第12話:夜勤病棟(後編)
「……ねぇ、引き出しに閉まったんだよね?」
青ざめた顔の先輩が、私の隣で震える声を漏らす。
「はい……確かに鍵をかけて入れました。なのに、なんで……」
廊下の真ん中にぽつんと横たわる『白い本』。
逃げ出したいのに、吸い寄せられるように二人で足を進めてしまった。
本の真上に立ち、見下ろす。
表紙はやはり真っ白で、タイトルも名前もない。
先輩が恐る恐るかがみ込み、手を伸ばした。
本に触れた瞬間、先輩が「ひっ」と小さな悲鳴を上げる。
「つ、つめたい……! なにこれ、氷みたい……!」
そのまま弾かれたように表紙が開かれた。
そこには、今まで誰も書いたことのないはずの黒い文字が、狂ったような密度でぎっしりと刻まれていた。
古本屋、オフィスビル、コインランドリー、トラックの荷台、そして終電後の駅……。
これまでこの本を手にした者たちの、リアルタイムの恐怖の記録。
「なになにこれ……意味が分からない……!」
混乱する先輩の隣で、私は白紙のページが開かれたのを見た。
カタカタカタカタ……!
誰も何も持っていないのに、ペンで紙を強く引っかくような高い音が廊下に響き渡る。
『……深夜の総合病院。四階病棟。看護師の二人。引き出しに閉じ込めたはずの本が、廊下の真ん中に移動していた。二人で本を開いている――』
「嫌……! 嫌あぁぁっ!!」
先輩が本を叩き落とそうとした、その時だった。
ピピッ、ピピッ、ピピッ、ピピッ……!
静まり返った病棟に、ナースコールが一斉に鳴り響いた。
一つや二つではない。
四〇一号室から四一〇号室まで、ナースステーションのモニターに表示されたすべての病室のランプが、赤く激しく点滅している。
ナースコールだけではない。
廊下の非常灯が明滅し、パチパチと音を立てて消えていく。
「な、なに……!? 患者さんたちが……!?」
暗闇に包まれかけた廊下の奥。
各病室のドアが、ギギギ……と音を立てて一斉に開き始めた。
病室からゆっくりと這い出てくる影。
だが、それは患者たちではなかった。
うつむき、土のような顔色をした男女。
古本屋の男性、警備員、女子大生、トラックドライバー、そして駅員――。
これまで本に呑み込まれていった『過去の犠牲者たち』が、暗闇の中からズラリと姿を現し、こちらへ向かってじりじりと歩いてくる。
そして、彼らの後ろから滑り込むように現れたのは――あの『一両だけの古い電車』の幻影だった。
『――二人目の看護師も、もう逃げられない。病棟の闇は二人の意識を呑み込み、電車は新たな乗客を乗せて走り出す。』
文字が刻み終わった瞬間、足元の『白い本』が煙のように消え去った。
直後、病棟の明かりが完全に途絶える。
「きゃあああああぁぁぁぁっっ!!」
先輩の叫び声と、私の悲鳴が暗闇に溶けていく。
翌朝。
日勤のスタッフが出勤した時、四階病棟のナースステーションには誰もいなかった。
夜勤の看護師二人と、全病室のカルテだけが、跡形もなく消え去っていたという。




