む必要はありません、姫さま。さ、着きました。お茶でひと息ついて行かれませんか」
カーテンにすがりついて涙をぬぐっていたクレスツェンツは、オーラフが何を根拠にそう言うのか分からず素直に喜ぶことが出来なかった。
余計なことをした自分が恥ずかしくて早く帰りたい。帰って机の下にもぐっていたい。
しかしオーラフに誘われたナタリエがにこにこしながら馬車を降りていってしまったので、彼女を置いて帰るわけにもいかず、クレスツェンツは渋々ふたりのあとを追った。
事務室に行く途中、ひとりの中年の男とすれ違う。僧侶のようなローブを着ているが、深い臙脂色の仕立ては僧侶のものではない。
彼はオーラフに向けてお辞儀をし、その後ろにいたナタリエとクレスツェンツにもにこやかに笑いかけて去っていった。
「彼らとは上手くいっていますか?」
「ええ。アヒムの提案をいれてよかった。案外と、新しい発見があります。人手も増えたしね」
クレスツェンツは自分が誉められたかのように得意げに口許を弛め、すれ違った男の背中を見送る。彼はアマリアの町医者だ。
大学院との交流も結構だが、民間医とも互いの知識を交換してはどうかと言ったのはアヒムだった。
僧医と民間医の交流もほとんどないようなものだった。自分の手に負えない患者を連れた町医者が施療院へ治療の相談にやってくることは稀にあったが、町医者には町医者の矜持があるので、施療院を頼ってくる医者は本当に変わり者だといってもよい。
民間医はそれぞれ師について医薬の知識を学び、自分の判断で独立して『医者』を名乗る。どの師について学んだかによって流派のようなものがあるらしいが、組織だった活動はしておらず、治療の知識も技術も当人次第という規格の曖昧な医療者だった。
彼らの知識や治療法が古いことは否めず、集団で日々実践と研究を行っている施療院が彼らから学ぶことなどあるのかと、クレスツェンツは思っていた。
しかしアヒム曰く、昔から伝わる迷信めいた治療法が覿面に効く場合もあるし、普段の食事や安価なハーブを薬の代わりにすることを知っている。無駄な知識など何もない。彼らとの交流も大いに役に立つはず。
「〝僕の勉強の〟と、あとにくっつきそうなのがアヒムの怖いところだ」
数ヶ月前の会話を三人で振り返っていると、ナタリエが快闊に笑った。
「本当に。大人しそうな顔に似合わず貪欲で、びっくりさせられますよ」
オーラフはしみじみと相槌を打つ。
十年ほど前に僧侶になって以来、施療院で治療と看護を行ってきたオーラフは、二十代半ばという若さながらに経験も知識も豊富で、しょっちゅうアヒムから質問責めにあっていた。
クレスツェンツもよくその場に居合わせる。ふたりの話は専門的な言葉が多くて内容はさっぱり分からないけれど、オーラフがひとつ答えるとアヒムがまたひとつ訊き返すことの繰り返しで、オーラフのもとに用事が舞い込んでこない限りずっと講義を続けていそうだ。
そのときの彼らは実に楽しそうなので、クレスツェンツはこれまた羨ましい。
「アヒムは、なぜあんなに熱心に医薬について学んでいるのですか?」
真剣な友人の顔を思い出すと、いつか訊いてみようと思っていた疑問がふと思い浮かんだ。
深く考えもせずに口にすれば、ナタリエが意外そうな顔をしてクレスツェンツを見る。オーラフもきょとんとしながら瞬いた。
「おや、姫さまもご存じないとは」
「オーラフ様も知らないのですか?」
「ええ、まあ。聞いたことはありませんが、私と似たような理由かなと勝手に思っていました」
「オーラフ様の理由?」
「ふふ。まあ、本人に訊いてごらんなさい」
オーラフがそう言うからには、アヒムは今日も施療院を手伝いに来ているのだ。午後も遅く陽が傾いている時間。確かに大学院の講義は終わっている。
クレスツェンツはお茶の誘いを断り、途中で目的地を変えた。アヒムがよく入り浸っている調合室を覗きに行く。
夕食とともに患者たちに出す薬を作る手伝いをしているのだろうと思ったのだが、そこに彼の姿はなかった。
忙しそうな僧医たちに混じって、町医者が調合を手伝っているところを見てほくそ笑んだものの、目当てのアヒムがいなかったのでクレスツェンツはちょっとだけしょんぼりした。
そして再び彼を捜すため、調合室を離れようとしたとき。
「おかえりなさい」
求めていた声が背後から投げかけられた。クレスツェンツはぱっと顔を上げて振り返る。
「ただいま。……ただいま? なぜ『おかえり』に『ただいま』なのだ」
「今日は王城へ行く日だとおっしゃっていませんでしたか? その帰りかな、と思ったので」
アヒムはなにげなく言ったが、クレスツェンツは妙に嬉しかった。
おかえり。
クレスツェンツがここへ戻ってくるのが当たり前だという言葉。
「うん、そうだ。ただいま」
思わず笑顔が溢れる。王との話がどうなったかという結果を思い出すとすぐに気持ちが悄れそうになったが、愚痴を聞いてもらうのは後回しにして、その場を去るアヒムを慌てて追いかけた。




