第三話
翌朝。私たちはまだ日が昇りきらないうちに民宿を出た。
空気はひんやりとしていて、昨夜の眠気が少しだけ残る頭を心地よく冷ましてくれる。もっとも、教授は朝からやたらと元気だった。
「急ぐよ、上野君」
そう言いながら、ずんずんと先を歩いていく。
今回の実地調査は時間との勝負だ。今日中に帰らなければいけないし、それ以上に、「露が落ちる前に見ておきたいんだ」と教授は昨夜から何度も口にしていた。
朝露をまとった植物は、日が高くなるにつれて姿を変えてしまうらしい。
葉の開き具合。色。表面の状態。ちょっとした違いが観察結果を左右することもあるのだとか。
私は首から下げたカメラの位置を直しながら空を見上げた。東の空がゆっくりと白み始めている。急がなければならないのは本当らしい。
「それにしても、そんなに違うものなんですか?」
私が尋ねると、教授は振り返った。
「違うとも。露があるうちしか見られないものもあるからね」
その目は『かかとおとし』を食べていた時と同じくらい輝いていた。どうやら教授は、今日の調査を相当楽しみにしているらしい。私は苦笑しながら、その後を追いかけた。
◇
田んぼがありそうな方角へ足を進めていると、一台の軽トラックが私たちの横でゆっくりと止まった。運転席の窓がスッと降りる。
「おーい、教授ー」
聞き覚えのない声に振り向く。運転席には日に焼けた中年男性が笑顔で座っていた。
「え、あ、文春さん。どうしてここに」
教授が驚いたように声を上げる。
――文春さん?確か、とんかつ屋の……。
文春さんは車の窓枠に肘を乗せながら笑う。
「祭りの準備が近いからしばらくこっちにいるんだよ」
そう言うと、村の方へ親指を向けた。
「教授が来るって聞いてたから案内しようと思ってさ。民宿に行ってみたら、もう出たって言われてな」
肩をすくめる。
「それで探しに来たんだよ」
「そうだったんですか」
教授はほっとしたように頷いた。
すると文春さんの視線が私に向く。私と教授を交互に見比べた後、口元をにやりと歪めた。
「ところで、こっちの美人さんは誰なんだい」
嫌な予感がした。
「ひょっとして教授のコレかい?」
文春さんは小指を立てて、ちょいちょいと曲げる。
「違います」
「違うよ!」
私と教授の声が綺麗に重なった。
一瞬の沈黙。そして文春さんが豪快に笑い出した。
「あっははは! 息ぴったりじゃねぇか!」
「どこがですか」
思わずツッコミを入れる。鏡など見なくてもわかる。今の私は間違いなく苦笑いを浮かべているはずだ。
教授は慌てて咳払いをした。
「うちの学生だよ。実地調査にどうしても来たいって言うから連れてきたんだ」
「ああ、学生さんか。……じゃあ、あんたもうちの村の米を食べたか」
文春さんが期待するような目でこちらを見る。
「はい。今まで食べたどんなお米よりもおいしかったです」
素直な感想だった。あの味を思い出すだけで唾が湧いてくる。私の言葉を聞いた文春さんは、満足そうに何度もうなずいた。
「そうだろう、そうだろう」
どこか誇らしげな笑みを浮かべる。
「自慢の米なんだよ」
その表情には、自分で作ったわけでもないのに自慢せずにはいられない、そんな村人らしい愛着がにじんでいた。
「じゃあ、祭りの準備までまだ時間があるから案内してやるぜ」
そう言うと、文春さんは私に向かって片目をつぶった。ウインクのつもりだろうが、正直、反応に困る。私はまたも苦笑いを浮かべた。
採集道具を詰め込んだバッグはかなり重い。それに土地勘もない。案内役がいてくれるのは正直ありがたかった。
運転席から降りた文春さんは軽トラックの荷台をぽんぽんと叩く。
「ほら、乗った乗った」
教授は慣れた様子で荷台によじ登った。私もその後に続く。バッグを脇に置いて腰を下ろすと、文春さんが運転席へ乗り込んだ。
エンジン音が響き、軽トラックがゆっくりと走り出す。朝の風が頬を撫でた。民宿から離れるにつれ、周囲には田んぼが増えていく。見渡す限りの緑。朝露をまとった稲が朝日に照らされてきらきらと輝いていた。
「採集する許可も取っといたから安心しろ」
運転席の窓から文春さんが声を飛ばしてくる。
「ありがとうございます!」
思わず大きな声で返事をした。教授も満足そうにうなずく。
これなら調査もスムーズに進みそうだ。軽トラックは土埃を巻き上げながら、『かかとおとし』が育つ田んぼへと向かっていった。
走り出した軽トラックの荷台から周囲を見渡す。
山。山。山。どの方角を向いても山だった。どうやら禍火渡村は山々に囲まれた土地らしい。
私は荷台の縁に手を掛けながら、その景色を眺める。
――山……か。
山と田んぼには密接な関係がある。農学部に入って嫌というほど学んだことだ。
山は天然の浄水場とも呼ばれている。
冬に積もった雪は春になると雪解け水となって山を流れ下る。その水は土や岩の間をゆっくり通り抜けることでミネラルを取り込み、やがて川へと注ぐ。
さらに山に積もった落ち葉は長い時間をかけて腐植し、植物の栄養分となる。その一部は水とともに田んぼへ運ばれていく。
だから昔から、山の水で育つ米はおいしいと言われているのだ。目の前に広がる景色を見れば、その理屈も納得できる。こんなに豊かな山に囲まれているのだから。
私は腕を組んだ。
――絶対にそれだけじゃない。
あの味は説明できない。山の麓で作られた米なんて全国にいくらでもある。私の実家だってそうだ。それでも、『かかとおとし』は違った。甘味も。旨味も。香りも。何もかもが別格だった。
山の水だけで説明できるほど単純な話には思えない。
じゃあ何が違うのか。土か。温泉か。それとも私のまだ知らない何かか。考えれば考えるほどわからなくなる。
そんな私の悩みなどお構いなしに、軽トラックはごとごとと音を立てながら山道を進んでいく。
道すがら、文春さんは禍火渡村について色々と教えてくれた。
「この辺一帯はな、元々ぜーんぶ山だったんだよ」
軽トラックを運転しながら文春さんが言う。
「そこに隕石が落っこちてきて、地面が平たくなったらしいんだ。そんで、そこに人が住み着くようになって村ができたんだとさ」
「隕石……ですか」
思わず聞き返す。文春さんは大きく頷いた。
「その時の隕石のかけらは今でも残ってるんだ。村の祠で祀っててな。毎年祭りの最後には、みんなでお参りするんだよ」
稲作に隕石。正直、その組み合わせは考えたこともなかった。教授も同じらしい。顎に手を当てたまま固まっている。明らかに何かを考え込んでいた。
「よかったら見てみるかい?」
文春さんがニヤリと笑う。
「夕方くらいに村のみんなで祠の掃除に行くんだ。その時にでも案内してやるよ」
「本当ですか?」
「おう。それに石なら今でも畑や田んぼから時々出てくるんだ」
そう言ってハンドルから片手を離し、親指と人差し指で小さな輪を作った。
「俺が頼めば、これくらいの小っちゃいやつなら分けてもらえるかもしれねぇぞ」
「ええぇぇ!! 本当ですか!?」
教授が大声を上げる。私までびくっと肩を震わせてしまった。まさか、たとえ欠片とはいえ、ご神体の一部を譲ってもらえる可能性があるなんて。
「おっと、もちろん奥にある禍火渡様は別だぞ」
文春さんは笑う。
「村で祀ってる大岩のことな。あれはさすがに持ち出せねぇ。まぁ、いいぞって言われても運べる大きさじゃねぇけどな」
そう言って一人でガハハと笑った。
教授と私は思わず顔を見合わせる。教授の目は、『かかとおとし』を食べていた時と同じくらい輝いていた。いや、もしかするとそれ以上かもしれない。どうやら教授の頭の中は、すでに隕石のことでいっぱいになっているらしかった。
そして、気がつけば私も同じだった。




