第4話:深夜巡回(後編)
息が上手く吸えない。
玄関で靴を履いたまま、僕は金縛りにあったようにその場から動けずにいた。
目の前、アパートの狭い廊下の真ん中に転がっている『白い本』。
オフィスビルの警備室の机の上に、わざわざメモまで添えて置いてきたはずの代物だ。
「……誰かの……悪戯か……?」
震える声で呟いてみるが、空しいだけだった。
鍵を開けて入ったばかりのこの部屋に、誰かが先回りして本を置くなんて不可能な話だ。
ましてや、オフィスビルの警備室からこの本を持ち出すことだってできるはずがない。
カサリ。
静まり返った部屋の中で、誰も触れていないはずの本が、ほんの少しだけ揺れた。
ドクンッと心臓が激しく脈打ち、冷や汗が額を伝り落ちる。
逃げ出したい。
今すぐこのドアを飛び出して、太陽の光が届く路上へ逃げ、警察に駆け込みたい。
だが、金縛りに遭ったかのように視線が本から離れないのだ。
まるで目に見えない糸で手繰り寄せられるように、足が勝手に前へと動いてしまう。
一歩、また一歩。
ついに本の前までたどり着き、膝を折る。
ゴクリと唾を飲み込み、震える指先で白い表紙にそっと触れた。
――冷たい。
氷というよりは、冷たくなった人間の皮膚に触れているような、不快で湿った感触。
逃げ出したい衝動を必死に抑え込み、表紙をゆっくりとめくった。
「……え……?」
目を見開く。
白紙のはずだった。
さっきオフィスビルの四階で拾った時は、どこをどうめくっても、一文字すら書かれていなかったはずなのだ。
なのに、最初のページには、まるで精巧な印刷機で刷られたかのように、ぎっしりと黒い文字が埋め尽くされていた。
『……古本屋で本を拾った。店主には見えないらしい。棚に戻したはずなのにカバンに入っていた。帰り道、カバンの中からペラペラと音がする。街の人々がカバンを見つめてくる。部屋の電気は消えた。今、後ろに――』
『……本は消えた。だが視線が消えない。カフェで友人に話しても誰も信じてくれない。部屋の隙間から誰かが見ている。眠れない。僕はどうなってしまうのか――』
なに、これ……。
そこに書かれていたのは、見知らぬ誰かの、あまりにも生々しく狂気じみた恐怖の独白だった。
ページをめくるたび、びっしりと印字された異様な体験談が次から次へと目に飛び込んでくる。
何十ページも貪るようにめくった先で、文章は突然途切れ――再び『白紙』のページが現れた。
カタ……カタカタカタ……。
突然、静まり返った室内に不快な異音が響き渡った。
音の発生源は、僕の手の中にある本だった。
ペンなど誰も握っていない。
なのに、真っ白な用紙の上に、まるで透明な人間がタイプライターを猛烈な速度で叩いているかのように、黒いインクがジワジワと染み出し、文字を刻み始めていた。
『……深夜二時。築三〇年のオフィスビル。四階の廊下の真ん中で本を拾った。警備室にメモを添えて置いた。だが、帰宅すると自分の家の廊下の真ん中に本があった。今、男は恐怖で震えながら、このページを開いている――』
「ひっ……!?」
自分がいま置かれている状況、そして考えている恐怖そのものが、リアルタイムでリアルな文字となって書き込まれていく。
「嫌だ……やめろ……やめろ!!」
悲鳴を上げ、僕は本を廊下の壁に向かって投げ捨てた。
パサリと音を立ててフローリングに落ちた本は、なおもカタカタと不気味な音を立てながら、勝手にページをめくり続けている。
その時だった。
パツンッ。
玄関の電球が乾いた音を立てて切れ、部屋が急激な暗闇に包まれた。
昼間のはずなのに、遮光カーテンが締め切られた室内は、まるで真夜中のように暗い。
その暗闇の中、床に落ちた『白い本』だけが、青白く薄ぼんやりと光を放っていた。
カタカタカタカタ……!
文字が刻まれる音が激しさを増していく。
恐ろしい勢いでページが勝手にめくられていき、最後に一ページだけを残してピタリと止まった。
青白い光に照らし出されたそのページの最後、一番下に、ぽつんと新しい文字が浮かび上がる。
『――あなたには、この本が見えますか?』
その文字を心の中で読み上げた瞬間、僕の背後の暗闇から――
カツン……カツン……。
僕が履いているのと同じ、重い安全靴の足音がじわじわと近づいてきた。




