第七話
「あ、あ……」
教授は自分の手を見つめていた。指先が、奇妙に震えている。
「どうしたんですか?」
「あ……あ……」
言葉にならない。教授は口を開き、何かを伝えようとしている。けれど、舌がうまく動かないようだ。
――おかしい。何かがおかしい。
教授の顔から、みるみる血の気が引いていく。それなのに、首筋には汗が浮かんでいた。
「ねえ、手を離してください」
私は教授の腕を掴む。その瞬間だった。
ぐにっ。
「……え?」
指が教授の腕に沈む。肉が、まるで粘土のようにへこんだ。
私は慌てて手を離す。教授は自分の腕を見下ろしている。そして、確かめるようにゆっくりと指を曲げた。
ぐにゃり。
指は関節を無視し、手の甲側へ柔らかく折れ曲がった。
「あ……ああ……」
教授の口からようやく声が出た。けれど、それは言葉ではなく、恐怖に喉を震わせる獣のような声だった。私は一歩、後ずさる。教授の膝ががくりと折れた。どさり、と土の上に両膝をつく。
「あ……ああ……」
それでも教授は立ち上がろうとした。両手を地面につき、身体を支えようとする。その腕が、ぐにゃりと歪み、バランスを崩す。教授の顔が地面へと落ち、眼鏡がずれる。
「いや……」
かすかな声が漏れた。それが自分の出した声だと気づくのに少し時間がかかった。目の前で起きていることを理解できない。理解したくもない。
私は後ずさろうとした。しかし、足に力が入らずにそのままへたり込む。尻が冷たい土に触れた。洞窟のような祠の中に、二人の荒い息が響いている。
壁際には、いくつもの小さな提灯が並んでいた。その淡い明かりの下、こちらを見つめていた村人たちがゆっくりと動き始めた。
「はじまったなぁ……」
誰かが呟いた。
「あぁ、はじまった、はじまった」
別の声が重なる。ざわざわと、村人たちの間に小さな笑い声が広がった。
――誰も驚いていない。誰も助けようとしない。むしろ……。
村人たちは一人、また一人と前へ出てくる。手には提灯、バケツ、ブラシ。中には大きな木桶を抱えている者までいる。ちゃぷ、ちゃぷ、と水の揺れる音が洞窟の中に響く。
「さぁ」
村人の一人が教授の前まで歩み出た。提灯の明かりに照らされた顔には笑みが浮かんでいる。
「さっさと始めるか」
その言葉を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
村人の一人が教授の前にしゃがみ込む。そして、教授のTシャツの袖をまくり上げた。
「何を……するんですか」
私の声は自分でも驚くほど小さかった。
村人たちは答えない。露わになった教授の二の腕をしばらく眺めている。何かを確認するかのように。そして――おもむろに指を突き立てた。
ぞぶり。
「……え?」
指が教授の腕の中に入った。皮膚が裂けたわけではなく、血も出ていない。ただ、柔らかくなった肉の中へ指が沈んでいる。
「いや……」
私は尻餅をついたまま後ずさった。村人の指が教授の腕の中で動く。探っている。何かを探している手つき。
教授の口から、掠れた声が漏れた。
「あ……あ……」
私は目を逸らしたかった。けれど、逸らせなかった。
村人の手が止まる。
「……あった」
その呟きが聞こえた。次の瞬間。
ゴキリ。
乾いた音が、洞窟の中に響いた。
「――っ!」
教授の身体が跳ねた。
村人の手が、ゆっくりと引かれる。何か白いものが、肉の中から姿を現した。
「うそ……」
私の口から言葉がこぼれた。教授の腕から引き抜かれた白いものそれは――骨だった。
肩から先へ伸びているはずの、教授の腕の骨。それが、肉の中からずるりと引き抜かれていた。
血は出ていない、傷口すらほとんど見えない。ただ、骨だけが抜けていく。
私は震えながら、自分の腕を抱いた。
村人は抜き取った骨を提灯の明かりにかざした。
白い骨が、ゆらゆらと揺れる。
「きれいに抜けたな」
村人は、抜き取った骨を眺めながら満足そうに呟いた。
私は何も言えなかった。
目の前にあるものが、教授の腕から抜き取られたものだという事実をまだ頭が理解できていない。
すると、別の村人が骨を覗き込んだ。
「これ見ると手羽先食いたくなるんだよなー」
「……は?」
思わず声が漏れた。
村人は私を見るでもなく、抜き取られた骨を指差して笑っている。
「分かる分かる」
「俺はカニだ」
「カニ?」
「ほら、ずるっと出してアーンって?」
「骨じゃなくて身だろ、それ」
「細けぇなぁ」
けらけらと笑う。抜き取られた骨がバケツの中へ投げ込まれ、からんと乾いた音を立てた。
「次、どこから抜く?」
誰かが言った。
「脚がいいんじゃないか?」
「じゃあ俺、そっち押さえるわ」
村人たちが教授を取り囲む。笑い声が洞窟を満たす。
「……う、うぅ……」
教授が、くぐもった声を漏らした。
村人の一人が、ふと教授の顔を覗き込む。
「あ」
その顔を見て、思い出したように声を上げた。
「そーいや、あんた」
村人は教授の顔をじっと見つめる。
「田んぼに何撒いてるか聞いたよな」
その声に、私は息を呑んだ。
――文春さん。
教授は答えられない。口を動かすだけで、言葉にならない声が漏れる。
「あ……う……」
私は震える手を伸ばした。
――助けて。誰でもいい。誰か。
喉が張りついて声が出ない。それでも、必死に息を吸った。
「た……」
声が震える。
「たすけ……」
文春さんがゆっくりと私の方を見た。提灯の明かりがその顔をしたから照らしている。その顔は笑っていた。
「あれな」
文春さんはバケツを覗き込み、子供に教えるような口調で言った。
「骨だよ」
私は固まった。
「ほーね、人間の」
「……にん、げん……?」
自分の口から出た言葉が、ひどく遠くに聞こえた。
文春さんは楽しそうに笑った。
「砕いた骨をな。バンバン使わねーと、田んぼがダメになるんだよ」
そう言って、教授の方へ顔を向ける。
「昔からそうなんだ」
カラン。
また音がした。
カラン、カラン。
骨と骨がぶつかる音が、洞窟の中に響く。
「だから、こうして集めてんのさ」
私はバケツから目を逸らした。逸らしたはずなのに音だけは耳に入ってくる。硬いもの同士がぶつかる音。乾いた音。教授の骨がバケツに当たる音。あの時、文春さんがいった『リン酸カルシウム』その意味が今わかった。いや、わかってしまった。
ふと、教授と目が合った。骨を抜かれた身体はもう人間の身体とは思えないほど、ぐにゃりと横たわっている。その顔が、必死に私を見ていた。
そして――ようやく声を上げた。
「たすけてくれ……上野君……」
掠れた声。教授が、ぐにゃりとした腕を私へ伸ばす。
「たすけて……たずげて……」
「教授……」
私は動けなかった。助けなければ、そう思うのに身体が動かない。
教授の声が、次第にくぐもっていく。
「だずげ……で……」
そのときだった。私は妙なことに気づいた。教授の身体が――小さくなっている。
「……え?」
最初は、姿勢が崩れたせいだと思った。けれど違う。明らかに縮んでいる。着ていたTシャツが、身体からずり落ちそうになっていた。ズボンも同じだった。さっきまで身体に合っていたはずの服が、今ではぶかぶかになっている。袖から伸びた腕も、ズボンの裾から覗く脚も、見るたびに短くなっていく。
「教……授……?」
私の声が震えた。教授は答えようとする。
「だずげで……だぅべで……」
もう、言葉として聞き取れない。声が濁っている。それに合わせるように身体がまた縮んだ。
肩が小さくなる。胸が縮む。腕が短くなる。時間を逆向きに辿っているみたいに。
「いや……」
私は首を横に振った。そんなはずはない。人間がこんなふうに小さくなるなんて。
「だ……ず……」
教授の声がさらにくぐもった。その身体がまた縮む。やがて、ぶかぶかになったTシャツの中へ、身体そのものが沈み込んでいった。
「教授……?」
返事はない。私は息を詰めた。さっきまでそこにあったはずの身体が、もう服の中に隠れて見えなくなっている。Tシャツとズボンだけが土の上にくしゃりと横たわっていた。
しん、と静まり返り、誰も声を出さない。その静寂を破ったのは――。
『ぼぅあべべー』
私は目を見開いた。聞き覚えのある声。田んぼで聞いたあの鳴き声。
「……まさか」
服の中がもぞりと動いた。次の瞬間。
ぴょんっ。
一匹のカエルがTシャツの襟元から跳び出した。土の上に着地する。
その姿を見た瞬間、息が止まった。
間違いない。あのカエルだ。
田んぼで見つけたあの奇妙なカエル。口の中には、ぞっとするほど白い象牙質の歯が並んでいる。そして、前脚には――五本の指。あのとき私たちが「新種かもしれない」と騒いだ、あのカエル。
それが今、私の目の前にいる。
ぼぅあべべー
カエルが、もう一度鳴いた。
その声は、さっきまで教授だったものと同じ声に聞こえた。
――教授が……カエルに。
そう思った瞬間、全身から血の気が引いていくのを感じた。目の前では、五本の指を持つカエルがじっとこちらを見ている。
ぼぅあべべー
その鳴き声を聞くたびに、胸の奥が締めつけられた。教授だ。あれは教授だ。そう確信しているのにどうしていいのか分からない。
すると、村人の一人が私の前に歩み出た。
「さて、じゃあ、そろそろ女の方も……」
男が私を見下ろす。だが、その言葉が途中で止まった。
「……ん?」
男は眉をひそめた。そして、私の顔をまじまじと見つめる。
胸元。腕。脚。まるで、何かを確認するように私の身体を眺めている。
「……おかしいな」
男が呟いた。そして、私から視線を外す。
「おい、文春」
「ん?」
少し離れたところにいた文春さんが振り返る。
「こいつも米食ったんだよな」
「あぁ」
文春さんは迷いなく答えた。
「ばあさんのとこで食ったって言ってたから、間違いない」
「だよなぁ……」
男は頭をかいた後、再び私を見る。その顔からはさっきまでの笑みが消えていた。すると、周囲にいた村人たちの視線が、一斉に私へ集まる。
提灯の明かりが揺れる。その明かりに照らされたいくつもの顔が私を見つめている。その目に宿っていたのは、先ほどまでの好奇心や面白がるような色ではなく、戸惑い。そして――何かを待つような目。
私は息を呑んだ。
――米。
その言葉が、頭の中で繰り返された。
――そうか。私はこの村で米を食べていない。教授は食べた。だから……だから、私はまだ――。
その瞬間、目の前の村人が手を伸ばした。
「ひっ!」
悲鳴が喉から飛び出した。反射的にその手を払いのける。
「触らないで!」
自分でも驚くほど大きな声だった。村人が怯んだ、その一瞬。私は立ち上がった。
何をするべきかなんて考えていない。ただ、ここから逃げなければならない。
出口。あそこに見える、わずかな月明かりを目指し、私は地面を蹴った。
「おい!」
背後から声が飛んでくる。振り返らない。走る、走る、走る。足がもつれそうになる。それでも走った。
提灯の明かりが背後でいくつも揺れている。追ってくる。止まれない。私は必死に足を動かし続けた。
――あと少し。あと少しで外へ出られる。
木々の隙間から、夜の闇が見えている。私はその光景に縋るように最後の力を振り絞った。
そして――祠の外へ飛び出す。冷たい夜気がいきなり身体を包んだ。
「はぁっ……はぁっ……!」
息を切らしながら、私は山道を一気に駆け下りた。足元なんて見ている余裕はない。木の根に足を取られ何度も転びそうになる。
「はぁ……っ、はぁ……!」
肺が焼けるように熱い。喉が乾いて息を吸うたびにひりついた。
祠に入ったときには、まだ空は明るく、木々の間には、夕暮れの名残が残っていた。けれど、今はもう、山全体が夜の闇に沈んでいる。木々の向こうに広がる闇が、まるで口を開けて待っているように見える。あれほど騒がしかったヒグラシの声ももう聞こえない。ただ、自分の荒い息だけが耳に響く。
「はぁっ……はぁっ……」
怖い。何もかもが怖い。あの岩も。教授も。村の人たちも。そして――あのカエルも。
頭の中で、あの鳴き声が蘇った。
「いや……!」
私は首を振り、さらに足を速めた。走りながら、必死に考えた。
どこへ行けばいい。村の中には戻れない。なら――。
そのとき、ふと思い出した。
民宿。そこには、教授の車がある。車に乗れば、この村から逃げられる。車のキーは――実地調査用のバッグの中。
そして、そのバッグは私が持っている。
「はぁっ……はぁっ……!」
私はバッグの肩紐を握り直した。
――まだある。ちゃんとある。これさえあれば、逃げられる。
私は進路を変えた。民宿へ向かう道を、ひたすら駆ける。
左右には田んぼが広がっている。夜の田んぼは真っ黒で、水面だけが月明かりをわずかに反射していた。昼間なら、蛙の声がうるさいほど聞こえていたはずだ。
けれど今は――。
「はぁ……はぁ……」
聞こえるのは自分の息づかいと足音だけだった。
――車。車にさえ乗れれば。
その一心で、暗い田んぼ道を駆け抜ける。肺が爆発しそうになる。心臓が四つあるみたいに鼓動を速める。田んぼの向こうには何も見えない。街灯も人の気配もない。ただ、ひたすら前へ走る。
そして――遠くに、小さな明かりが見えた。民宿だ。
「はぁ……はぁ……」
私は足を緩め、民宿の周囲を見回す。誰もいない。道にも、庭にも、人影はない。
私は息を殺しながら民宿へ近づいた。そして、肩に掛けていたバッグを下ろす。
車の鍵。実地調査用のバッグに入れたはずだ。ファスナーを開け、中を覗き込む。暗くてよく見えない。私はバッグの中に手を突っ込んだ。
「……どこ……」
指先で中身をかき分ける。
ノート。筆記用具。採取用の袋。手袋。その奥にあるはずだ。
――鍵はどこ。
指先に、何かが触れた。
「……?」
硬く冷たい感触。私はそれを掴んで引っ張り出した。出てきたのはプラスチック製の採取箱。昼間、田んぼで捕まえたカエルを入れていたものだ。
「……カエル」
そう呟いて、私は採取箱を覗き込む。透明な蓋の向こうで暗闇の中、小さな影が動いた。
カエルはこちらを向き、真っすぐに私を見つめていた。
「ひっ……」
喉の奥から短い声が漏れた。目を逸らしたかった。だが、逸らすことができなかった。だって――
――このカエルも……もとは……
背筋がぞくりとする。昼間、田んぼで捕まえたときには、ただの奇妙なカエルだと思っていた。けれど今は違う。あの祠で見た光景が脳裏に蘇る。教授が骨を抜かれ、身体が縮み、最後には服の中からカエルが現れた。
そこまで考えたところで――標本箱の中のカエルがゆっくりと口を開いた。ぬらりとした口の奥に、白いものが見える。
歯。人間の歯にも似ている硬質で歪に並んだ白い歯。
「……っ」
息が止まる。カエルは私から目を逸らさない。そして――
ぼぅあべべー
その鳴き声が、夜の田んぼに響いた。
「…………」
私は動けなかった。すると。
ぼぅあべべー
遠くから返事が聞こえた。
ぼぅあべべー
今度は右手の田んぼから。そして――次々と声が重なっていく。田んぼのあちらこちらから。暗闇の向こうから。まるで、誰かを待っていたかのように。何匹いるのかも分からない。ただ、夜の田んぼという田んぼから、同じ鳴き声が響いている。
ぼぅあべべー
ぼぅあべべー
ぼぅあべべー
私は標本箱を抱えたまま、立ち尽くした。教授の最後の言葉が脳裏によみがえった。
「たすけて」
あの声。その直後、教授はカエルになった。
私は息をのむ。
私の耳には、もはやそれはカエルの鳴き声には聞こえなかった。
――たすけて。
――たすけて。
――たすけて。
――たすけて。 ――たすけて。
――たすけて。 ――たすけて。 ――たすけて。
――たすけて。 ――たすけて。 ――たすけて。 ――たすけて。
――たすけて。 ――たすけて。 ――たすけて。 ――たすけて。 ――たすけて。
「いやぁぁぁぁああああっ!」
その声をかき消すように私は絶叫した。耳を塞ぎ、その場にうずくまり、何も聞こえないように両手で耳を押さえつける。けれど、それでも聞こえてくる。
たすけて……たすけて……たすけて……
田んぼのあちらこちらから響く声が、頭の中まで入り込んでくる。
「やめて……!」
そのときだった。不意に――肩を叩かれた。
「――っ!」
身体が跳ね上がった。
私は悲鳴を上げながら振り向こうとして、足をもつれさせる。
「きゃあっ!」
そのまま尻もちをついた。息を詰まらせながら、私はゆっくりと顔を上げる。
そこに立っていたのは――
「ま、雅代さん……」
民宿の女将だった。いつからそこにいたのか。何も言わず、ただ私を見下ろしている。
「あらあら、どうしたんね。こんなとこで」
何でもないことのように女将は言った。その顔には、昨日と同じ穏やかな笑みが浮かんでいる。
その笑みを見て私は一瞬ほっとした。助かった。そう思った。けれど、女将の右手にあるものが目に入った瞬間、その安堵は跡形もなく吹き飛んだ。
女将の右手には――白く、艶のある、おにぎりが握られていた。
私は息を呑んだ。身体が動かない。
女将はそんな私を不思議そうに見つめると、右手のおにぎりをゆっくりと差し出した。
「さ、たんとお食べ」




