行き違い
身支度をすると、と言っても、体操着から余所行きの服に着替えただけだったのだが、滅多に着ない薄青色の半袖シャツとデニム地の短パンを着て通学帽を被り「いってきます!」と両親に声をかけるものの、父親は気だるげに少しだけ振り向いて「おう」と応じ、母親はつけっぱなしのTVの前で舟を漕いでいるのだった。エレベーターホールに行くと、エレベーターは丁度目の前を通り過ぎて降りて行ったころだった。この建物唯一のエレベーターなので、今からエレベーターが上がってくるのを待つのがもどかしかった玲也は9階まで階段で行くことにした。8階あたりで息が上がってきたものの根性で9階まで上がりきる。そして、エレベーターホールから西に向かって右手に出て行く、するとほどなく最初の玄関ドアの前につき、ドアの斜め上には【906号室】の表示の下に【川村】と書かれた簡易表札が見えた。呼び鈴のボタンを押そうと手を伸ばすと、突然、鼓動が早まってきた。初めて訪問する他所の家の呼び鈴を押すのがこんなにも緊張することなのかということを生まれて初めて知る玲也だった。
呼び鈴を押してからしばらく待ったが、返事も中で誰かが動く気配も感じられなかった。日曜だからまだ寝てるのかな?と思うものの、流石に9時前ともなれば大抵の人は起きているのでは?と気を取り直し、もう1回呼び鈴を鳴らしてみる。だが、最初と同様、全く何の音沙汰もなかった。『俺の勇気とドキドキを返せよ!』と誰にともなくあたり散らしたい気持ちに襲われながら、玲也は失意のうちに自宅に戻ることにした。自宅に戻って「ただいま」と告げるものの、母親はソファーに寝そべった状態で眠っており、父親の姿はなかった。
自室に戻った玲也は、なんとなく窓の網戸を開けて外を眺める。階下の駐車場は、いつもならたくさん車が停まっているのだが、今日は盆休みの日曜日と言うこともあってか車が半数以下しかないように見えた。そんな中、町役場方面からタクシーが1台やってきた。昨日、玲也が玲子を追いかけて行った多嘉良橋は|乗用車《じょうようしゃ1台ならばぎりぎり通れる広さなので、そこから来たのだろう。タクシーは団地内駐車場に入ってくると、団地のエレベーターホール付近に停車した。すると、建物の陰から家族連れらしき3人が姿を現した。女性が先に乗り、男の子が次に乗り、最後に男性が乗り込んだ。男の子がタクシーに乗り込む直前にこっちを見上げた、彼、いや、彼女と目が合ってしまった。男の子の格好をしているが、あれは、間違いなく玲子だ。遠目ではっきりと見えていたわけではないが、玲也は直感的にあれは川村玲子で間違いないと思ったのだった。親子が乗り込んでから少しするとタクシーは走り出した。
彼女たちの行方が気になった玲也はタクシーを目で追う。タクシーは団地内駐車場出口から右手に向かって曲がって行った。来たときとは反対の方向へだ。タクシーが9号棟の陰で見えなくなると、玲也は慌ててベランダに向かった。TVドラマは番組の時間が終わりに近づいていた。玲也は母親が寝入っているのを尻目にベランダに出て、手すり越しに宝田大橋の方を見る。ほどなくしてタクシーが10号棟の陰から現れると、宝田大橋交差点の手前で停車する、どうやら、信号待ちのようだ。そのまま見続けていると、信号が青になるのを待ちかねたかのようにタクシーは直進しはじめ、上宝田集落方面に進んでいく。山裾までくると道は丁字路になっていて、タクシーが進んでいる道は突き当りになる。丁字路と言っても、平坦な丁字路ではなく、山裾から5mほど上にある町道の本線まで上がる坂になっている。タクシーはそこを左折して上がって行き、道なりに進んだ山奥の方側に行ったところにある2件目の農家の前で停車した。そこは屋号”すえよし”こと”末吉”の子孫の家なのだが、それは玲也の知るところではなかった。
ベランダから居間に戻ると、母親はさっきと違う寝姿で寝ていた。そこにツッコミを入れたくなったものの、そんなことをしている場合ではない。両親の寝室をちらっと覗くが、父親の姿は見えず、トイレにいる気配もない。自分の出先を伝えるべき相手は寝ている母親しかいないが、彼女を昼寝から起こすと厄介なことになるし、今は玲也にとっての緊急事態なのだ。電話台の引き出しから自分用の自宅の合鍵と自分の自転車の鍵を取り出すと、自宅に施錠をしてから出発したのだった。エレベーターホールでホールボタンを押すと10階で待機していたエレベーターはすぐに降りてきた。1回に到着するとすぐに、エレベーターホールの隣の区画にある自転車置き場から自分の自転車を見つけ出して乗り、中央広場を突っ切って宝田大橋に向かう。団地内から町役場に通ずる町道に出る。そこから宝田大橋交差点に行こうとした時、道路の反対側に花束を持った黒いワンピースの少女を見かけた。まるで、誰かのお葬式、いや、墓参りでもしようとするかのようだった。




