第8話:彷徨(後編)
静まり返った境内に、重い扉の閉まる音が虚しく響いた。
足元に落ちた一枚のメモ用紙。
拾い上げると、そこには乱れた字でとある人物の姓名と、山奥にある古い住所、そして電話番号が殴り書きされていた。
『この者でダメなら……もう諦めるしかない』
住職の言葉が頭から離れない。
手の平に残る『白い本』の冷たさが、じわじわと皮膚を麻痺させていくような気がした。
「……行くしかないのか」
僕はすがるような思いで車に乗り込み、メモに書かれた住所をカーナビに入力した。
車を走らせて一時間。
ナビの指示に従い、人里離れた山道へと入っていく。
周囲の景色は、次第に鬱蒼とした濃い木々に囲まれ、昼間だというのに薄暗くなっていった。
――おかしい。
ふと、違和感に気づく。
ナビの画面を見ると、目的地までの距離が「残り 5km」の表示から一向に減らない。
アクセルを踏み込み、何十分も一本道を走り続けているはずなのに、景色が一向に変わらないのだ。
同じ曲がり角、同じ折れた標識、同じカーブ。
まるで、同じ空間を永遠にループさせられているような感覚。
焦ってスマホを取り出し、メモの電話番号にかけようとしたが、画面の角には『圏外』の文字が点滅していた。
「くそっ……! 一旦引き返すか……!」
恐怖に耐えかね、僕はハンドルを切って車をUターンさせた。
ナビを自宅の住所にセットし直す。
だが――家にも、帰れなかった。
どれだけ車を走らせても、見覚えのある国道には出ない。
道路の標識からは文字が消え、すれ違う車も一台もない。
やがてガソリンの針がゼロを指し、エンジンがカラカラと音を立てて止まった。
静寂が車内を包み込む。
車の外へ出ても、そこは見たこともない薄暗い一本道。
前を見ても、後ろを見ても、深い霧と木々が立ち込めているだけだった。
自分の家がどこにあったのか。
職場の名前は何だったか。
自分がいつからこうして道を走っていたのか……記憶の輪郭すら、ぼやけて思い出せなくなっていく。
ダッシュボードの上。
いつの間にか、あの『白い本』が勝手に開き、パラパラとページをめくっていた。
そこには、僕がここに来るまでのすべての出来事が、文字となって刻まれていた。
そして、最後のページ。
『……どこにも辿り着けない。家にも帰れない。僕は、自分が誰なのかも分からなくなりながら、今日もこの道を歩き続けている――』
カタカタと文字を刻み終えた本は、次の瞬間、すうっと空気に溶けるように消えてなくなった。
本は消えた。
けれど、僕の前に広がる『終わりのない一本道』は、どこまでも、どこまでも続いていた。




