Ⅱ
「あなたはよく喋りますが、そういうことは意外と口にしませんよね」
ぐずぐずと鼻をすすりながら、クレスツェンツは胸にわだかまっていたものを吐き出した。
アヒムのせいだと聞こえなくもない主張だったが、彼はクレスツェンツの言葉を否定せず、かといって相槌を打つわけでもなく、黙って話を聞いていた。
そして話し終えたとき最初に返ってきたのがその言葉だった。
「そういう?」
「悩むと殻に籠もるというか。自分の問題は、人には相談しない」
「自分でどうにかするしかないと思って……」
「突然泣いて出て行かれるよりは、愚痴をこぼしてくれたほうがましですけどね」
非難がましくアヒムは唸る。そしてクレスツェンツからぷいと顔を背けた。怒っているらしい。
「もしかして、お前が泣かせたんだろうとか言われたか?」
「言われました」
即答。それはさぞ不愉快だったろう。
「う。う……それは、すまなかった」
クレスツェンツは肩を竦めながら、アヒムからちょっとだけ距離をおいた。
彼の名誉を回復するために、あとであの場にいた僧侶を誰かひとりでも捕まえて自分の情けない事情を説明せねばなるまい。
それにも落ち込むが、もっとクレスツェンツを悲しくさせたのは、自分が打ち明けた悩みに対してアヒムが何も言ってくれないことだった。
その程度のこと、とでも思われているのだろうか。いずれ王家へ嫁ぐクレスツェンツが施療院を離れるのは当然のことだとか。
(そうかも知れないな……)
「陛下との縁談を断ろうか……」
「なぜそういう話になるんです」
アヒムは低く呟いたクレスツェンツを目を眇めて見てくる。驚くわけでも慌てるわけでもない、ただ不審そうな視線で。
「だって、そうすれば今から医官を目指すことだって出来るじゃないか。女の医官だっているのだぞ。ヘルツォーク伯爵家のナタリエ様は官職と一緒に爵位も賜って王城に勤めているし、医師にはならなくても看護や薬の管理をする女官の仕事もあるし……」
「でも、医官になっても施療院で働くことは出来ませんよ」
クレスツェンツはにべもないアヒムの指摘にうっと息を呑む。
確かにそうである。施療院は教会の機能のひとつ。その活動に官制の医師は関わらない。
「わ、分かった。じゃあ尼になろう……」
「ちょっと落ち着いて下さい。クレスツェンツ様の希望はちゃんと聞きました。でも王家との婚姻はあなたの意思だけで覆せるものではないでしょう? 僕は貴族じゃないのであなたの将来にどれだけの人間の思惑が絡んでいるのかは想像もつきません。でも、それを振り払ってまであなたがここにいなくてはいけない理由などないのは分かります。クレスツェンツ様は、貴族の義務を果たさなくてはいけない」
すげないアヒムの言葉は、深くクレスツェンツの胸に刺さった。そして正論ゆえに反駁することも出来ない。
結婚は貴族の義務。クレスツェンツの人生から切り捨てることが可能なのは、施療院のほう。
「だからお前は、わたくしに出て行けと言うのか」
「僕が言うんじゃありません。そうするしかないのなら、そうなるだろうというだけの話です。僕も――」
言いかけて、アヒムは口を噤む。ふた呼吸ほど間を置くと、彼はようやくクレスツェンツと真正面から視線をぶつける。
「とにかく、抗いようのない制約はあるものです。それがあなたの場合は国王陛下のお妃になることですが、でも、それが施療院を去ることに直結するのはなぜですか?」
深い森のような、落ち着いた知性に溢れる瞳に疑問とクレスツェンツの姿が映っている。
彼女は虚を突かれた。
「なぜって――」
即座に浮かんでくると思った答えは、ひとつも言葉にならない。
なぜ? 確かになぜだろう。
そりゃあ、王妃ともあろう者が血のついた包帯を洗っていたり患者の食事を運んでいたりしたら驚かれるだろうが、教会に出入りしてはいけないという決まりはない。
「理由、特にないかも」
「でしょう。だったら、変わらずに……は無理でも、ここにいらっしゃればいい。あなたと話をして元気になる者は多いんです。喜ばれますよ」
なんでもないことのようにそう言われ、クレスツェンツは呆気にとられながら大きく瞬いた。
そんなに、そんなに簡単な問題だったろうか。
いや、やっぱり違う。それでは今と同じで、クレスツェンツはお手伝いのまま。彼女の気分次第で、来たり来なかったりしても構わない。
それでは嫌なのだ。責任のある役目が欲しい。
手の甲に踊る木漏れ日を捕まえるように、クレスツェンツは自分の手をぎゅっと掴む。
アヒムはしょぼくれた友人の横顔を見て内心溜息を吐いた。どうやら、自分の言葉は彼女を納得させることが出来なかったようだ、と。
施療院には多様な立場の人々が出入りしている。患者と僧侶はもちろん、手伝いの市民や商人、ごくたまに貴族も現れる。
目的も思惑も様々な彼らのすべてと、なんの気兼ねもなく話しているのはクレスツェンツくらいだ。それはなかなか出来ないことだとアヒムは思っていた。
そして彼女はごく自然に人と人を引き合わせている。
たとえば――
「姫さま、アヒム」
呼ばれて、ふたりは一緒に振り返った。中庭へ降りる階段の途中にオーラフが立っている。
彼は眉尻をさげて心配そうな微笑を浮かべながら、遠慮がちにふたりの傍までやって来た。
「仲直り出来ましたか?」
「「喧嘩したわけではありません」」
アヒムはむっとしながら、クレスツェンツはしゅんとしながら、それでも彼らの主張はそろった。
「姫さまが泣いて出て行かれたと聞いたもので……。でも、どうやら問題は解決していないようですね。私でよければお話を聞きますが」
身を屈めて問うてくる僧侶を見上げ、クレスツェンツは薄く唇を開いた。しかしすぐにそれを閉じ、弱々しく首を振る。
やはり、もう少し自分の中で考えなくてはいけない。そう思った。
オーラフはそんな姫君の様子を気にかけながらも、それ以上問うことはしなかった。
そうですかと穏やかに相槌を打ち、アヒムに向き直る。
「アヒム。私は今から出かけるので、先に渡しておくよ。子爵によろしく」
「はい」
僧侶から友人へと手渡された書簡を見て、クレスツェンツは少しだけ目を輝かせた。
「上手くいっていますか?」
「今のところ、個人的なお手紙くらいは」
「ナタリエ様をここにお招きするのは、やはり無理でしょうか?」
「子爵も医官としてここを見学したいとおっしゃってくれているのですが、こちらの院長も、子爵の上官も、交流には慎重です。いたし方ないこととは思いますが」
アヒムがオーラフから渡されたのは、女性ながら爵位を与えられ、王家の医師として城に勤めるヘルツォーク女子爵に宛てた手紙だった。彼女は医官として王家に仕える傍ら、医薬の教師として大学院でアヒムらを教えている。ゆえにアヒムが書簡を預けられたりする。
しかしオーラフとヘルツォーク女子爵の間を取り持ったのは、ほかならぬクレスツェンツだった。
きっかけはアヒムとオーラフが大学院の講義について話していたことである。
講義で聞いた病の治療の考え方と、施療院で実践されている治療の考え方はずいぶん違うのだと。興味を持ったオーラフが、自分もその講義を聞いてみたいが官制の医師たちとは交流がないので残念だ、そうぼやいていたのを、クレスツェンツが聞きつけた。
そして彼女はあっさりと医官――かねてから憧れていたヘルツォーク女子爵に接触を図り、ほとんど面識のなかった子爵に施療院への興味を抱かせ、オーラフを紹介したのである。
施療院にいるほかの誰にも真似出来ない。行動の素早さといい、面識のない医官に声をかけられる大胆さといい、そしてその医官に施療院を見せてみようという発想といい。外からやって来て自分の意思で自由に行動しているクレスツェンツだからこそ出来ることだ。
思い出して感心するアヒムの隣で、当の彼女は不満そうに眉根を寄せた。
「何を慎重になることがあるのですか。お互いの知識を交換できてよい刺激になるのに。だいたい、興味は持っているはずです。学生を見学に寄越すもの」
「確かに。しかし深い知識の交換は嫌なのですよ。残念ながら渋る気持ちは分からなくもありません。知識とは財産ですからね。公開されるほど価値がなくなるものなのです」
「なぜですか? 皆の役に立ってこそ価値があるものだと、特に医薬の知識に関しては、わたくしはそう思うのですが」
「それはもっともな意見です。しかし知識を持っている側からするとこういう一面もあります。我々だけの知識、我々だけの技術にしておけば、それを提供する代わりに報酬や利益を得られる」
淡々としたオーラフの言葉に、クレスツェンツはますます眉を顰めた。
「希少性や、神秘性がつくる権威があるのです。そういうものは知識が普及するほど失われてしまいます。姫さまはこういう考え方がお嫌いでしょうが」
クレスツェンツは苦笑するオーラフを半ば睨むように見つめる。僧侶が語った現実の一つが納得出来ず、にわかに苛立ちが湧き上がる。
「しかしそれでは、知識は古くなっていくばかりではありませんか? 自分たちが持っているものに安心しているようでは、前に進むことをやめてしまいます」
「その通りですね。幸いこの施療院にそうした風潮はありませんし、交流と研鑽の相手は望むところです。が、皆がそう思っているわけでもありません。今のところ子爵を施療院にお招きして教えを請うたり、アヒムやアヒムが連れてきてくれる学生たちに手伝い以上のことをさせてあげるのは難しいでしょう」
更に反論したかったが、クレスツェンツはあえなく口を閉じた。オーラフに非はない。
むしろ彼は施療院以外の医師との交流を望んでいるのだ。力になれればと思っていたクレスツェンツだが、結局、このあとに打つべき手が思いつかなかった。
「もっと上の方に話をしてみてはどうですか。医官や学生と、施療院が交流することを正式に認められる方に」
ぽつりと言ったのはアヒムだ。クレスツェンツは隣にいる友人を不思議そうに見つめた。
「たとえば、どなただ?」
「オーラフ様は院長を説得なさればいいと思います。クレスツェンツ様は医官を統轄していらっしゃる方か、大学院の長にでも。僕もイシュテン伯爵に話してみることは出来ますし」
「確かに強い権限を持った賛同者が必要です。院長の方は私がなんとかしようと考えていたところです。アヒムも気楽に考えて、こんな話があるという程度に伯爵の耳に入れておいてくれるとありがたいね。姫さまは、」
医官を統轄するのは彼で、大学院の学長は確か彼だ。どちらにも伝手はない。伝手はないが、公爵家の名を使えばまずは手紙を開いてもらえる。
そんなことを考えながらオーラフの言葉を聞いていたクレスツェンツだが、彼が口籠もったので怪訝そうに首を傾げた。
「医官長と、学長に接触すれば良いのでしょう?」
「そうですね、ひとまずは」
「何を言いさしておやめになったのです? オーラフ様」
「まあまあ、いずれはたどり着くところです。まずは医官長様と学長殿の方からお願いします」
「いずれはたどり着くなら目標は知っておいた方がよい。何が言い辛いのです。貴族相手のことなら任せて下さい。誰とでも話をしてきましょう」
クレスツェンツは立ち上がってオーラフに詰め寄った。
施療院への協力者を探すことについてこんなにやる気を見せるのに、どうして〝自分の役目とは何か〟だなんて悩むのだろう。
アヒムは少しだけ呆れながら友人の後ろ姿を見上げる。
彼女はこうしてずっと施療院に関わればいいのだ。いずれ去る自分とは違って。
アヒムにも上手く言えない思いがあることは知らないで、クレスツェンツはオーラフをしどろもどろにさせている。
「いえいえ、もしかしたらこの発言は姫さまの気に障るかも知れませんから」
「オーラフ様とは長い付き合いです。多少のことなら怒りませんとも」
「ほほう。……では、多少のことではなかったときのために、姫さま以外には聞こえないようにしましょうか」
「アヒムにも?」
「念のため」
アヒムを振り返ってみると、彼は面白くなさそうな顔をしていた。
しかしオーラフがそれで口を割ってくれるのだから仕方ない。クレスツェンツは耳を貸して、と言う僧侶に大人しく従う。
そしてぼそぼそと遠慮がちに吹き込まれた囁きに大きく目を瞠った。
「……」
「やはりお気を悪くされましたか」
しばらく呆然としていたクレスツェンツだが、やがて気遣わしげに眉尻を下げるオーラフを見上げて首を振った。
「いいえ。なるほど確かに。最後に『よい』というお返事をしていただかねばならないのは、国王陛下です」
医官は、王を頂点とした政治の仕組みの中に存在するものであるし、大学院は王家の私設学院だ。どちらの方針も、最終的に決裁するのは王である。
『あなたが王妃になることを見越して、国王陛下とも交渉を――』
近い将来、手にする王妃の座。約束されている王の妻という身分。手っ取り早いとはいえないかも知れないが、ただの貴族の娘より一歩も二歩も王に近いクレスツェンツなら、彼に接触する口実などいくらでも考えられるだろう。
彼女の立場や血筋、家名は、今でも充分に人々を動かす力を持っている。それを施療院のために使っていいのなら……。
ああ、アヒムが言う通り、その座についても自分はここにいられるのかも知れない。
クレスツェンツはようやくその糸口を見つけた気がした。
「陛下に話を通すことを目指して、根回しを進めましょう」
ならば、迷ってはいられない。




