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深夜の静寂に包まれた「慈光寺」の本堂。
線香の煙が揺らめく暗がりの中で、老住職の明然は、仏壇に向かって静かに念仏を唱えていた。
手に持った数珠を繰る音が、静まり返った境内にカチ……カチ……と寂しく響く。
だが、その心は決して穏やかではなかった。
(……あの男も、もう助からんのだろうな)
数日前、学校で起きた事件のことを調べて、この寺を訪ねてきた男の顔が脳裏に浮かぶ。
明然は彼に対し、「そんな下らん怪談など知らん」「今すぐ立ち去れ」と冷たく言い放ち、境内の外へ追い払った。
だが――あれは嘘だ。
知らないはずがなかった。忘れることなど、できるはずがなかった。
念仏を唱える手を止め、明然は深いため息とともに立ち上がった。
本堂の奥、鍵の付いた古い箪笥から、長年誰の目にも触れさせていない一冊の古い雑記を取り出す。
それは、かつてこの寺の師匠が命を落とす直前まで記していた手記だった。
『姿なき白い綴り、現れし時、人は理を失いて死に至る』
『仏法をもってしても、これを払う術なし。関わりし者はただ、滅びを待つのみ――』
人の死を予言するのではない。呪いを発するのでもない。
ただそこに「存在する」と認識した人間を、あらかじめ決められた絶望的な結末へと滑り落とす異物。経を上げようが、祈祷を捧げようが、仏の加護すら一切通用しない虚無。
かつて師匠がその「何か」に憑かれ、狂って死んでいく様を間近で見続けていた明然は、痛いほど知っていたのだ。あの『白い本』に関わってしまった人間には、どんな救済も届かないのだと。
(だから……あの時も、追い返すしかなかった)
数日前、必死な眼差しで寺にやってきたあの男。
彼と接している時、明然の心の中に、ふと思い当たる節があった。
(そういえば……少し前にも、同じようなことを言っていた男がいたな)
その時も自分には何もできず、ただ関わらないようにして突っぱねた。
だが今回、あの男を追い返す間際、明然の脳裏にその少し前の記憶がよぎったのだ。
自分には何もできない。だが、冷たく突っぱねて追い返す際、明然は紙切れを取り出し、去り際のあの男の手にそっと握らせた。少し前、同じような異変を追っていた男の連絡先を書き留めたメモだ。
「……あれが、私にできる限界じゃった」
あの連絡先を渡したところで、何かが解決するわけではない。
だが、あの『白い本』に関わってしまった者たちに希望など残されていないことだけは、明然には分かっていた。
ふと、境内を夜風が吹き抜け、本堂の扉がガタガタと小さく揺れた。
明然は師の手記を静かに閉じ、暗闇の奥を見つめた。
自分は生き残った。師の狂死に怯え、何もできず、ただ恐怖から目を背けることで、こうして生き長らえている。
「情けない……実に、情けない……」
老僧の呟きは、誰に届くこともなく、静寂の深淵へと消えていった。




