Ⅰ
膨大な処方がまとめられた分厚い本を積み上げ、その上に顎を載せて、クレスツェンツは薬匙を手にしたアヒムの顔を天秤越しに見つめていた。
まるで目の前の友人には気づいていないかのような真剣な目。深い緑の虹彩には細かく揺れる天秤の針が映っている。
あたりには薬を調合するさらさらという音だけが満ちていた。ほどよい緊張感と単調な音、吹き込む優しい夏風があいまってついうとうとしてしまいそうな心地よい気配に変わる。
オーラフに仲介され、互いに名乗り合ったあの日から一年。
アヒムは大学院に通いながら、ほとんど毎日施療院に顔を出していた。
「医薬の術を身につけたい」と簡潔に述べたあの日の少年は、知識を吸収することに対してどこまでも貪欲だった。
大学院で習ってきた病の症状や薬の処方について、僧医たちに訊ねていることもしばしば。まだ入学して間もないため、座学が中心の授業では満足出来ず、こうして薬の調合を手伝ったり、診察や治療を近くで観察していたりする。
クレスツェンツも、姫君業のかたわら施療院に通い続けていた。
もう初めて言葉を交わしたときのように「遊び場にしている」などとアヒムから言われることはない。彼は実際に働くクレスツェンツの姿を見て、あっさりと彼女の行動を認めたようだ。
最初こそ「どうだみたか」という気分だったが、こうも自然に受け入れられるとかえって変な感じがする。クレスツェンツの周りに施療院通いを容認する人間はほとんどいないからだろう。
そんなふうにクレスツェンツたち貴族とは違う常識を持ち、嫌味なくらいに真面目で正直で賢いアヒムと話すことには不思議な刺激があった。もっと彼の考えていることを知りたい。
しかしそう思っているのはクレスツェンツだけなのか、アヒムは彼女が周りをうろちょろしていることなどどうでもよいようである。お互いにやりたいことをやりましょう、といったふうで。
それは結局、本当の意味でアヒムに認められたわけではないということだった。
他愛のない話はしてくれても、薬や治療法の話になると説明を面倒くさがられるのがいい証拠だ。クレスツェンツに話しても分からないと思われているのだ。
悔しい。
それと恨めしさを込めて、天秤の向こうにいるアヒムをねっとり絡みつくような視線で見つめ続ける。
医薬の詳しい話をしてみたくても、クレスツェンツがアヒムと同じ勉強を出来るはずがない。彼は王家が選び抜いた教師から薬学を学んでいるが、一方のクレスツェンツは、施療院にいないときは姫君業で手一杯。辞書や辞典を繰りながら専門書を読んでいる暇などなかった。
だから深い話では相手にされないなんて悔しいにもほどがある。
けれどそんな気持ちをどう伝えていいのか分からず、クレスツェンツはアヒムの顔を見ながら考えることにしたのだった。
その視線がいよいよ鬱陶しくなたのか、アヒムは嘆息しながら薬の瓶と匙を机の上に置いた。
「何かご用ですか」
「うん――終わったのか?」
「まだです。分けて包まないと」
「手伝いたい」
「どうぞ」
アヒムは薬包になる紙をクレスツェンツの前に差し出してえ笑う。
意表を突かれるほど朗らかな笑みだ。生真面目そうに見える彼がこうして笑うと驚く者は多い。
そして、このごろアヒムはこういう表情を見せることが増えた。都での暮らしに馴染んできたおかげで余裕も出来たのだろう。
「丸くなったなぁ」
「丸めるんじゃなくて、畳むんですよ」
「分かっている! えーと、擦り切り一杯ずつ?」
「そうです、お願いします」
今ほどアヒムが量って混ぜた薬を薬匙で掬い、正方形の紙に包んでは折り畳んで三角形にしていく。二人は単調な作業を前にしばらく無言になった。
ちらりと視線をあげ、黙々と薬包を折るアヒムの様子を窺ってみる。
長い指が規則正しい調子で紙を回し、押さえたりひっくり返したりしていく様子は見とれてしまうほどきれいだった。
「それで、」
手許を見ていたアヒムも顔を上げた。視線がかち合う不意打ちにびっくりし、つい手を止めてしまっていたクレスツェンツは慌てて作業を再開する。
「僕に用があったのでは?」
「あった。ものすごくあったのだけど……」
クレスツェンツが薬包を二つ作る間に、アヒムは三つ作っていた。早い。
この作業を手伝ってきた経験はクレスツェンツのほうが長いはずなのに、あっという間にアヒムのほうが上手になった。
どうやらこれも、クレスツェンツがすべき仕事ではないようだ。
アヒムは大切な友人だったが、この一年、彼を見ているとだんだん不安になっていった。クレスツェンツが施療院に通う意味などないのではないかと、そんなことばかり考えてしまう。
医師を目指して学び、ほとんど毎日施療院に来ているアヒムには、知識でも患者たちの病状を把握することに関しても、単純な作業の能率でさえ敵わない。
専門的な話にも混ぜてもらえない。
彼について行くために勉強するには時間も足りない。
せっかく施療院で働くことを認めてくれる友人が出来たのに。
だから何かしなくてはと思いここへ来るのだが、クレスツェンツがすることは全部、手伝いの域を出ない。
こんなことでは王家へ輿入れすると同時に施療院との繋がりは切れてしまうのではないだろうか。
じわじわ這い上がってくる逼迫感に指がもつれそうになって、クレスツェンツはあえなく手を止めた。
「なんと言えばいいのか、よく分からないのだ」
そもそもアヒムに訴えたところで、彼にどうにかしてもらえることでもないはずだ。
これはクレスツェンツの問題であり、アヒムにはアヒムのやりたいことがある。
先に行かないで。わたしをのけ者にしないで。
そんなことを言って甘えたいわけではないのに。
だけど今はどんな言い方をしても、クレスツェンツの気持ちはアヒムの足を引っ張る言葉にしかならない気がする。
「あの……」
妙にうろたえたアヒムの声が気になり、クレスツェンツは顔を上げた。
その瞬間、ぱたぱたと音を立て温い水が頤から滑り落ちた。
「ん? え!? うわっ、なんだこれは!」
「知りませんよ! 突然どうしたんです?」
「こ、これは、なしだ! なんでもない! 泣いてないぞ!」
「いや、泣いておられますけど……」
慌ててハンカチを取り出し顔を覆うが、ときすでに遅し。
情けなさと羞恥心に耐えられなくなったクレスツェンツは、手許の作業も放り出して調合室を飛び出した。
アヒムは――追って来なかった。
クレスツェンツと任された仕事、どちらを優先するかといえば、彼なら後者に決まっている。クレスツェンツが手伝うと言いつつ放り出した分もきっちりこなしてから出てくるのだろう。
(何をやっているんだ、わたしは……)
アヒムが出てきてくれることをちょっとだけ期待しながら廊下で待っていたクレスツェンツだが、じきに項垂れてその場を立ち去ることになった。
彼女はとぼとぼ歩きながら、扉が開いていた薬品庫、患者たちの食事を作る厨房、リネン室、窓を開け放し夏風を受け入れる大小の病室などを見てまわった。
人がたくさんいる。僧侶たちに、彼らの仕事を手伝いに来てくれるアマリアの市民。患者たち、薬を売る出入り商人や、自分の患者を連れて僧医に相談に来る街の医者だとか。
皆が明るい顔をしているとは限らない。具合が悪い者もいれば、難しく考えている者もいて、様々な顔が様々な表情で生きている。
力強さを増していく陽射しのもとでそれらは尊い奇跡のように輝いて見えた。
ここにいたいなと思う。
美しい奇跡の中に。彼らとともに笑ったり、悩んだり出来る場所にいたい。
しかし、クレスツェンツの生まれ持った身分と運命はそれを許さない。
連れてきた侍女にも見つからずうろうろすることに成功したので、クレスツェンツはひとりだった。
施療院の中庭には僧侶たちが世話をしている花壇がある。陽射しに負けないほど鮮やかに色づく花々の合間、煉瓦を積んで造った花壇の縁に座り、クレスツェンツは自分の膝頭に額を埋めて丸くなった。
こうしていると彼女の姿は花に埋もれて見えなくなるはずだ。ここなら涙が引っ込むまで隠れていられるだろう。
すん、と鼻をすすり、目をつむる。土の甘い匂いがクレスツェンツを慰めるように包み込んでくれた。
しばらくここでじっとしていよう。
風の音と、離れたところで行き来する人々の気配だけを感じているのは心地がいい。無心になれる。
涙が消えれば、またもとのように笑って皆の前へ出て行ける。
泣いているのは格好悪いし、皆に心配をかけてしまう。
だから悲しくなることを考えるのはよそう。
どれほどそうしてうずくまっていたのだろうか。
柔らかな芝草を踏みしめる音を聞き、彼女は少しだけ顔を上げた。自分の足許に濃い影が落ちていることに気づき、恐る恐る視線を上げていくと。
この上なく渋い顔をしたアヒムが、あと二歩の距離をあけて立っている。
「何をしているんですか」
すぐには追って来なかったが、アヒムはクレスツェンツを捜していたらしい。
上手く花に埋もれていたつもりなのによく見つけたものだ。あちこち見てまわらないとここまでたどり着かないはずだ。
そう思うと嬉しかったが、腕を組んで眉をひそめ、こちらを見下ろしてくる彼の表情はクレスツェンツを見つけた安堵よりも呆れや不快感のほうが勝っていた。
「うるさい、あっちに行け」
そんな顔をするくらいなら、わざわざ探してくれなくてもいい。
クレスツェンツは再び膝頭に顔を埋め、苛立ちに任せてそう言った。
ちょっと後悔したのも束の間、アヒムの足音が動く。それもクレスツェンツが命じた通りに遠ざかって行ってしまう。
しまった、怒らせた。
「アヒム……っ」
まさか本当に彼が立ち去ってしまうとは思わなかったので、クレスツェンツは慌てて立ち上がる。
目眩がしそうなほど視界が明るくなり、世界が真っ白に染まる。何度か目を瞬かせて視力を取り戻した彼女は、少し離れた花壇の縁に座ってむすっと唇を引き結んでいる友人の姿を見つけた。
「う、ご、ごめ――」
ほっとしながら謝ろうとして、言い終えられないうちに再び大きな涙が眦から流れ落ちた。急いでぬぐうが、雫はあとからあとからこぼれてくる。
アヒムは大きな溜息をつくと、自分の隣を指し示した。
「そんなに暑いところにいなくたっていいでしょう」
庭に植わった胡桃の樹が枝を伸ばし、彼の座っている場所に淡い影を落としている。
「うん、うん」
クレスツェンツは涙で顔を濡らしながらアヒムの隣に座り、肩がくっつくほど彼に寄り添って嗚咽を漏らした。




