Ⅳ
「どこへ行く?」
「ちょっとした急患です」
アヒムは薬と包帯、針や鋏などの道具類が入った箱を持っていた。急患とは言うが焦った様子はない。
不思議に思いながらも彼について行くと、ふたりは施療院の門を出て、グレディ大教会堂の門前広場までやって来てしまった。
雪が残る広場にはその縁を囲うように夕方の市が立っている。淡く黄色い日差しの中を街の人々が行き交い、夕食用のおかずやパンを買い求めていた。
じきに沈む冬の太陽は頼りないというのに子供たちはまだまだ元気で、水気の多い雪をばしゃばしゃと跳ね上げながら走り回っている。
その中にひとりの子供を取り囲むように集まる一団がいた。どうやら怪我をした仲間がいるらしい。
その中からアヒムに気づいた少年が駆け寄ってきて、「早く早く」と言ってアヒムを引っ張っていく。
案内された先には、仲間に囲まれてぐずぐずと泣いている少女がいた。目立って怪我をした様子はないようだが――と、彼女を観察していたクレスツェンツの手に、アヒムがぽんと道具箱を預けてきた。
「見せて」
彼は少女の前にしゃがみ込んで泣いている彼女の手を取る。重なり合うふたりの手許を覗き込んでみると、少女の右手の親指に長い棘のようなものが刺さっているのが見えた。
木切れか古い木材でも触って遊んでいたのだろう。木肌の硬い繊維が割れて刺さってしまったらしい。
しかし棘は薄皮一枚の下にもぐり込んでいるだけで血も出ていなかった。皮膚の中で折れてもいないし、きれいに抜けそうだ。
ただし見た目がいかにも痛そうなので、少女自身もびっくりして泣きじゃくっているのだろう。
「クレスツェンツ様、貸して下さい」
「ああ、うん」
道具箱ごとアヒムに差し出すと、彼は中から鑷子を探り出した。西日を受けギラリと光る金属の道具を見て、少女はさらに高く声を上げて泣く。
「大丈夫、大丈夫」
手を引っ込めようとする少女を宥めながら、アヒムは冷え切った小さな指の先をよく観察する。
周りの子供たちが固唾を呑んで見守る中、彼は棘の先端を見つけおもむろに鑷子で摘むと……あとは一瞬だった。
少女の親指の爪より長さがある棘はするりと抜けた。やはり血も出ない。
あまりにあっけなく棘が取れたので、もっと痛いのを想像していたのか、少女はきょとんとしながら鼻をすする。
さすが器用だなぁと感心しているのはクレスツェンツだけで、周りの子供たちも何が起こったのかよく分かっていない様子だ。
「終わったの?」と問うてくる子供に頷き返しながら、クレスツェンツは化膿止めの軟膏とガーゼをアヒムに手渡した。
「寝る前には取っていいよ。明日になって腫れたり、痛くなったら施療院においで」
親指に包帯を巻かれると、少女はやっと安堵の表情を見せた。照れくさそうにアヒムとクレスツェンツに礼を言って、仲間たちと一緒に歓声を上げながら広場に散っていく。
このあたりで働く大人や遊んでいる子供は、ごく当たり前に施療院を頼ってくれる。
クレスツェンツが祖母に連れられ初めて施療院を訪れたとき、そこは治療の場というより看取りの場の性格が強かったので、嫌厭されている風潮もあったくらいだ。
それが今ではオーラフを中心とした僧侶たちの働きで開放的になり、無償で治療を受けられる場所として頼られていた。
何よりクレスツェンツが嬉しいのは、その活動を医師ではない街の人々が手伝っていることだった。
食事作りや洗濯、リネンの管理など、簡単だが繁雑な仕事が施療院には山ほどあるので、人々の手伝いの手が欠かせない。
そしてそういう仕事を手伝いに来ている者には、かつて施療院で世話になったという元患者も少なくなかった。
元気になった者が、次に弱った者を助けにくる。自然とそういう流れが生まれている優しい場所だから、クレスツェンツは施療院に関わっていたいと思うのだ。
その優しさが、人の手から人の手へと渡っていく様を見ていたい。
「ふふ、元気だなあ。あんなふうに遊べる友人がわたくしにはいなかった。ちょっと羨ましい」
幼く元気な声を聞きながら、ふたりは理由もなくしばらくその場に佇んでいた。
陽が傾いてだんだん冷え込んできたが、活気に満ちた人々の足音や、露店で売られる鶏肉の煮込みの匂いが心に温かい。
「貴族のお姫様が雪の上で〝鬼ごっこ〟だなんて、無茶でしょう」
「お前もああして走り回っていたようには思えないけど」
「そうですね、母が早くに死んだので家のこともしなくちゃいけなかったし、冬はペシラの寄宿舎に入っていたし、あんなふうには遊ばなかったかな」
広場のにぎわいにふと寂しそうな視線を送り、アヒムは「帰りましょう」と静かに呟いた。
その半歩後ろをついて行きながら、クレスツェンツは黒髪の縁から覗くアヒムの横顔をしげしげと見上げた。
彼が自分の話をするなんて珍しい。母親が鬼籍に入っていることすら今初めて聞いた。
そうやって驚くクレスツェンツの視線を感じたのか、アヒムは肩越しに振り返る。
「国王陛下とのお話はどうでしたか?」
すかさずクレスツェンツは例の話をしようと思った。なぜ、アヒムは医師を志すのかという話を。
しかし目が合った瞬間、何かを察知したアヒムはすぐに新しい話題を切り出した。それもクレスツェンツが思い出したくない話題で、食い下がって尋ねてみようという気持ちをあっさりと吹き飛ばされる。
「う、んん……わたくしから言えることは特にない」
「上手くいきませんでしたか」
「さらっと言わないでくれ! いや、そういうわけじゃない。オーラフ様やナタリエ様のお話を陛下はじっと聞いていらしたし……ただ本当に〝じっと〟だったから、陛下がどのように受け止められたかはよく分からないのだ。それに、ちょっと、いやだいぶ余計なことを言ってしまった」
「実際に見に来れば、施療院の知識や技術が医官たちに劣らないことが分かるとか?」
「ぐ……」
なんでバレてるんだ! 思わず立ち止まって眉間に皺を寄せる。そんなクレスツェンツを振り返ったものの、アヒムはあははと軽い調子で笑いながら行ってしまう。
「あなたは本当にあなたらしいことしかしない人ですよね」
ひとが失敗して落ち込んでいるのに、笑うとはどういうことだ。雪玉を作って背中に投げつけてやろうかと思ったが、先を行く友人のそんな声が聞こえてきたのでクレスツェンツは思いとどまった。
とはいえ足許の雪の中に手を突っ込んだあとだったので、指もドレスの裾もすっかり濡れてしまった。
「誉められているように聞こえないが」
「別に誉めたわけではないので。あれ、どうしたんですか、手」
アヒムの隣に追いつくなり、彼はしとどに濡れたクレスツェンツの手に気がついた。そして道具箱の中にあった布巾を差し出してくる。
やっぱり雪玉をぶつけてやろうかと考えた直後にこれだ。飾り気のなさすぎる正直な言葉と、当たり前に寄越す気遣い。
腹が立つのか嬉しいのか、焦ってしまうのか甘えたくなるのか、アヒムといるとクレスツェンツの心はいつも忙しい。
「オーラフ様もナタリエ先生も色々な思惑がおありなので、それはクレスツェンツ様にしか言えない言葉だったと思いますよ。だから〝余計なこと〟だなんて思わなくても大丈夫。むしろそれがオーラフ様やナタリエ先生……僕たちの本音です。きちんと伝えられて、よかったと考えればいいんです」
「そうかな……」
アヒムはそれ以上言葉を重ねることなく、静かに頷いた。あのときの王の顔を見ていないからそんなに楽観的に考えられるのだ、とは思わなかった。
彼の無言の首肯はただクレスツェンツを冷静にさせる。いつだってそうであるように。
まごついていた気持ちが鎮まると、雪水の上を歩く脚が軽くなる。
夕刻の寒さと暗闇が忍び寄っているのに、そろって歩くふたり分の足音を聞いていれば空気の冷たさも暮れてゆく空のもの寂しさも気にならない。
今ではこの心地よさも、クレスツェンツが施療院に通い続ける理由のひとつであろう。
この先も、ずっとこうやって隣を歩けるだろうか。考えてみるが、クレスツェンツはその答えを知っていた。
多分、無理だ。
昼と夜の混じった空を見上げ、王の顔を思い出した。実感はまるでない。けれど、いずれ自分の隣にいるのはあの男なのだ。
高潔な国の父、類い稀な外交と経済の手腕でもって国境を守る最高位の騎士。彼とともに国民を守ることがクレスツェンツの義務となっていくだろう。
アヒムもやがては故郷へ帰る。大学院を卒業したらすぐにの予定だそうだが、あるいはもっと早まるかも知れないとも言っていた。
こうして隣を歩ける時間はどれくらい残っているのだろうか。そしてやがて分かれる道の先、それでも彼を感じていられる方法はないだろうか。
「結局、わたくしの願いはそれなのだな……」
施療院の中にある優しい営みが好きだ。ずっと関わっていたいと思う。その優しさを、みんなに分けてあげたいと思う。
そしてわずかでいい、アヒムの志と自分の思いを繋げる何かが欲しい。
小さな呟きを拾ったアヒムが首を傾げる。クレスツェンツはわざと肩がぶつかるほどに彼との距離を詰め、巨大な尖塔を擁するグレディ大教会堂の聖堂を眺めながら訊ねた。
「アヒムは、オーラフ様が医道を修める僧侶になった理由を知っているか?」
「理由ですか? アマリアで養成した僧医を、地方の施療院へ派遣する仕組みを作りたいとおっしゃっているのを聞いたことはありますけど……オーラフ様の故郷も、医療の担い手にはいつも困っていたからって」
「ふーん」
あの若い僧侶にそんな野心があったとは知らなかった。彼とは長い付き合いだが、クレスツェンツは初めて聞いた話だった。
まったく、男というのはひとりで志を燃やしているものなのだろうか。何が出来るかは分からないが、言ってくれればいくらでも協力するのに。
唇を尖らせつつ、クレスツェンツは更にアヒムに問いかける。
「オーラフ様は、お前が医師を志すのも自分と同じような理由ではないかとおっしゃっていたが、そうなのか?」
そしてちらりと友人の横顔を窺う。その瞬間、見間違いかと思うほどかすかにアヒムの頬が引き攣った。
「ずるい訊き方ですね」
「ごめん。でも気になっていた。訊いてみたかった」
少し前までのしょぼくれたクレスツェンツなら、アヒムの言葉を拒否と受け取って大人しく引き下がっただろう。しかし今は無理だ。
欲しいと、知りたいと、自分の願いをはっきりさせてしまった今は。
アヒムは苦笑し、なかなか次の言葉をくれなかった。それでもクレスツェンツは待った。




