田島村の史記
”田島村由来記”と題された史記は文政9年から始まっている。江戸幕府から開拓団の役人として遣わされたのは田島清右衛門で、5年ほどかけて開拓を進め、6年目の天保3年から年貢を納め始めたと記されていた。ところが、天保4年に大洪水が起き、その際の土砂崩れに巻き込まれて流された田島清右衛門と村民の幼い子供の死体は多嘉良島山の頂上付近に打ち上げられていたと言う。当主である清右衛門には数え年で3歳の息子がいたが元服していなかったので、清右衛門の甥(伯父の長男)の新右衛門が後見人になったという。
「せいえもんさんのお嫁さんと子供はどうなったの?」と玲也が突然、口を挟んだ。「それは・・・わかりません。」となんだか歯切れの悪い回答をする主任。追い打ちをかけるように「この字は”斬首”だよね?」とシマオが追い打ちをかける。「へ、へぇ~、よくわかったねぇ」と驚く主任と葉山。ちなみに、フジショーも驚いていた。「この”早希”っていうの、人の名前だよね、この人が斬首されたんだね、で、この”?願”?これは”こんがん”のことかな?で、その後斬首?、なんか、箱根のお玉池みたいな話だなぁ。おじさん、なんでこの部分を飛ばしたの?」とシマオがさらに追い打ちをかけてくる。とても幼い子供とは思えないような鋭い質問に2人の司書の顔は引き攣ってしまった。名札から地元の小学2年生なのはわかるが(この当時は放課後も名札をつけて歩くことになっていた)、その理解度は小学2年生レベルではない。
落ち着きを取り戻した主任が「子供が知るべき話ではない」と断言するが、「それじゃ勉強にならないんじゃないっすかね?」と後輩の葉山が異議を出す。「そういう問題じゃない!」と語気を荒げる主任に子供達はびくついた。すると、彼らの後ろから「し・ゅ・に・ん」と、かなり圧の強い女性の声がした。5人が恐る恐る振り返ると、目が全然笑っていない笑顔の受付の女性が物凄い圧を醸し出して立っていた。彼女は主任が大きな声を出したので注意しに来たのだ。「主任、子供相手に何をやっているんでしょうか?」と物凄くドスの利いた彼女の声に主任司書はすっかり縮み上がってしまったのだった。普段おとなしい人が怒るとこんなにも怖いものなのかと。




