第2話:残された視線
カーテンの隙間から朝日が差し込んできたとき、ようやく僕は呼吸の仕方を思い出した。
一晩中、金縛りのような恐怖の中で震えていた。
背後に感じていたあの冷たい息と、湿った女の声。
おそるおそる、机の上に目をやる。
「……あ」
消えていた。
さっきまで確かにそこにあり、僕の恐怖をリアルタイムで文字にして書き連ねていた、あの『真っ白な本』が。
跡形もなく、消え去っていた。
「夢……だったのか……?」
カバンの中をひっくり返しても、部屋を探しても、どこにもない。
だが、首筋に残った氷のような冷たさと、速くなった心臓の鼓動だけは、どうしても夢だなんて思わせてくれなかった。
◇
「いやいや、お前疲れすぎだって」
昼過ぎのカフェ。向かいに座る知人は、アイスコーヒーのシロップを混ぜながら呆れたように笑った。
「見えない本? 勝手に文字が浮かび上がる? ホラー映画の観すぎだろ。最近仕事忙しいって言ってたし、金縛りとタチの悪い悪夢を同時に見ただけだって」
「違うんだ! 本当に見えたんだって! カバンの音も、街の人の視線も……!」
必死に訴えかける僕を、知人は可哀想なものを見るような目で見つめる。
「はいはい。とりあえず今日は早めに帰って温かい風呂入って寝ろって。な?」
……だめだ。信じてもらえるはずがない。
自分だって、他人にこんな話をされたら頭がおかしくなったと思うだろう。
胸の奥に、冷たくて重い「孤立感」がずしりと居座った。
◇
アパートに帰り、部屋の明かりをつける。
本は、相変わらずどこにもない。
……なのに。
(……なんなんだよ、これ)
消えていない。
本は消えたというのに、あの『視線』だけが、部屋の中に残っていた。
クローゼットのわずかな隙間。
カーテンの影。
ベッドの下の暗がり。
ユニットバスの扉の向こう。
部屋のあらゆる『隙間』から、じっと僕を見つめる何者かの気配が消えない。
電気を消すのが怖くて、部屋の照明も、テレビも、スマホの画面もすべて点けっぱなしにした。
それでも、背後に刺さるような視線がぬぐえない。
一日、また一日と日が過ぎても、気配は薄れるどころか、日増しに濃厚になっていく。
部屋の隅の暗闇が、じわじわと広がっている気さえする。
まぶたの裏にまで視線を感じて、まどろむことすらできない。
鏡に映る自分の顔は、目の下に濃いクマが張り付き、まるで幽鬼のようだった。
「……あの本は、どこに行ったんだよ……」
頭が痛い。意識が朦朧とする。
あの本はどこへ消えたのか。
そして、僕から『本』が去ったあと、この残された恐怖はいつ終わるのか。
……いや、終わらないのだ。
あいつは、ただ『次の場所』へ移動しただけで、僕を解放してくれたわけじゃない。
ベッドの上で震えながら、カサリ、と部屋のどこかで紙がめくられるような幻聴を聞く。
僕はこれから、どうなってしまうのだろう。
僕を見つめるこの無数の視線は、いつ、僕を連れ去りに来るのだろうか。




