第6話:違和感(後編)
教室に残された私は、自分の机の上にポツンと置かれた『白い本』から目を離せなかった。
あおいには見えていなかった。
それだけじゃない。戻ってきたあおいの話し方、笑う時の口元の歪み方、瞬きの回数……そのすべてが、私の知っているあおいと『ほんの少しだけ』違っていた。
周りのクラスメイトたちを見渡してみる。
談笑している女子グループ、スマホをいじっている男子生徒。
いつもと変わらない日常の光景のはずなのに、全員の動きがどこかギコちなく、まるで人形が人間の真似をして動いているかのような不快感が全身を襲う。
「……無理」
耐えきれなくなった私は、気味が悪くて触ることもできないその本を机の上に置いたまま、逃げるように教室を飛び出した。
◇
アパートへ戻り、玄関の鍵を二重にかけた。
「ハぁ……ハぁ……っ」
背中をドアに預け、荒い息を吐く。
大学から自宅へ帰る途中の街並みも、すれ違う通行人も、みんな何かがおかしかった。
服装も顔も知っている近所の人なのに、私とすれ違う瞬間の『目の動き』や『歩幅』が、どこか狂っているのだ。
手足の震えを抑えながら、心を落ち着かせようと奥の部屋へ足を踏み入れる。
「……あ」
息が止まった。
部屋のローテーブルの上に、ポツンと『それ』が置いてあった。
触りたくもないからと、大学の教室の机の上に置いて逃げてきたはずの――あの『白い本』だ。
「なんで……なんで家にあるのよ……!」
さすがに恐怖で狂いそうになった。
鍵はかけて出かけたはずだし、窓だって閉まっている。
触れてもいないはずの本が、なぜ先回りして私の部屋のテーブルの上にあるのか。
逃げ出したいのに、あまりの不気味さに目が離せない。
恐る恐る近づき、震える指先で白い表紙をめくった。
そこには、ギッシリと黒い文字が印字されていた。
……見知らぬ男性が古本屋で拾った話。
……警備員の男性が、夜のオフィスビルで拾い、自分の部屋にまで本が侵入してきた話。
まるで、誰かが実際に体験した恐怖の記録が、リアルタイムのログのように何十ページも書き連ねられている。
そして、何十ページもめくった先の白紙のページで、ペンが走るような音が響き始めた。
カタ……カタカタカタ……。
誰も何も持っていないのに、真っ白な紙の上に、黒いインクがじわじわと染み出し、文字が刻まれていく。
『……一人暮らしの女子大生。コインランドリーで本を見かけた。大学の教室で本が机にあった。友達には見えないらしい。怖くなって本を置いて家に逃げ帰ると、部屋のテーブルの上に本があった。今、この本を開いている――』
「嫌……やめて……!」
私の思考と体験が、リアルタイムで本に書き込まれていく。
ページの下へ下へと、インクが溢れるように文字が紡がれていく。
『――何かが違う。みんな、少しずつ何かが違う。自分以外の人が、みんな変わってしまっている。何がと言われても上手く言えないけれど、この違和感が気持ち悪い。これって自分がおかしいの? 分からない……分からない、分からない、分からない……』
びっしりとページを埋め尽くす『分からない』の文字。
その文字を追いかけた瞬間――
フッ……。
目の前にあったはずの『白い本』が、煙のように跡形もなく消え去った。
「え……?」
ローテーブルの上には、最初から何もなかったかのように、私の部屋の静けさだけが残されていた。
本は消えた。
……けれど、窓の外から聞こえる車の音も、隣の部屋から聞こえる微かな足音も、やっぱり『何かがズレて』いる。
本は去ったのに、狂ってしまった私の世界は、もう元には戻らない。




