第3話:深夜巡回(前編)
深夜二時。
築三〇年を超えるビルは、昼間の賑わいが嘘のように静まり返っていた。
カツン、カツン。
僕が履いている安全靴の重い音が、コンクリートの壁に反射して寂しく響く。
このオフィスビルで夜間警備員として働き始めて三年。
長年染み付いたカビとエアコンの埃っぽい匂い、そして誰もいないフロアの薄暗闇には、もうすっかり慣れ切っていたはずだった。
懐中電灯の細い光を前方に照射しながら、ゆっくりと足を前に進める。
整然と並ぶ無人のデスク、消し忘れたPCモニターの青白い光、そして天井の隅で怪しく点滅する非常口の誘導灯。
毎晩繰り返される、何の変哲もない巡回ルートだ。
エレベーターで四階へ上がり、長く伸びる廊下に差し掛かった、その時だった。
「……ん?」
懐中電灯の光の先、まっすぐに伸びる廊下の『真ん中』に、小さな影が落ちていた。
カツン……カツン……。
足音を殺し、慎重に近づいていく。
誰かが書類か何かを落としたのだろうか。
だが、距離が縮まるにつれて、胃のあたりがズキリと痛むような、嫌な違和感が膨らみ始める。
それは、四角く厚みのある物体――一冊の本だった。
壁際に落ちているわけでもなく、オフィスへと続くドアの前でもない。
まるで誰かが定規で正確に寸法を測って置いたかのように、幅三メートルほどの廊下の、寸分違わぬ『真真ん中』にポツンと鎮座している。
表紙にも背表紙にも、タイトルはおろか著者名一つ書かれていない。
ただの文庫本サイズの、真っ白な無地の本だ。
「……なんだこれ。誰かの忘れ物か?」
立ち止まり、周囲を見回す。
当然、誰もいない。四階のテナントは全て施錠されており、残業している気配もなかった。
気味が悪いと思いながらも、放置するわけにもいかず、腰を落として手を伸ばす。
指先が表紙に触れた瞬間、ゾクッと寒気が走った。
――冷たい。
まるで冬場の屋外に放置されていた金属のように異様に冷たく、ズシリと、湿った肉でも詰まっているかのような不自然な重みが手に伝わってきた。
不気味に思いつつも、親指でページの端をパラパラと軽くめくってみる。
白紙。
どこをめくっても、文字どころか線一本入っていない。ただの真っ白な用紙の束だった。
「誰かのノートか……それにしても気味が悪いな」
僕は理由のない胸騒ぎを振り払うようにそれを制服のポケットに押し込み、逃げるようにその場を後にした。
◇
一階の警備室に戻り、パイプ椅子に深々と腰掛けた。
蛍光灯の眩しい明かりの下で改めて見てみても、やっぱりただの真っ白な文庫本にしか見えない。
だが、手元に置いているだけで、なぜか皮膚がピリピリと痺れるような感覚があった。
僕はデスクの隅にある『落とし物保管箱』の横にその本を置くと、メモ用紙を取り出し、ボールペンで文字を走らせた。
『〇月〇日 〇2時15分 4階廊下中央にて取得』
メモを本の上に乗せ、クリップで挟んで残しておく。
その後、業務日誌に巡回異常なしと記入し、引き継ぎの時間を待った。
朝六時。
カチャリとドアが開き、交代の先輩警備員がやってきた。
「おつかれー。何か変わったことあったか?」
「お疲れ様です。あ、四階の廊下の真ん中に変な白い本が落ちてたんで、メモ添えてそこに置いてあります。落とし物処理お願いします」
「ん? ああ、了解。じゃ、ゆっくり休めよ」
先輩の言葉に見送られ、僕は制服から私服へ着替え、重い足取りでオフィスビルを後にした。
◇
朝の眩しい太陽の下を歩きながら、夜勤明けの重い体を引きずってアパートへと向かう。
寝不足で頭がぼんやりとしており、早く布団に潜り込みたい一心だった。
アパートの階段を上り、自分の部屋の前に立つ。
鍵穴に鍵を差し込み、回す。カチャリという金属音が階段室に響いた。
重い鉄のドアを押して中に入り、靴を脱ごうと玄関に足を踏み入れる。
「はぁ……やっと着いた……」
ため息をつきながら、脱いだ靴を揃えようと、ふと視線を上げた。
玄関から、奥の狭い和室へと続く短めの廊下。
その『真ん中』に、何かが落ちていた。
「……え?」
思考がピタリと停止した。
フローリングの目立つ真ん中に、ポツンと置かれた四角い影。
真っ白な表紙。タイトルも著者名もない、あの文庫本。
さっき、ビルの警備室の机の上に、メモを添えて置いてきたはずの――あの本だ。
置かれている向きも、廊下の真ん中という配置も、オフィスビルの四階で目撃した時と、寸分違わず全く同じだった。
「なんで……?」
背中から一気に血の気が引き、全身の毛穴が開くような感覚が襲う。
ドアの鍵は僕が今、自分の手で開けたのだ。
窓の鍵だって、昨日の出勤前に間違いなくすべて閉めた。
なのに、なぜ『これ』が、僕の家の中に落ちている?
震える足で、一歩、廊下へ踏み出す。
フローリングの真ん中に横たわる白い本が、まるで生き物のように、僕が近づいてくるのを静かに、ジッと待っている気がした。




