第24話:現実主義者(後編)
「誠さん……お願いだから、一度病院に行きましょう?」
リビングの明かりの下、妻の恵子が怯えた目で遠藤を見つめていた。傍らでは高校生の娘が、関わりたくないと言わんばかりの視線を向けながら部屋の隅へ身を寄せている。
事件の現場検証から帰宅して以降、遠藤の行動は明らかに異常だった。
ダイニングテーブルの真ん中を指差し、「ここに置いてあるだろ」「どうして見えないフリをするんだ」と家族に激しい口調で詰め寄り、何もない空間を凝視してはブツブツと独り言を呟いていたからだ。
「病院だと? 狂ってるのは俺じゃない! これが見えないお前たちの方だ!」
遠藤は怒鳴り散らし、テーブルの上の「それ」を激しく叩いた。
だが、妻と娘の目には、遠藤が何もない木目の天板を何度も力任せに殴りつけ、一人で拳を痛めているようにしか見えない。
「もうやめてよ! お父さんおかしいよ! 誰もそんなノートなんて見てないよ!」
娘の悲鳴のような叫びが響く。
遠藤の視線は、テーブルの上の白いノートに注がれていた。
誰の手も加わっていないはずのページが、パラリと捲れる。
『家族からの孤立』
『正気を疑われ、居場所を失う』
黒い文字が、嘲笑うように次々と浮かび上がってくる。
「違う……俺は現実を見ているんだ……警察官として、客観的な事実を……!」
「お願いだから落ち着いて! もう見ていられないの!」
泣き叫ぶ妻の声も、もはや遠藤の耳には届かない。
理性を保つための「現実主義」というプライドが、自分にしか見えない怪異によって内側から粉々に砕かれていく。
耐えかねた妻はその夜、娘を連れて実家へ避難した。取り残された広い家で、遠藤は完全に孤立した。
それから三日後。
職場に出勤せず連絡も取れなくなった遠藤を心配し、同僚の刑事が実家に避難していた妻とともに自宅を訪れた。
「遠藤さん! 入りますよ!」
妻が鍵を開けて玄関に入り、声をかけるが返事はない。重苦しい沈黙が漂う廊下を抜け、書斎のドアを開けた瞬間、妻は短い悲鳴を上げてその場にへたり込んだ。
室内は荒れ果てていた。壁という壁に、遠藤の手で「俺は狂っていない」「見えている」と血の滲むような筆跡で文字が書き殴られている。
しかし、肝心の遠藤の姿はどこにもなかった。
足の踏み場もない室内の中央、デスクの上には、遠藤が大切にしていた警察手帳とスマートフォンだけが残されていた。
窓もドアも内側から鍵が施錠された、完全な密室。
「……遠藤さん? どこに行ったんですか……?」
部下の声が、誰もいない部屋に虚しく響く。
部屋の床、捜査資料が散らばるその中央に――彼らには絶対に認識できない一冊の『白いノート』が、バタンと静かに閉じた。
警察捜査一課警部補・遠藤誠。
二重の怪死事件を捜査していた担当刑事の謎の失踪は、「事件のストレスによる精神失調と蒸発」として処理され、真相は永久に闇へと葬られた。




