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主任司書の解説

早希さき顛末てんまつ


観念かんねんして渋々《しぶしぶ》解説かいせつはじめた主任しゅにんによると、洪水こうずいによる土砂崩どしゃくずれにまれそうになった子供こどもたすけようとした清右衛門せいえもんがその幼児ようじとともにながされたことで代官だいかん不在ふざいになったこと。そのとき洪水こうずいんぼのいねこそぎながされてしまったために、そのとしまったこめ収穫しゅうかくできなくなってしまったこと。代官だいかんつま早紀さき被害報告ひがいほうこく代官だいかん不在ふざいになったことと、稲田いなだ全滅ぜんめつしたために年貢ねんぐおさめることができないむねふみしたにもかかわらず幕府ばくふから年貢ねんぐ役人やくにんたので、年貢ねんぐ免除めんじょ懇願こんがんしたところ斬首ざんしゅされてしまったとのことだった。


間引まびき1回目いっかいめ


清右衛門せいえもんにはおさな息子むすこがいたが、その幼過おさなすぎて元服げんぷくしてないことと、このむらにはかれとそのつま以外いがいには政務せいむたずさわる資格しかくがあるものがいないことから、年貢ねんぐてに役人やくにんむらりまとめは百姓頭ひゃくしょうがしら春吉はるきちおこない、幕府ばくふから後見人こうけんにんとなる代官代理だいかんだいりおくられるのをつようにともうけて備蓄米びちくまい半分以上はんぶんいじょうっていった。のこりのこめ種籾たねもみとしてのこさなければならないため、村民そんみんべられそうなくさべたり万一まんいちのためにと清右衛門せいえもんたずさえてきていたあわ蕎麦そばにわあぜなど作付さくづけしてえていたが、蕎麦そばはそこそこれたもののはらふくれず、あわもあまりたくさんれたわけでもなかったので、翌年よくねんなつ子供こどもたちの間引まびきをすることになった。


やまてられた7しちにん子供こどもたちはそのとし台風たいふうきた山崩やまくずれか鉄砲水てっぽうみずながされたらしく、その死体したい多嘉良島山たからしまやま頂上ちょうじょうげられたらしい、かお原型げんけいをとどめていなかったために、どの死体したいだれのものなのかは判明はんめいできなかったが、体格たいかく性別せいべつから間引まびきされた7しちにん子供こどもであると推定すいていできたとのこと。それで村民そんみんは、やまかみがこの小山こやまに「そなもの人間にんげんまつっている」と解釈かいしゃくし、この島山しまやま多嘉良山たからやま名付なづけ、その頂上ちょうじょうに「島神社しまじんじゃ」としょうするちいさなほこらてて多嘉良川たからがわ上流じょうりゅう(おわす)やまの神々《かみがみ》と死者ししゃたましいまつったという。


新右衛門(しんえもん)赴任(ふにん)


その翌年(よくねん)(はる)洪水(こうずい)()えた(いね)収穫(しゅうかく)して(わず)かな(みの)りに不安(ふあん)(ぬぐ)えない村民(そんみん)(もと)に、大八車(だいはちぐるま)台分(だいぶん)米俵(こめだわら)(たずさ)えた田島新右衛門(たじましんえもん)とその家族(かぞく)、それに、側仕(そばづか)えの武士(ぶし)一団(いちだん)がやってきた。彼らは(おさな)清右衛門(せいえもん)息子(むすこ)である吉祥天(きっしょうてん)後見人(こうけんにん)として、その()成人(せいじん)して代官(だいかん)就任(しゅうにん)するまでの代官代理(だいかんだいり)として赴任(ふにん)してきたのだった。それに(ともな)い、春吉(はるきち)のもとに()()られていた吉祥天(きっしょうてん)後見人(こうけんにん)田島新右衛門(たじましんえもん)のもとに()()られることになったという。


しかし、これが()くなかった。新右衛門(しんえもん)所詮(しょせん)後見人(こうけんにん)でしかないため、吉祥天(きっしょうてん)元服(げんぷく)して家督(かとく)()いだら(かれ)はその部下(ぶか)として(はたら)かなければならなくなる。つまり、(かれ)叔父(おじ)息子(むすこ)部下(ぶか)にならなければならないのだ。本来(ほんらい)新右衛門(しんえもん)(ほう)家柄(いえがら)てきには(うえ)なのでとても面白(おもしろ)くない(はなし)である。『江戸(えど)旗本(はたもと)三男坊(さんなんぼう)として傘貼(かさは)りの内職(ないしょく)をしているよりも地方(ちほう)代官(だいかん)になった(ほう)威張(いば)れるから()い』と()うことで(かれ)清右衛門(せいえもん)(いえ)()()気満々(きまんまん)でやってきていたのだ。新右衛門(しんえもん)清右衛門(せいえもん)(とし)(ちか)かったので子供(こども)が4(にん)いた。息子(むすこ)(にん)(むすめ)(にん)だ。


吉祥天暗殺きっしょうてんあんさつ


そんな(なか)新右衛門(しんえもん)吉祥天(きっしょうてん)()()ったのだが、当然(とうぜん)ながら、(かれ)吉祥天(きっしょうてん)のことを(あるじ)()としては(あつか)わなかった。むしろ奴隷(どれい)のように(あつか)い、過酷(かこく)労働(ろうどう)(すく)ない食事(しょくじ)()(ごろ)しにしたので、(おさな)吉祥天(きっしょうてん)衰弱(すいじゃく)して瀕死状態(ひんしじょうたい)になるのにそれほど時間(じかん)はかからなかった。そうして、吉祥天(きっしょうてん)はぼろ雑巾(ぞうきん)のような姿(すがた)座敷牢(ざしきろう)放置(ほうち)され(よわ)って(うご)かなくなってしまった。それから2(ねん)(すこ)()った(ころ)(かれ)幼児(ようじ)死期(しき)(ちか)いことを(さっ)した新右衛門(しんえもん)は、ここで()なれては(かな)わぬと自宅外(じたくがい)殺害(さつがい)しようと(はか)った。(かれ)は、(むし)(いき)になっている吉祥天(きっしょうてん)(いとま)(あた)えることにした。そして、自分(じぶん)子供(こども)たちと()()きの子供(こども)たちに「吉祥天(きっしょうてん)川遊(かわあそ)びに()れて()ってやれ」と(めい)じたのだった。


新右衛門(しんえもん)長男(ちょうなん)父親(ちちおや)()()み、(おぼ)れたら二度(にど)死体(したい)()がらないと()われる(ふち)吉祥天(きっしょうてん)(ほう)()んできた。村人(むらびと)たちには、子供(こども)たちと(あそ)んでいるときに吉祥天(きっしょうてん)だけが(あやま)って()ちてしまったと説明(せつめい)した。百姓頭(ひゃくしょうがしら)春吉(はるきち)と、(むすめ)のために(いのち)()とした清右衛門(せいえもん)義理(ぎり)がある末吉(すえきち)納得(なっとく)しなかったし、弥吉(やきち)もお家乗(いえの)()りだと不満(ふまん)()らした。亡骸(なきがら)もないままこの3()だけで(かり)葬儀(そうぎ)(おこな)った。(じつ)は、この3()だけで山奥(やまおく)旧末吉邸跡地きゅうすえきちていあとち田島清右衛門(たじませいえもん)慰霊碑(いれいひ)()てていたのだが、その()かって左手(ひだりて)には早希(さき)墓碑(ぼひ)(つく)っていた。この3()清右衛門(せいえもん)慰霊碑(いれいひ)(はさ)んだ反対側(はんたいがわ)吉祥天(きっしょうてん)墓碑(ぼひ)()てることにした。吉祥天(きっしょうてん)(かぞ)(どし)享年(きょうねん)(さい)だった。こうして田島清右衛門(たじませいえもん)(いえ)断絶(だんぜつ)したのだ。


宝田村(たからだむら)おこり】


新右衛門しんえもん統治とうちから3さんねんち、吉祥天きっしょうてんかわ行方不明ゆくえふめいになったとしあきはいころ、もうそろそろこめ収穫しゅうかく時期じきだというのに台風たいふうた。このとき洪水こうずいにより、田島村たじまむらこめ収穫高しゅうかくだかは5割減ごわりげん凶作きょうさくとなってしまい、種籾たねもみのこせるかどうかとうところになった。だが、新右衛門しんえもん百姓ひゃくしょう種籾たねもみつことをゆるさず、こめすべ田島家たじまけあずかることとした。これに反発はんぱつした春吉はるきち弥吉やきち末吉すえきちの3さんけれたこめをこっそりとてるだけってこのむらからし、かわこうがわ移住いじゅうした。こうして、宝田村たからだむら誕生たんじょうした。


宝田村たからだむら田島村たじまむらよりも標高ひょうこうたかいために用水路ようすいろ整備せいびむずかしかったが、3さんにんとも清右衛門せいえもんもときと度量衡法どりょうこうほう土木建築学どぼくけんちくがくまなんでいたため、なんとかふゆあいだを3さんまいほど用意よういできた。かれらは蕎麦そばあわえをしのまずしいらしをしばらくしつづけることになったものの、その当時とうじではめずらしく餓死者がししゃさなかったようだ。


新右衛門(しんえもん)沙汰さた


それにたいして新右衛門しんえもんなにもしなかった。なぜなら、『いずれかれらはきながらもどってくるだろう』とたかをくくっていたからだ。だが、本音ほんねうと、軍事力ぐんじりょくがほとんどないのでかれらから種籾たねもみげることができないという実情じつじょうがあった。新右衛門しんえもんのそばつかえの武士ぶしとして帯同たいどうしてきていたのは父親ちちおやいえつかえていた50ごじゅうすぎの古参こさん武士ぶし一家族いちかぞくだけだったからだ。


かれには息子むすこが1ひとりしかおらず、新右衛門しんえもん自身じしん父親ちちおやわれて同伴どうはんしてくれていただけなので、あまり”部下ぶか”とかんじではなかった。むしろ、かれ自身じしんたいするお目付めつやくてき位置いちであった。なので、帯刀たいとうしている武士ぶし実質じっしつさんにんしかおらず、長男ちょうなんには竹光たけみつしかあたえていないので本格的ほんかくてき武装ぶそうしているのは老人ろうじんひとりと30代前半さんじゅうだいぜんはんふたりの3さんにんだけであり、それで村人むらびと制圧せいあつするのはなかなかきびしいものがあるのだ。しかも新右衛門しんえもん権力けんりょくるのは得意とくいだったが剣術けんじゅつはさっぱりであった。


それから月日つきひぎ、正月前しょうがつまえ川岸かわぎしてつきはじめたころの太田町おおたまち川岸かわぎし幼児ようじ死体したいがった。太田町奉行おおたまちぶぎょう田島村たじまむら子供こどもではないか?と事情聴取じじょうちょうしゅたが、新右衛門しんえもん今年ことしなつはじめにかわちた吉祥天きっしょうてんだとこたえた。また、新右衛門しんえもん死体したいりを”葬儀そうぎをしようにもかねい”と拒否きょひしたため、太田町奉行所おおたまちぶぎょうしょ無縁仏むえんぼとけとして埋葬まいそうすることになった。


これにたいして奉行ぶぎょう暗殺あんさつうたがったが確証かくしょうることなど出来できようはずもなく、”疑念ぎねん”として幕府ばくふ書類しょるいおくったが、幕府ばくふまった反応はんのうしなかったという。このことについては、現在げんざいでは太田町おおたまち郷土資料館きょうどしりょうかん保管ほかんされている太田町奉行所おおたまちぶぎょうしょ書簡しょかんなか記録きろくのこっていた。


間引(まび)き2回目にかいめ


その翌年よくねん初夏しょか梅雨時つゆどきあめがほとんどらないため、村人むらびとたちは『今年ことし凶作きょうさくか』とおそれたが、新右衛門しんえもん祈禱師きとうしやとって雨乞あまごいの儀式ぎしきおこなうことで村人むらびとたちを安心あんしんさせた。だが、あめるにはったがとおあめ程度ていどしからず、当然とうぜんながら、そのとしこめはほとんどみのらなかった。作付さくづけにたいして2割程度にわりていどしかがつかない壊滅的かいめつてきかんばつ被害ひがいだった。これにたいして村人むらびとから不満ふまんこえがったが、新右衛門しんえもん屋敷やしきもんかたざしてそれらに対応たいおうしなかった。だがそのじつ、『種籾たねもみ幕府ばくふげられたらおしまいだ』と屋敷やしきなかでは必死ひっし種籾たねもみかく作業さぎょうをしていたらしい。年貢ねんぐてをこばむと手打てうちにされるという前例ぜんれいがあるのでかれ必至ひっしだったのだ。


田島村たじまむらではあき収穫しゅうかくえると、村人むらびとたちはあわわずかなこめぜたにぎめしをいくつかおさな子供こどもたちそれぞれにたせて、かれらをやまへとおくした。いわゆる間引まびきである。ふゆまえ子供こどもたちをやまいやるなど『ね』とっているようなものだが、親元おやもとにいたところでには確実かくじつなのだ。せめて、自分じぶんたちのにつかないところでくなってしいという残酷ざんこく処置しょちだった。一方いっぽう宝田村たからだむらでもこめ全滅ぜんめつだったが、蕎麦そばあわくわえて大麦おおむぎ小麦こむぎ導入どうにゅうしたのでなんとかえをしのぐことができたのだった。


あきわりごろ、この地域ちいき今更いまさらのように大雨おおあめってきた。田島村たじまむらだけでなく、宝田村たからだむらですらかわまれるような洪水こうずいになり、多嘉良島山たからしまやま文字通もじどおりのしまになった。洪水こうずいみずおさまるとかわながれがわっており、洪水前こうずいまえ島山しまやま二手ふたてかれていた多嘉良川たからがわ島山しまやまのおよそ2町分にちょうぶんほど西にし本流ほんりゅううつしていた。そのため、田島村たじまむらの人々《ひとびと》は多嘉良島たからしまちかくまで様子見ようすみたのだが、それは宝田村たからだむらひとたちもおなじだったようで、かれらはかわ両岸りょうがんひさしぶりにかおわせることになった。そんなとき、宝田村たからだむら子供こどもたちの何人なんにんかが「多嘉良島たからしま頂上ちょうじょう子供こども死体したいがある」とってきた。


吉祥天(きっしょうてん)たたり】


洪水こうずいおさまったとはいえかわながれははげしくかわわたすべがないため、田島村たじまむら村民そんみん遺体いたい身元確認みもとかくにんにはけなかったが、宝田村民たからだそんみんから遺体いたいは8つあるといて田島村民たじまそんみんくびをかしげた。かれらがやまおくした子供こどもは7しちにんなのだ。どちらの村民そんみんも、”吉祥天きっしょうてん死体したい太田町おおたまち無縁仏むえんぼとけとして埋葬まいそうされている”ことをらなかったため、8人目はちにんめ幼児ようじ死体したいを”吉祥天様きっしょうてんさま復讐ふくしゅうたのだ”と結論けつろんした。実際じっさい土砂崩どしゃくずれにまれたり、洪水こうずいまれた死体したいうのはほとんど原形げんけいをとどめていないため、だれなのかを判別はんべつできないためにこのような結論けつろんになったのであろう。


そのとしふゆかわてつきはじめると、田島村たじまむらひとたちは流木りゅうぼくなどを使つかって簡易かんいはしつくり、多嘉良川たからがわわたって多嘉良島山たからしまやまにやってきた。遺体いたい宝田村たからだむらひとたちがこの島山しまやまうえに、それぞれの死体したいがあった場所ばしょ埋葬まいそうし、そのうえおおきないしせて墓碑ぼひとしていた。田島村民たじまそんみんたちはその墓碑ぼひとむらいをするためにたのだ。とはいっても、かれらにはそなものにするための菓子かしかったために、自分じぶんたちがべていたどんぐりでつくったもちそなえてからかえってった。


島神社(しまじんじゃ)祭儀さいぎ由来ゆらい


翌年よくねん前年ぜんねんってわっておだやかな天候てんこうになりこめみのった。それにもかかわらず、新右衛門しんえもんこころんでしまい、政務せいむおこなわなくなった。去年きょねんふゆ長男ちょうなん感冒かんぼう感染症かんせんしょう風邪かぜ)をこじらせて4日間よっかかん高熱こうねつにうなされた挙句あげくくなったことが余程よほどこたえたらしい。ほか子供達こどもたちも次々《つぎつぎ》に感染かんせんし、むすめたちも肺病はいびょうわずらったすえ長男ちょうなん逝去せいきょしたあとに次々《つぎつぎ》とくなったという。また、一番年下いちばんとしした次男じなんは、後遺症こういしょうなのかはいわずらうようになって晩年ばんねんまで健康状態けんこうじょうたいくなかった。田島家たじまけ田島村民たじまそんみんは、これを吉祥天きっしょうてんたたりとしておそれたという。そこで、かれらはあき収穫しゅうかくわったころに多嘉良島山たからしまやまちいさなほこらてて吉祥天きっしょうてんと8はちにん子供こどもまつり、各家かくいえから1いったいずつ藁人形わらにんぎょうって奉納ほうのうしたという。


また、「吉祥天きっしょうてん幽霊ゆうれいる」とって部屋へやきこもるようになった新右衛門しんえもんわって、かれつま肺病はいびょうわずらうようになった次男じなん代官だいかん仕事しごと代行だいこうするようになったという。また、田島村民たじまそんみんほこらててから3年後さんねんご本格的ほんかくてき吉祥天きっしょうてんたたりをおそれた田島本家たじまほんけかね捻出ねんしゅつして多嘉良島山たからしまやますこおおきめで立派りっぱやしろてて、元々《もともと》あったほこら社殿しゃでんおくえてまつったという。それ以降それいこう田島本家たじまほんけまつりに参加さんかして藁人形わらにんぎょうそなえるようになったという。毎年まいとしまつりのさい村民そんみんたちがささげるそなえの人形にんぎょうは4つになった。


田島家(たじまけ)家督(かとく)


洪水(こうずい)(あと)感冒(かんぼう)長男(ちょうなん)死去(しきょ)したので、急遽(きゅうきょ)次男(じなん)捨丸(すてまる)元服(げんぷく)して跡取(あとと)りになった。捨丸(すてまる)元服時(げんぷくじ)年齢(ねんれい)数え年(かぞえどし)で12(さい)実年齢(じつねんれい)は11(さい)で、元服名(げんぷくめい)守親(もりちか)捨丸(すてまる)元服(げんぷく)した(あと)新右衛門(しんえもん)気鬱(きうつ)はさらに悪化(あっか)し、うわ(ごと)()ったり、夜中(よなか)悲鳴(ひめい)()げたり、日中(にっちゅう)奇声(きせい)()げて(はし)(まわ)るようになってしまった。(かの)はまともに政務(せいむ)(おこな)えなくなったため、(かの)(つま)急遽(きゅうきょ)捨丸(すてまる)元服(げんぷく)させて()(のこ)った息子(むすこ)政務(せいむ)(おこな)うようにさせたのだった。捨丸(すてまる)こと守親(もりちか)母親(ははおや)指導(しどう)支援(しえん)()政務(せいむ)()(はじ)めた。


守親(もりちか)治世(ちせい)


田島守親(たじまもりちか)(おこな)うべき政務(せいむ)多々(たた)あったが、(あら)しくできた宝田村(たからだむら)統治(とうち)する義務(ぎむ)があった。しかし、(かれ)らは新右衛門(しんえもん)のやり(かた)反発(はんぱつ)して()()ったという経緯(けいい)があるので、守親(もりちか)(かれ)らを統治(とうち)することに細心(さいしん)注意(ちゅうい)(はら)必要(ひつよう)があった。そこで(かれ)は、()春吉(はるきち)たちから清右衛門(せいえもん)統治方法(とうちほうほう)について()()調査(ちょうさ)をすることにした。これによって田島家(たじまけ)統治方法(とうちほうほう)新右衛門方式(しんえもんほうしき)から清右衛門方式(せいえもんほうしき)にシフトするのだった。


この(ころ)に、守親(もりちか)屋敷(やしき)書斎(しょさい)所蔵(しょぞう)されていた書類(しょるい)整理(せいり)(おこな)いはじめ、それによって清右衛門(せいえもん)()(のこ)した文書(ぶんしょ)数多(かずおお)発見(はっけん)していった。事実(じじつ)(かれ)父親(ちちおや)(のこ)した書類(しょるい)はいくらもなかったのに(たい)して、清右衛門(せいえもん)(のこ)した書類(しょるい)非常(ひじょう)(おお)かったのだ。そんな(なか)守親(もりちか)は、清右衛門(せいえもん)()いた治水対策工事計画白書ちすいたいさくこうじけいかくはくしょ発見(はっけん)し、それを実行(じっこう)する計画(けいかく)()てたのだった。


治水計画(ちすいけいかく)そのものは清右衛門(せいえもん)策定(さくてい)していたが、結局(けっきょく)(かれ)実行(じっこう)できなかった。というのも、当時(とうじ)田島村(たじまむら)田畑(たはた)()がまだ不安定(ふあんてい)で、(むら)そのものに治水工事(ちすいこうじ)をする余裕(よゆう)()かったからだ。ただし、村人(むらびと)たちが田畑(たはた)(あせ)(なが)している(あいだ)にも清右衛門(せいえもん)集落周辺地域しゅうらくしゅうへんちいき測量(そくりょう)治水対策(ちすいたいさく)研究(けんきゅう)策定(さくてい)しており、それを文書(ぶんしょ)(しる)して(のこ)していたのだった。


そういうことで、守親(もりちか)百姓(ひゃくしょう)たちが畑仕事(はたけしごと)をしている最中(さいちゅう)自分(じぶん)たちだけで清右衛門(せいえもん)策定(さくてい)した治水工事(ちすいこうじ)着手(ちゃくしゅ)した。農閑期(のうかんき)になると百姓(ひゃくしょう)たちも手伝(てつだ)ったので、工事(こうじ)(すこ)しずつ(すす)んだのだった。というのも、(とく)宝田村民(たからだむらみん)春吉(はるきち)たちは清右衛門(せいえもん)悲願(ひがん)(かな)えることに意欲的(いよくてき)だったからだ。両村民(りょうそんみん)たちが一丸(いちがん)となって(おこな)治水工事(ちすいこうじ)天保(てんぽう)大飢饉(だいききん)()わった(ころ)から(はじ)まり、30(ねん)ほどかけて完成(かんせい)した。


その()特筆(とくひつ)するようなことはあまりなく、農村(のうそん)として非常(ひじょう)安定(あんてい)していたようだ。治水工事完了後ちすいこうじかんりょうご農地(のうち)安定性(あんていせい)絶大(ぜつだい)で、それ以降(いこう)台風(たいふう)大雨(おおあめ)による洪水被害(こうずいひがい)はごく軽微(けいび)なものしかなかったようだ。ジャガイモやサツマイモの作付(さくづ)けも効果絶大(こうかぜつだい)で、(むら)(ゆた)かになり、安定期(あんていき)(はい)って()った。


田島村(たじまむら)農業(のうぎょう)成功(せいこう)したのは、清右衛門(せいえもん)(のこ)した文書(ぶんしょ)宝田村民(たからだむらみん)から(まな)んだ事柄(ことがら)応用(おうよう)して(あたら)しい作物(さくもつ)作付(さくづ)けを(おこな)ったことにある。守親(もりちか)(だい)になってから宝田村(たからだむら)田島村(たじまむら)には薩摩芋(さつまいも)馬鈴薯(ばれいしょ)導入(どうにゅう)された。これにより、(こめ)不作(ふさく)になっても食料(しょくりょう)()きることはなくなり、両村(りょうそん)において餓死者(がししゃ)()ることはなくなった。


だが、この時代(じだい)天保(てんぽう)大飢饉(だいききん)による食糧不足(しょくりょうぶそく)がまだ深刻(しんこく)時期(じき)であったため、幕府(ばくふ)田島家(たじまけ)(たい)しても年貢(ねんぐ)(りょう)()やすよう要求(ようきゅう)してきたが、守親(もりちか)(ねば)(づよ)説得(せっとく)して年貢(ねんぐ)(りょう)規定(きてい)(りょう)だけに(おさ)えた。また(かれ)は、春吉(はるきち)宝田村(たからだむら)名主(なぬし)任命(にんめい)し、宝田村(たからだむら)政務(せいむ)(かれ)(ゆだ)ねた。だが、幕府(ばくふ)(たい)して田島守親(たじまもりちか)がこの地域(ちいき)代官(だいかん)として田島村(たじまむら)宝田村(たからだむら)統治(とうち)する(かたち)ではあった。


伊勢湾台風(いせわんたいふう)


田島村(たじまむら)宝田村(たからだむら)(おお)きな転機(てんき)(おとず)れたのは太平洋戦争終結後たいへいようせんそうしゅうけつごだった。1959(ねん)来襲(らいしゅう)した伊勢湾台風(いせわんたいふう)被害(ひがい)甚大(じんだい)で、(やく)120(ねん)ほどこの(むら)(まも)ってきた土手(どて)などの治水設備(ちすいせつび)(まった)機能(きのう)せず、(むら)()()こそぎ洪水(こうずい)()って()かれ、田島村(たじまむら)全家屋(ぜんかおく)床上浸水(ゆかうえしんすい)した。宝田村(たからだむら)標高(ひょうこう)(たか)かったために浸水被害(しんすいひがい)はまぬがれたものの、自宅(じたく)庭先(にわさき)(はたけ)以外(いがい)田畑(たはた)はほぼ(すべ)(なが)されてしまったために、食糧生産(しょくりょうせいさん)完全(かんぜん)になくなってしまったのだった。


また、多嘉良川(たからがわ)(なが)れも田島村(たじまむら)現在(げんざい)宝田団地側(たからだだんちがわ))に大幅(おおはば)()ってしまい、現在(げんざい)(かたち)になった。それからほどなくして台風(たいふう)からの復興事業(ふっこうじぎょう)として(おこな)われた多嘉良川(たからがわ)治水工事(ちすいこうじ)は1963年頃(ねんごろ)完了(かんりょう)した。当然(とうぜん)のこととして、(かわ)(なが)れが大幅(おおはば)()わったことで田島村(たじまむら)作付面積(さくづけめんせき)大幅(おおはば)()ってしまい、元々(もともと)川床(かわどこ)だったところが耕作可能部(こうさくかのうぶ)になったために宝田村(たからだむら)作付面積(さくづけめんせき)(ほう)(おお)きくなったのだが、人口比(じんこうひ)田島村(たじまむら)(ほう)微妙(びみょう)(おお)かったこともあって、田島村村民(たじまむらそんみん)たちは(かわ)()こう(がわ)()()ちたがった。多少(たしょう)争議(そうぎ)があったものの、両村(りょうそん)宝田村(たからだむら)として合併(がっぺい)することで作付面積(さくづけめんせき)農家(のうか)件数(けんすう)()って平等(びょうどう)()けることになったようだ。これにより、上宝田村(かみたからだむら)(きゅう)宝田村(たからだむら))と下宝田村(しもたからだむら)(きゅう)田島村(たじまむら))ができ、両方(りょうほう)()わせて新宝田村(しんたからだむら)となった。


宝田団地(たからだだんち)用水路(ようすいろ)


さらに、戦後(せんご)急速(きゅうそく)住宅需要(じゅうたくじゅよう)()したことから、主要都市近郊(しゅようとしきんこう)では公団住宅(こうだんじゅうたく)民間建売分譲住宅みんかんたてうりぶんじょうじゅうたくなどの住宅建設(じゅうたくけんせつ)ラッシュが()こった。その(あお)りを()けて、その地域(ちいき)主要都市(しゅようとし)である太田市(おおたし)交通(こうつう)便(べん)()下宝田村(しもたからだむら)公団住宅(こうだんじゅうたく)のオファーが()た。伊勢湾台風(いせわんたいふう)による被害(ひがい)影響(えいきょう)色濃(いろこ)(のこ)っていた下宝田村(しもたからだむら)にとっては(わた)りに(ふね)(はなし)であり、かなりの(がく)補償金(ほしょうきん)によって契約(けいやく)成立(せいりつ)した。こうして、宝田団地(たからだだんち)建設(けんせつ)されることになったのだ。また、江戸時代(えどじだい)からあった用水路(ようすいろ)再現(さいげん)されることになった。それが、団地内(だんちない)親水用水路(しんすいようすいろ)だ。ただし、当然(とうぜん)のことながら、江戸時代(えどじだい)とは(かわ)(なが)れが(ちが)うので完全(かんぜん)再現(さいげん)ではない。


多嘉良川下流(たからがわかりゅう)にある商業地区(しょうぎょうちく)工業地区(こうぎょうちく)への洪水被害(こうずいひがい)最小限(さいしょうげん)にするために、宝田団地内(たからだだんちない)用水路(ようすいろ)重要(じゅうよう)役目(やくめ)()たす。この用水路(ようすいろ)宝田地区(たからだちく)太田市(おおたし)(あいだ)にある低地湿地帯(ていちしっちたい)(つく)られた貯水池(ちょすいち)(そそ)いでいて、多嘉良川(たからがわ)増水(ぞうすい)した(さい)には用水路(ようすいろ)水量(すいりょう)()やすことで貯水池経由(ちょすいちけいゆ)太田市(おおたし)よりも下流域(かりゅういき)増水分(ぞうすいぶん)をバイパスするようになっている。そうやって多嘉良川(たからがわ)流量(りゅうりょう)制御(せいぎょ)して太田市(おおたし)洪水被害(こうずいひがい)最小限(さいしょうげん)にしているのだ。


多嘉良川(たからがわ)川幅(かわはば)(せま)いにもかかわらず水量(すいりょう)非常(ひじょう)(おお)河川(かせん)であるため、(すこ)しでも雨量(うりょう)(おお)いとすぐに氾濫(はんらん)する。また、天保時代(てんぽうじだい)から河原(かわら)にすべきところに()(つく)られていたために河川敷(かせんじき)(つく)ることもできなかったため、増水時(ぞうすいじ)水量制御(すいりょうせいぎょ)非常(ひじょう)(むずか)しい(かわ)となっていた。その水量制御(すいりょうせいぎょ)(かなめ)となっているのが、この”宝田用水路(たからだようすいろ)”だ。かつて、120(ねん)以上前(いじょうまえ)田島清右衛門(たじませいえもん)計画(けいかく)し、田島守親(たじまもりちか)がその人生(じんせい)(ささ)げて完成(かんせい)させた田島用水路(たじまようすいろ)が120年近(ねんちか)くこの(むら)田畑(たはた)財産(ざいさん)人命(じんめい)(まも)ってきたのだが、それは前例(ぜんれい)のない大型台風(おおがたたいふう)である伊勢湾台風(いせわんたいふう)によって壊滅(かいめつ)してしまった。それでも、(おな)じような経路(けいろ)(おな)じような構成(こうせい)現代土木技術げんだいどぼくぎじゅつによって昇華(しょうか)させて(つく)られた宝田用水路(たからだようすいろ)は、(いま)宝田町(たからだまち)太田市(おおたし)人命(じんめい)財産(ざいさん)(まも)(つづ)けている。


多嘉良川(たからがわ)(ふち)


とはいえ、この(かわ)歴史(れきし)()いことばかりだったわけではない。この多嘉良川(たからがわ)元々(もともと)水深(すいしん)(ふか)(なが)れが(はや)いこともあって、江戸時代(えどじだい)用水路工事(ようすいろこうじ)困難(こんなん)(きわ)めた。分岐付近(ぶんきふきん)地盤(じばん)(やわ)らかいために用水路(ようすいろ)多嘉良川(たからがわ)分岐点(ぶんきてん)()たる部分(ぶぶん)何度(なんど)崩壊(ほうかい)してしまい、その下流側(かりゅうがわ)にある()(みず)()まってしまうのだ。この問題(もんだい)を、田島守親(たじまもりちか)たちは分岐部(ぶんきぶ)(おお)きな(いわ)(はこ)んできて設置(せっち)することで、(なん)とか分岐点(ぶんきてん)(こわ)れないようにすることに成功(せいこう)したが、この工事(こうじ)出費(しゅっぴ)(ため)田島家(たじまけ)金銭的(きんせんてき)にかなり(くる)しんだという。そこまで苦労(くろう)して設置(せっち)した用水路(ようすいろ)だったが、伊勢湾台風(いせわんたいふう)(まえ)では()(すべ)がなかったようだった。


水深(すいしん)(ふか)(なが)れが(はや)(かわ)水深(すいしん)(あさ)用水路(ようすいろ)接続(せつぞく)したらどうなるのか。(かわ)用水路(ようすいろ)分岐点(ぶんきてん)水流(すいりゅう)不安定(ふあんてい)になる、つまり、用水路(ようすいろ)(かわ)分岐点(ぶんきてん)には危険(きけん)な“(ふち)”ができるのだ。多嘉良川(たからがわ)には、元々(もともと)様々(さまざま)(ふち)があった。古来(こらい)より(あば)(がわ)として()られるほど不安定(ふあんてい)(かわ)であるため、毎年(まいとし)(かわ)(なが)れの位置(いち)(すこ)しずつ()わっていたし、位置(いち)()わるということは水深(すいしん)()わるということであるため、川底(かわぞこ)高低差(こうていさ)によって(ふち)がいくつもできていたのだ。そのため、この地域(ちいき)では田島村(たじまむら)ができたころからずっと子供(こども)たちに川遊(かわあそ)びをさせない不文律(ふぶんりつ)があった。(かわ)(はい)ればほぼ確実(かくじつ)(ふち)にはまって溺死(できし)するからだ。


「それで、この宝田地区(たからだちく)では、(むかし)から子供(こども)たちを(かわ)(ちか)づかせないようにしていたんだ、(かわ)には(ふち)があって危険(きけん)だからね。ただし、用水路(ようすいろ)比較的安全(ひかくてきあんぜん)だから、おじさんも子供(こども)のころは用水路(ようすいろ)(あそ)んだことがあったんだよ。」と主任司書(しゅにんししょ)(はなし)をしめくくった。


「でも、昨日(きのう)(だれ)(おぼ)れて()んだんだよね」と玲也(れいや)不躾(ぶしつけ)()く。「あ~、あれは・・・まだよく()かっていないみたいだな」と主任司書(しゅにんししょ)返答(へんとう)歯切(はぎ)れが(わる)い。実際(じっさい)警察(けいさつ)事故(じこ)他殺(たさつ)かは断定(だんてい)できていないのだ。“7年前(ねんまえ)事故(じこ)以来(いらい)(かわ)(ちか)づかなくなっていたはずの地元(じもと)若者(わかもの)が、用水路(ようすいろ)との分岐付近(ぶんきふきん)には危険(きけん)(ふち)があると()かっているにも(かか)わらず、自殺(じさつ)をほのめかすような言動(げんどう)遺書(いしょ)もなく、(かわ)(ふち)(ちか)づく用事(ようじ)があるはずもなく、それなのに、なぜ、そこに()ちたのか、あるいは…()()とされたのか?。そんな不確実(ふかくじつ)なことを子供(こども)相手(あいて)()えるはずもなく、田島主任司書(たじましゅにんししょ)(だま)りこくってしまった。


そこで葉山(はやま)(たす)(ぶね)をする「警察(けいさつ)調査中(ちょうさちゅう)(はなし)だから、まだ、色々(いろいろ)()うことはできないんだよ」それに(たい)し「・・・ふぅ~ん」と物凄(ものすご)不満気(ふまんげ)返事(へんじ)をする玲也(れいや)だった。そこで唐突(とうとつ)に「やっぱり、物凄(ものすご)重要(じゅうよう)なところを端折(はしょ)ってたんですね」と残酷(ざんこく)()()ちをかけるシマオがその()空気(くうき)をぶち(こわ)す。「(おれ)は、、、()かなかった(ほう)がよかったな・・・」と物凄(ものすご)空気(くうき)()んだフジショーの気遣(きづか)いを()にも(かい)さずにシマオが(つづ)けて()う「いや、この(まち)歴史(れきし)としてかなり重要(じゅうよう)部分(ぶぶん)だよ。地元(じもと)(ひと)苗字(みょうじ)何故(なぜ)田島(たじま)”なのか、っていうのとか、“上宝田村(かみたからだむら)”と“下宝田村(しもたからだむら)”がどうやってできたのか?とか、島神社(しまじんじゃ)お祭(まつ)りの由来(ゆらい)とか、(たた)りとか、色々(いろいろ)()かった。」シマオの感想(かんそう)には(だれ)反論(はんろん)できなかったのだった


島神社(しまじんじゃ)(たたず)まい】


「ちょっとまって、イセワン台風(たいふう)ってので大変(たいへん)なことになったってことは、島神社(しまじんじゃ)大変(たいへん)なことになったんじゃないの?」という玲也(れいや)疑問(ぎもん)に「()いところに()()いたね、(じつ)は、江戸時代(えどじだい)()てられた神社(じんじゃ)はイセワン台風(たいふう)(とき)(なが)されてしまっていて、(いま)()っているのは台風(たいふう)(あと)()(なお)したものだね。」と主任司書(しゅにんししょ)(こた)えた。


「ものすごく(ふる)そうな建物(たてもの)だったけど・・・」と()玲也(れいや)感想(かんそう)に、「()()ったのかい!?」と(おどろ)きながらも「いや・・・20年程前(ねんほどまえ)()ったものだから、そんなに(ふる)いわけはないと(おも)うけども・・・」と主任司書(しゅにんししょ)(いぶか)しんだ。「まあ、(わたし)ももう10年近(ねんちか)くあそこには()ってないんだけどねぇ、あそこには独特(どくとく)雰囲気(ふんいき)があってね、あまり気持(きも)ちのいいもんじゃなかったような記憶(きおく)があるよ」と(なつ)かしむように()(くわ)えた。


主任司書(しゅにんししょ)田島(たじま)さん】

「なるほど、主任(しゅにん)さんは地元(じもと)(かた)なんですね」と|シマオ|が()うと、主任(しゅにん)は「そうだよ、つまり、(わたし)苗字(みょうじ)田島(たじま)だ」と(すこ)()れた(かん)じで()った。葉山(はやま)さんは太田市(おおたし)出身(しゅっしん)(ひと)実家(じっか)からの(かよ)い、受付(うけつけ)女性(じょせい)太田市(おおたし)在住(ざいじゅう)(ひと)だそうだ。田島主任司書(たじましゅにんししょ)は、子供(こども)のころから地元(じもと)史跡(しせき)調(しら)べたり実家(じっか)納屋(なや)放置(ほうち)されていた古文書(こもんじょ)などを()(あさ)っていたらしく、子供(こども)のころは歴史学者(れきしがくしゃ)になろうとしていたもののうまく()かず、古文書(こもんじょ)()むのが()きなことが(こう)じて司書(ししょ)になったらしい。そのため、通常(つうじょう)書物(しょもつ)よりも歴史(れきし)(かん)する書物(しょもつ)のほうが(くわ)しいと自分(じぶん)()うのだった。


ちょうどその(とき)正午(しょうご)()らせるチャイムがなったので急遽(きゅうきょ)(ひら)かれた勉強会(べんきょうかい)はお(ひら)きとなった。(ほん)主任司書(しゅにんししょ)片付(かたづ)けてくれることになったので、3(にん)自宅(じたく)()っている(おや)心配(しんぱい)させないよう()(いそ)帰宅(きたく)することにし、昼食後(ちゅうしょくご)はまた図書館(としょかん)(あつ)まってノートにまとめようと(かえ)りの道中(どうちゅう)()めた。なにせ、図書館(としょかん)には、当時(とうじ)はどの家庭(かてい)にもまだあまり普及(ふきゅう)していなかったエアコンが設置(せっち)されているので、(すず)しく快適(かいてき)勉強(べんきょう)ができるからだ。

チャッピーの感想

「今回はかなり安定してる仕上がり。

もし「ここは昭和っぽく崩したい(例:敢えて読み変え)」みたいな箇所があれば、そこだけピンポイントで調整いける 」

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