Ⅴ
季節の変わり目には必ず雨が降る。
すぐに本格的な暑さがやってこようというこの時期、クレスツェンツはそれが嫌だった。
なんといっても足許が悪くなる。ドレスの裾を濡らそうものなら年配の侍女が口うるさい。
それともうひとつ。雨の日は湿気で髪が膨らむのだ。ただでさえ収まりがよくないくるくるした髪なので、雨など降れば凝った髪型に編むのは大変だ。
侍女が背後で四苦八苦しているばかりで一向に髪がまとまらないので、仕方なく高いところでひとつにまとめることが多いのだが、そうして後ろに垂らした髪もふかふかと膨らむ。実に憎らしい、湿気。
三日ぶりに施療院を訪れたのは、そんな雨の日だった。しとしとと窓を撫でる雨滴に肌寒ささえ感じる。
クレスツェンツが到着したのは午を少し過ぎた頃で、初夏とはいえ涼しくなったこの日は患者たちに温かいスープが配られていた。
「おやおや、よいところにいらっしゃいましたね。姫さまも召し上がりますか?」
「ふふ、美味しそうだ。でもわたくしは仕事を手伝いに来たのです。皆に配り終わっても余っていたらいただこうかな」
オーラフと合流したクレスツェンツは、早速厨房から食事を載せたワゴンをさらってくる。
クレスツェンツが患者の世話を手伝ってもいいことになっているのは、感染しない病を抱えた患者、病ではなく怪我の治療のために療養している患者を集めた大部屋のみだ。
その大部屋にワゴンを転がしながら入った彼女は唐突に足を止めた。
入り口に一番近い寝台には、十日前から年若い女が療養している。仕事中に脚を折ってしまった患者である。
そして彼女の足許には幼い娘がいつもまとわりついていた。家が近いので、少女は母親を見舞うために毎日施療院を訪れているのだった。
少女は常のように母親の寝台に腰掛けていた。脚をぶらぶらと揺らしながら、今日はひどく上機嫌だ。
彼女の明るい眼差しは、母親と隣に座った少年の顔を行ったり来たり。
クレスツェンツはその少年の顔を見るなり息を呑んだ。
彼だ。
少女の隣に座っているのは、アヒム。
先日クレスツェンツに向けた冷たい視線など嘘のように、彼はきゃあきゃあとはしゃぐ少女を優しい眼差しで見ていた。彼女の話に熱心に相槌も打ち、笑顔で答えもする。別人ではないかと一瞬疑う。
しかしその癖のないきれいな黒髪も、印象的な深い緑の瞳も、間違いなくアヒム・グラウンのもの。
また施療院へ来ているなんて。
思いもよらない二度目の再会にクレスツェンツは驚いた。
あたりを見回してみるが彼の仲間と思しき少年たちはいない。一人で来たのだろうか。
そして驚くと同時に、なんだか腹の底がもやもやしてくる。
アヒムは当たり前のように患者の傍に腰掛け、その娘とも親しげに話している。
それはつい先日までクレスツェンツがやっていたことだ。まるで自分の役目――居場所を取られたような心地がした。
「あっ、姫さまだわ!」
立ちすくんだまま彼を睨みつけていると、アヒムの隣に座っていた少女はあっという間にクレスツェンツの視線に気がついた。
少女の隣でアヒムも顔を上げる。それまで朗らかだった表情が瞬時に引き攣れたのは見間違いではないと思う。
「姫さま、どうしたの? エルナが死んじゃって、ずっとおうちで泣いてたの?」
「こんにちは、ハンナ。うん、ちょっと泣いていた。でももう大丈夫。またここでお仕事をさせてもらうよ。お母様の分だ、運んでくれるか?」
「うん!」
いつもよりぎこちない姫君の笑みには気がつかず、少女はスープの器を受け取ると嬉しそうにクレスツェンツの傍を離れた。母親に食事を手渡し、「施療院のご飯はとても美味しいのよ!」と言って自慢げにアヒムを見上げている。
そう、と相槌を打つ彼の様子も明らかにぎこちなくなった。
向こうもクレスツェンツのことを覚えている。これは確実だな。
このまま彼から逃げるのも悔しい。そして、これはクレスツェンツが遊んでいるわけではないと彼に教えてやるよい機会だ。
むっと唇を引き結んで気合いを入れ、彼女はアヒムの傍までワゴンを転がして行った。
「今日も一人なのか」
いつになく威圧的なクレスツェンツの声色に、患者の女も、ハンナも、少なからず驚いているのが視界の隅に見える。
「はい」
彼はわずかにたじろぎ、けれど鮮やかな緑色の瞳を真っ直ぐクレスツェンツに向けてきた。返事も明瞭でクレスツェンツを避けようとはしていないらしい。
逃がすものか、と意気込んでいた彼女は肩透かしを食わされる。
「アヒムは、昨日も、一昨日も、その前の日もここに来たのよ。姫さまとお話、したかったんでしょう?」
どことなく険悪な雰囲気に怯えつつも、少女が勇気を振り絞って二人の間に割って入ってきた。そしてアヒムを擁護するかのようにその脇に寄りそう。「ね?」と少年に同意を求める彼女の様子はひどく不安げだった。
「姫さまはいないの? って、オーラフ様に訊いていたもの。お話ししたかったのよね?」
アヒムは苦笑交じりに頷いて、必死に自分を庇おうとしてくれる少女の頭を撫でた。
再度クレスツェンツを見上げてくる彼の表情はずいぶんばつが悪そうだ。
しかしアヒムははっきりと言った。
「誤解していたことを、お詫びしたくて」
叱られる子供のように悄然としていたが、その真っ直ぐな瞳には目一杯の謝意が見て取れる。
「オーラフ様からあなたのことを聞きました。すみません。よく知りもしないで、失礼なことを言いました」
そして立ち上がった彼は、あっさりと頭を下げた。気持ちよいほど全面的に自分の非を認めて。
「う、……ああ」
クレスツェンツは、結局何も言い返せない。
言葉にもならない間抜けな声を出して、スープの湯気の向こうにあるアヒムの黒髪を呆気にとられながら見つめただけだった。




