第六話
山の方から聞こえてくるヒグラシの声に、私はふと顔を上げた。
いつの間にか日は傾き始め、田んぼ一面を照らしていた日差しにも少しだけ柔らかさが混じっている。
そこで私は、文春さんとの約束を思い出した。
祠の掃除。そして、隕石。
額を伝う汗を手の甲で拭い、少し離れた場所で採取したサンプルを確認している教授へ声をかける。
「そろそろ約束の時間ですよ」
「あぁ」
教授は顔を上げた。どうやら教授も思い出したらしい。
「じゃあ切り上げよう」
名残惜しそうに田んぼへ視線を向けた後、教授は採取道具をバッグへ仕舞い始めた。私も採取箱やサンプル容器をまとめる。その中では、例のカエルが相変わらず大人しくしていた。
ぼぅあべべー。
蓋の向こうから小さな鳴き声が聞こえる。
「はいはい」
軽く返事をしながら採取箱をバッグへ入れた。準備を終えると、私たちは田んぼを後にする。
西日に染まり始めた畦道を歩きながら、民宿へ向かった。
◇
民宿へ戻ると、文春さんはすでに玄関の前で待っていた。
「おう、ちょうどいいところに来たな」
手を振る文春さんの周りには、村の人たちが集まっている。
五人ほどだろうか。老人もいれば中年の人もいる。皆、手に手にバケツや箒、ブラシを持っていた。そしてもう片方の手には提灯。日が落ち始めた村の中で、その明かりがぼんやりと揺れている。
橙色の光は強くはない。けれど、暗くなり始めた周囲を照らすには十分だった。
提灯の光に照らされた人々の顔を見ていると、これから祭りの準備が始まるのだという実感が少しずつ湧いてくる。
「そっちが大学の先生かい」
「まぁ、こんな若い子が学生さん?」
「ご苦労さんだねぇ」
村の人たちが次々と声をかけてくる。
私は慌てて頭を下げた。
「上野です。よろしくお願いします」
すると皆がにこにこと笑う。
「よし、それじゃ行くか」
文春さんを先頭に、私たちは祠へ向かった。
民宿を離れ、山へ続く細い道を進む。提灯の明かりが足元を照らし、その光が揺れるたびに木々の影もゆらゆらと揺れた。山の中はもう夜の気配が漂い始めていた。
しばらく歩くと、先頭を歩いていた文春さんが足を止めた。
「着いたぞ」
視線を向けるとそこには祠があった。山道の脇にひっそりと建てられた、小さな木造の祠だ。その前には鳥居が立っている。木材は長い年月を感じさせるほど色褪せていたが、不思議と荒れた印象はない。定期的に手入れされているのだろう。村人たちの信仰の深さが伝わってくる。
「おぉ……」
隣で教授が小さく声を漏らした。
私は鳥居へ近づく。すると、その脇に古びた石碑が建っていることに気付いた。表面は風雨によって削られ、ところどころ読みにくくなっている。それでも何かの文章が刻まれているのはわかった。
私は提灯を少し持ち上げる。揺れる橙色の光が石碑を照らした。
「何が書いてあるんだろう……」
思わず呟きながら、私は石碑へ顔を近づけた。
そこには、今では使われなくなった古い文体で、こう刻まれていた。
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応永三十二年 夏七月。
夜半、天裂け、火の星ひとつ西の山へ落つ。
その光、昼にも勝り、轟きは天地を震わせたり。
山ひとつ忽ち砕け失せ、谷は埋まりて平地となる。
草木ことごとく焼け、人畜また多く滅す。
人々これを天の禍火と畏れ、久しくその地に近づかず。
幾十年を経て、土肥え、水湧き出で、里人ここに住み着く。
田畑を開き、家々を建て、村成る。
人々、天より渡り来たりし禍火を忘れぬよう、その里を禍火渡村と名づく。
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――応永三十二年……六百年くらい前っておばあさんは言ってたっけ。そうか、『かかとむら』は元は『まがびわたりむら』だったんだ。隕石、つまり『まがびわたり』が落ちた村でできた米で『禍火渡落とし』ってことなのかな。
そんなことを考えているうちに、村の人たちはぞろぞろと祠の中へ入っていく。
「あ、待ってください」
私は慌てて提灯を持ち直した。教授も石碑から顔を上げる。私たちははぐれないように、その後を追った。
鳥居をくぐり、祠の奥へ進む。中は洞窟のようになっていた。ひんやりとした空気が肌を撫でる。足元はごつごつとした岩肌のままで、提灯の明かりが壁に揺れる影を作っていた。
進むにつれ、外の音が少しずつ遠ざかっていく。
風の音も、蝉の声も、あれほど騒がしかったカエルの鳴き声さえ聞こえない。代わりに響くのは、村人たちの足音だけだった。
まるで一歩進むごとに、外の世界から切り離されていくような感覚がある。
ここだけ別の世界みたいだ。そう思った時だった。
前方が急に明るくなる。
「おぉ……」
思わず声が漏れた。洞窟の奥には、人が何人入っても余裕があるほどの広い空間が広がっていた。天井は高く、提灯の橙色の光がゆらゆらと揺れている。そして、その中央に。
それはあった。
大きな石。いや、石というより岩と言った方が正しい。高さは二・五メートルほどだろうか。幅も同じくらいある。
なるほど。文春さんが「持って帰れない」と言っていた理由がよくわかった。
色は黒。黒曜石を思わせるような、深く艶のある黒色だった。
丸太を組んだ台座の上に据えられ、その周囲には太いしめ縄が張られている。正面から見ると、しめ縄は大きなバツ印を描くように巻かれていた。
提灯の明かりが揺れるたび、その黒い表面が鈍く光を照り返す。
「すっご……いですね」
「あぁ、すごくでかいな」
私と教授は思わず息をのむ。岩の大きさではなく、その存在感に圧倒されていた。神社で感じるような神聖な雰囲気とは違い、どこか力を感じるような雰囲気。まるで、つい最近にここへ落ちてきたかのような熱さえ感じた。
「さ、お二人がた。禍火渡様に触ってみてください」
教授が両手を伸ばし、岩をさすりはじめた。
「おぉ、なんか不思議な感じですな」
私も恐る恐る岩に手を伸ばした。妙に緊張して思わず喉がなる。
指先が岩に触れた瞬間、ぴくりと指が震えた。
――熱い?
最初に感じたのは熱だった。焼けるような熱さではない。温かいと表現するには少し強く、熱い、と言うにはどこか奇妙な温度だった。まるで、岩の内部に熱が閉じ込められているように。
表面はごつごつとしていて、乾いていた。長い年月、雨風に晒されてきたはずなのに、触れてみると砂粒のような荒さはなく、細かな金属片を固めたような感触が指先に伝わってくる。冷たい石に触れたときの、あの無機質な感触がない。
掌を押しつければ、じわりと熱が染み込んでくる。まるで岩の奥深くに、消えずに残った火が眠っているような温度。
夜空を真っ二つに裂き、大地を揺らしてここに落ちたという岩。それから六百年。何百回も夏が過ぎ、何百回も冬が訪れた。それでも、この岩はまだ温かい。そんなことがあるのだろうか。
指先で表面をなぞる。ざらり、とした感触。その奥にかすかな震えを感じた。気のせいだと思い、もう一度触れる。今度ははっきりとわかった。
――どくん。
ほんの一瞬、岩の中で何かが脈打った。私は息が止まる。六百年ものあいだ、地中に埋まっていたはずの石。それなのに、まるで今、この瞬間まで生きていて、こちらの存在に気づいたようだった。
私は反射的に手を引き、教授の方を振り向いた。
「……今の、感じました?」
返事はない。隅田教授は岩に手を触れたまま、じっと立っている。
「ねぇ?教授?」
教授の肩が小さく震えている。そして――
「あ……」
掠れた声が漏れた。




