第四話
やがて軽トラックは田んぼの広がる一帯へと到着した。
「ほら、この辺だ」
文春さんが軽トラックを止める。荷台から降りた私は思わず息をのんだ。
見渡す限りの水田。青々とした稲が朝の風に揺れ、そのたびにさわさわと心地よい音を立てる。遠くには山々が連なり、その麓を縫うように用水路が流れていた。
「おぉ……」
教授が感嘆の声を漏らす。その顔はすでに研究者のものだった。
私たちは早速作業に取りかかる。気温を測る。土を採取する。水を採取する。周辺に生息する昆虫も記録する。サンプル袋や容器が次々と埋まっていった。
教授は夢中になって田んぼの中を歩き回っている。私は少し離れた畦道を調べていた。周辺植生の確認も今回の目的のひとつだ。田んぼの脇に生えている植物を観察しながら、数種類の葉をサンプル容器へ入れていく。朝露に濡れた葉が指先をひんやりと濡らした。
もう少しで一区切りだろうか。そう思いながら次の植物へ手を伸ばした、その時だった。
ぼぅあべべー。
「あ」
またあの鳴き声だ。昨日から何度も聞いている、不思議な声。私は顔を上げて周囲を見回した。すると今度はすぐに見つかった。
声の発生源は田んぼの中。水面の向こうで、小さな何かがぴょんと跳ねる。
ぼぅあべべー。ぼぅあべべー。
それは鳴き声をあげながら、なぜかこちらへ近づいてくる。昨日からずっと気になっていたのだ。この機会を逃す手はない。
私はそっと腰を落とした。そしてタイミングを計る。
ぴょん。
また一歩近づいた。
――今だ。
素早く手を伸ばす。
「えいっ!」
ぱしっ。
見事に捕まえた。私は恐る恐る右手を開く。
その中に収まっていたのは、お好み焼きで言えばソース。お寿司で言えば醤油。田んぼには欠かせない存在。
「カエルだ」
どう見てもカエルだった。昨日から散々気になっていた鳴き声の正体が、まさかこんな身近な生き物だったとは。
「君だったのね……」
手のひらの上のカエルは、逃げる様子もなくじっと私を見つめていた。
黒く丸い瞳。なぜか妙に圧がある。
見つめ返す。向こうも見つめ返してくる。しばし睨み合いになる。そして――
ぼぅあべべー
カエルが鳴いた。
「ん?」
――今、何か見えたような。
私は眉をひそめた。気のせいだろうか。もう一度確認するため、左手でカエルの頬をむにゅっと押してみる。
ぼぅあべべー
抗議するような声が返ってきた。だが、それどころではない。
「あ」
やっぱりだ。私は思わず目を見開いた。
「このカエル、歯が生えてる」
私がそう言うと、少し離れた場所で採集をしていた教授がぴたりと動きを止める。
「大体のカエルは歯が生えてるぞ、かみ砕くためというより、獲物を押さえるために――」
「違うんです!」
思わず遮るように声を張ってしまった。
「……下の歯が生えてるんですよ」
「な、なに!?」
教授が素っ頓狂な声を上げる。慌てて近くのカエルを一匹捕まえ、その口をこじ開けた。そして。口の中に並ぶ象牙質の歯を、食い入るように見つめる。
「……ガストロテカ・グエンテリ」
「ガストロ……何です?」
「ガストロテカ・グエンテリだ。コロンビア西部からエクアドル西部のアンデス山脈にかけて生息しているカエルでね。現生のカエルとしては珍しく、下顎にも歯があることで知られている」
教授はカエルから目を離さないまま答えた。
「しかし……いや、そんなはずはない」
今度は自分に言い聞かせるように呟く。
「ガストロテカ・グエンテリには目の上に角がある。だが、この個体にはそれがない」
教授の指がカエルの頭をなぞる。
「それにあの種は樹上性だ。木の上や植物の間で生活する。田んぼの中にいるなんて聞いたことがない」
そう言った後、教授は考え込み、夜行性のはずーとかオタマジャクシがーとかブツブツと呟いている。その間、私は私でカエルの観察を続けていた。そして、もう一つ妙なことに気づいた。
「カエルの手って四本指ですよね。ガストロテカ・グエンテリも一緒ですか」
「どのカエルの前肢も四本。ガストロテカ・グエンテリも例外ではない」
「でも、このカエル、指五本ありますよ」
「ご……五本!?」
ぱしゃん、と音がし、教授がしりもちをつく。お尻が濡れたまま手のカエルを見つめる。ひっくり返してはカエルの指を数え、またひっくり返して数える。カエルも災難だ。教授はずり落ちた眼鏡をなおさないままごくりとつばを飲み込む。
「間違いない、こっちのカエルも五本指だ。新種……かもしれない。上野君、サンプル入れに」
「あっ、はい」
私は田んぼ脇に置いていたバッグから採取箱を取り出した。片手でごそごそと準備をしている間も、カエルは逃げようとしない。手のひらの上で大人しくこちらを見つめている。
人懐っこいカエルもいるもんだな、そう思いながら採取箱へ移した。
「研究所に帰るまで無事でいてね」
蓋を閉め、軽く箱を叩く。中のカエルはじっとこちらを見返していた。
私は教授の方へ視線を向けた。教授はまだ採取箱を覗き込みながら何かぶつぶつ呟いている。完全に自分の世界へ入っていた。
その時、ふと、田んぼの向こうに人影が見えた。誰かが作業をしている。大きな袋を脇に置き、柄杓のようなもので中身をすくっては田んぼへ撒いていた。遠目にも、それが粉状のものだということだけはわかった。柄杓が振られるたびに、ふわっ、ふわっと白っぽい粉が宙へ舞い上がる。
気になった私は視線を移す。教授は相変わらずカエルに夢中でこちらを見る気配もない。そこで私は、少し離れた場所で軽トラによりかかって缶コーヒーを飲んでいた文春さんに尋ねることにした。
「文春さん、あっちで撒いてるのは何ですか」
返事に間が空く。知らないのかな、と思っていると文春さんは突然こんなことを言い出した。
「民宿のばあさんのとこの飯も旨かっただろう。あそこも村の米つかってるからなぁ」
「いやー、それが昨日村に着いたのが遅くて食べそびれてしまって……」
いつの間に近くに来たのだろう、泥だらけの教授がそう答えた。文春さんの動きが止まる。
逆光で文春さんの表情はわからない。
――うわ、だまっちゃったよ。自慢したかったんだろうに、気まずいなぁ。
私はすかさずフォローを入れることにした。
「あっ、でも、おばあちゃんがおにぎり作ってくれたんですよね、教授。うまーいって叫んでるのがこっちの部屋まで聞こえてきましたよ」
「そうそう、あれは美味すぎた。惚れ惚れする味だったねぇ」
文春さんが視線を私に向ける。ミンミンと鳴く蝉の声が聞こえる。
しまった。私は車酔いがひどくて食べていない。だけど、私はその視線の圧力に負け、咄嗟に嘘をついてしまった。
「ほんと、おいしかったですよねー、民宿で食べた『かかとおとし』の方が前に食べたのよりおいしく感じましたぁ」
適当に話を合わせた。すると文春さんはうんうんと満足したように頷いた。よかった、なんとかごまかせた。
「そうなんだよ、こういうのは食うのにふさわしい場所ってのがあるんだよなぁ。あ、そうそう。撒いてる粉だったよな。専門的なことはあまりわからないんだが、確かリン酸カルシウムだったかなぁ」
「リン酸カルシウム! ありえないっ!!」
教授がまた大声を上げる。いい加減うるさい。だけど、私も同じ意見だ。ありえない。
リン酸カルシウムは確かに肥料となる。でも、決してあんな使い方はしない。水を張って稲も育っている田んぼにあんなふうに撒いたりはしない。水田であれば通常『田植え前』に行う。土を掘り起こし、リン酸カルシウムをそこに混ぜ込む。リン酸カルシウムは水に溶けにくいからだ。土になじむのだって数カ月から年単位で時間がかかる。
教授は目をまんまるに開いたまま固まっている。さっき捕まえたカエルみたいだ。そのうち、ぼぅあべべーって鳴くんじゃないかという気すらする。
「ありえないって言われても、うちの村じゃずーっと昔からこのやり方だぜ」
文春さんは困ったように頭をかいた。教授はまだ納得していないような顔をしている。そして、さっきのカエルの時と同様にブツブツと独り言を言い始めた。
「リン酸カルシウムが……いや、しかし……水田でこの時期に……」
腕を組み、眉間に深いしわを寄せている。どうやら完全に自分の世界へ入り込んでしまったらしい。その様子を見ていた文春さんが、ふと何かを思い出したように「あっ」と声を上げた。
「そうだ、そろそろ俺は祭りの準備に行かなきゃいけない時間だった」
腕時計を見ると、いつの間にかかなり時間が経っていた。
「教授、帰り道はわかるよな」
「え? ああ、はい。大丈夫だと思います」
突然話を振られた教授は慌てて顔を上げたが、返事をした直後にまた考え込んでしまう。文春さんは苦笑しながら肩をすくめた。
「夕方ごろには民宿に迎えに行くからよ。それまで好きなだけ調べてくれ」
「ありがとうございます」
「なぁに、村の米を気に入ってくれたんだ。いいってことよ」
そう言って文春さんは軽トラへ乗り込む。エンジン音が響き、車体がゆっくりと向きを変えた。
「じゃあ、またあとで」
軽く片手を上げる文春さんに、私は何度も頭を下げた。
「お世話になります」
軽トラは土埃を巻き上げながら走り去り、その姿はやがて田んぼの向こうへ消えていった。あたりには再び風に揺れる稲の音だけが残る。そして、まるで入れ替わるように。
ぼぅあべべー。
田んぼのどこかから、あの奇妙な鳴き声が聞こえてきた。私は思わず振り返る。採取箱の中のカエルは、蓋越しにこちらをじっと見つめていた。




