第23話:現実主義者(前編)
「警察がオカルト信じてどうすんだよ。バカバカしい」
深夜の県立高校・2階廊下。現場検証の指示を出しながら、警部補の遠藤 誠(42)は煙草を吸いたい衝動をこらえて鼻で笑った。
遠藤は叩き上げの刑事だ。42年の人生において、目に見える証拠と物理的な事実だけを信じて生きてきた。神も仏も霊も見たことがない。凶悪犯罪者がどれほど理不尽な動機を語ろうと、そこには必ず人間心理のメカニズムという「現実的な裏付け」が存在する。オカルトなど、恐怖に耐えかねた凡人が作り出す逃避口に過ぎないというのが彼の持論だった。
しかし、この高校ではここ数日の間に二人の人間が死んでいる。
一人は昼間にパニックを起こして階段から転げ落ちて死んだ女子生徒。もう一人は今夜、立ち入り禁止の校舎に忍び込んで生配信中に謎の死を遂げた「裏タツヤ」と名乗る配信者の男だ。
ネット上では「呪いの白いノート」だの「見えたら死ぬ」だのと大騒ぎになり、過熱した世論に押し切られる形で捜査一課の遠藤が出張る羽目になった。
「遠藤さん、配信者の死因ですが……目視の範囲では喉に何者かに強く締め上げられたような絞痕と、落下の衝撃による頸椎骨折です。ただ、カメラの映像には犯人の姿もワイヤーのような道具も一切映っておらず……」
「ワイヤーが見えないなら、極細の特殊なナイロン糸でも使ったんだろ。あるいは本人が巧妙に自作自演しようとして事故ったかだ。鑑識に廊下の天井と壁、それから監視カメラの画角を徹底的に調べさせろ。トリックのない殺人なんて存在しない」
部下の若い刑事を冷たく一蹴し、遠藤は事件現場となった廊下の床を見下ろした。
そこには、配信者が倒れていた位置を示す白いチョークの白線だけが静かに描かれている。
「だいたい、最近の若い奴は噂話ひとつで踊らされすぎなんだ。白いノートがなんだ。そんなもので人が死ぬなら、警察も苦労は……」
言いかけた遠藤の言葉が、ふと途切れた。
チョークで囲まれた枠の中、誰も何も置いていないはずの灰色の床タイル上に、何かがある。
――表紙も背表紙も、吸い込まれるように真っ白な、一冊のノート。
不自然なほど綺麗な白だった。現場検証で大勢の警察官が靴のまま足踏みを入れた現場で、そのノートだけが塵ひとつ付着せず、そこにぽつんと落ちている。
「……おい、鑑識。証拠品の回収漏れだぞ。こんな目立つところにノートが落ちてる」
遠藤が声をかけると、近くでカメラを構えていた鑑識官が振り返り、遠藤が指差す足元を覗き込んだ。
「ノート……ですか? 何も落ちてませんが」
「は? 目が腐ってんのか。そこだろ、白線の真ん中。灰色の床の上に白いノートが置いてあるだろ」
「え……? いや、遠藤さん、マジで何も……ほら」
鑑識官は首を傾げながら歩み寄り、遠藤が指差したノートの真上の空間を踏みつけるように足を下ろした。
――ザッ。
鑑識官の靴底が、ノートの存在を完全に無視して床タイルに直接着地する。
遠藤の目には、鑑識官の靴が「ノートの表紙をズブズブと透過して床を踏んでいる」ように見えた。
「な……」
遠藤の思考がフリーズする。
幻覚か? 連日の徹夜捜査で脳が疲労しているのか?
「ほら、何もないですよ? 遠藤さん、お疲れなんじゃないですか」
「……いや、待て」
遠藤は鑑識官を押し退け、自ら床に屈み込んだ。
半信半疑のまま、存在しないはずの白いノートへと手を伸ばす。
指先が、ノートの表面に触れた。
――ひやりとした、冷たい紙の質感が指に伝わる。
遠藤は息を呑んだ。感触がある。重みがある。力を込めると、しっかりと指の間に挟み込むことができた。
それを掴んで持ち上げると、傍らにいた部下と鑑識官は、まるで狂人でも見るかのような表情で遠藤の手元を注視した。
「遠藤さん……何もない空間を掴んで、一体何をしてるんですか……?」
その声には、明らかな困惑と恐怖が混じっていた。
「見えない……のか? これが」
「……何がですか? 遠藤さん、冗談ですよね?」
遠藤の手には、ずっしりとしたB5サイズのノートが存在している。表紙を触る感触も、紙の角が指に当たる鋭い感覚も本物だ。だが、自分以外の人間には、遠藤が「空気に向かって手を握りしめている」ようにしか見えていない。
背筋に、氷を直接突き刺されたような強烈な悪寒が走った。
――パラ……。
遠藤の手の中で、誰の手も加わっていないはずの白いノートが、ゆっくりとページを開いた。
1ページ目の真っ白な紙面に、まるで透明な人間がインクで書き込んでいるかのように、黒い文字がじわじわと浮かび上がってくる。
『遠藤 誠(42) 捜査一課警部補』
自分の名前。年齢。階級。
「な……んだ……これ……」
「遠藤さん!? 顔色が真っ青ですよ! 本当に大丈夫ですか!?」
部下の声が遠くで激しく響く。
絶対にあり得ない。自分は警察官だ。オカルトなんて絶対に存在するはずがない。集団催眠だ。疲れによる強いストレス反応だ。
現実主義者としての理性が、必死に「目の前の現実」を拒絶しようと叫び声を上げる。
遠藤は激しい動悸を押し殺しながら、震える手でその見えないノートをコートの深いポケットへと押し込んだ。
ポケットの中で、ノートはズシリと重く、冷たく存在し続けていた。
それが、叩き上げの刑事を狂気へと引きずり下ろす、長い拷問の始まりであることも知らずに――。




