第5話:違和感(前編)
引っ越してきてから、ちょうど一週間が経った。
一人暮らしを始めたばかりの私の部屋には、まだ家電が揃っていない。
特に洗濯機を買う予算が後回しになってしまったため、週に二回、徒歩五分ほどの場所にある深夜営業のコインランドリーに通うのが日課になっていた。
夜の十時過ぎ。
ガラガラと音を立てて回る洗濯機の前で、私は畳み用の大きな作業テーブルに腰掛けていた。
ふと、テーブルの端に目が留まる。
「……ん?」
そこに、一冊の本が置かれていた。
タイトルも著者名も書かれていない、文庫本サイズの真っ白な本。
誰かの忘れ物だろうか。気になりはしたけれど、見知らぬ人の物に下手に触りたくはなかった。
私は視線を逸らし、ポケットからスマホを取り出して動画を見始めることにした。
イヤホンから流れるお気に入りの動画。
……なのに、なぜか集中できない。
首筋に、まとわりつくような不快な違和感があった。
まるで、誰かがじっと私を見つめているような感覚。
気になってちらりと画面から目を上げると、コインランドリーの外、街灯の薄暗がりの中に誰かが立っている気がした。
けれど、目を凝らすとただの街路樹の影だ。
気のせいか、と自分に言い聞かせる。
洗濯が終わり、濡れた衣類をバックパックに詰め込んで店を出た。
アパートへ戻る道中も、ずっとその『違和感』は消えなかった。
後ろを振り返っても誰もいない。なのに、自分の足音とはほんの少しだけズレた『別の足音』が、少し離れたところから付いてきているような気がしてならない。
部屋につき、鍵をかけてようやく息をついた。
「疲れてるのかな……」
引っ越し疲れのせいにして、私は逃げるように布団に潜り込んだ。
◇
翌朝。
目を覚ますと、昨夜の不気味な感覚は少し和らいでいた。
私はいつものように大学へ向かう準備をし、家を出た。
通学路の風景も、いつも通りの日常に見える。……ほんの少しだけ、街の空気の密度が違うような、妙なズレを感じはしたけれど、特に気にするほどでもないと思ってスルーした。
一限目の講義が始まる前、教室に入る。
まだ人はまばらだった。自分の席に向かい、バッグを置こうとしたその時――
私の足がピタリと止まった。
「……え?」
私の大きな大学の講義用デスクの真ん中に、ポツンと『それ』が置いてあった。
表紙にも背表紙にも何も書かれていない、真っ白な文庫本。
昨日の夜、コインランドリーのテーブルで見かけた、あの本だった。
「なんで……?」
なんで、コインランドリーにあったはずの忘れていった本が、大学の私の席にあるの?
頭が混乱していると、後ろからパタパタと足音が聞こえ、仲の良い友人のあおいがやってきた。
「おはよー! なに固まってんの?」
「あ、あおい……! ねぇ、これって誰かの忘れ物かな?」
私が机の上の真っ白な本を指さすと、あおいは首をかしげて私の机を見つめた。
「は? 何が?」
「何がって……この机の上にある本だよ! 白いノートみたいなやつ!」
私が焦って声を張り上げると、あおいはプッと吹き出した。
「なにいってんのー? 机の上、何も置いてないじゃん。朝からまだ寝ぼけてるわけ?」
「え……?」
あおいは冗談を言っているようには見えなかった。本気で不思議そうな顔をしている。
「……え、見えないの……? ここにあるじゃん……」
「ほんと何言ってるの笑わせないでよー。あ、私ちょっとお手洗い行ってくるね!」
あおいはひらひらと手を振りながら教室を出て行った。
その背中を見送りながら、胸の奥から冷たい塊がせり上がってくるのを感じた。
目の前に確かに存在する、真っ白な本。
なのに、あおいには見えていない。
そして何より恐ろしかったのは――手を振りながら去っていったあおいの『歩き方』や『笑い方』が、今まで知っていたあおいと、どこか決定的に『違っている』気がしたことだった。




