第二話
もう夜も遅い。教授と明日の打ち合わせを軽くして、実地調査は明日の朝から始めることになった。夏休み前だからだろうか。古びた民宿には、私たち以外の宿泊客はいないようだった。
私は貸し切り状態の露天風呂に浸かりながら、明日からの調査について考える。
かかとおとし。禍火渡村。そして、この村でわかるかもしれない米の秘密。頭の中で明日の日程を整理しているうちに、張り詰めていた緊張が少しずつほどけていった。
夜は昼間よりずっと静かだ。聞こえるのは風が木々を揺らす音と、湯の流れる音くらい。その静寂の中で、時折どこからともなくあの声が聞こえてくる。
ぼぅあべべー。
ぼぅあべべー。
昼間にも聞いた、あの奇妙な鳴き声だ。
「ほんと、なんの声なんだろ……」
誰に聞かせるでもなく呟く。結局わからないまま、私は湯船を後にした。風呂から上がり、火照った体を夜風で冷ましながら部屋へ戻る。廊下には人の気配ひとつない。民宿全体が眠りについてしまったような静けさだった。
私は部屋の襖を開けた。中へ入ると、テーブルの上に皿が置かれているのが目に入った。その上には大きなおにぎりが二つ。そして、カブとキュウリの漬物。さらにその横には、一枚の書き置きが添えられていた。
『夕飯をとられていないようだったのでどうぞ。
この村で取れたお米です。 雅代 』
「あ……」
思わず声が漏れる。民宿に着くのが遅くなったせいで、私たちは夕飯を食べ損ねていた。きっと見かねた雅代さんが用意してくれたのだろう。テーブルの上のおにぎりは、今にも食べてくれと言わんばかりに存在感を放っている。しかも、この村で取れたお米らしい。
本来なら飛びついていた。間違いなく飛びついていた。だが。
「うっ……」
私は口元を押さえる。車酔いがまだ尾を引いていた。あれだけおいしいお米だとわかっているのに、今は食欲よりも吐き気の方が勝っている。
ありがたい。本当にありがたい。けれど今は無理だ。私は荷物の中から標本サンプル用のプラスチック製タッパーを取り出した。おにぎりをそっと中へ入れる。漬物も一緒だ。
「ごめんなさい。あとで食べます……」
誰に向かってというわけでもなく、小さく呟く。その時だった。
「うんっまぁぁぁー!」
突然、窓の外から大きな声が響いた。
「!?」
思わず肩が跳ねる。今の声は聞き間違えようがない。教授だ。
どうやら向こうも窓を開けているらしい。夜の静けさもあって、その声は驚くほどはっきりと聞こえてきた。
「うまい! これはうまいぞ! うはははははっ」
興奮した声が続く。どうやら夜食のおにぎりに突撃したらしい。その様子がありありと想像できる。きっと今頃、目を輝かせながら頬張っているのだろう。その声だけで、おにぎりがどれほどおいしかったのか伝わってきた。
ハハ、と乾いた笑いが自然と漏れた。胃腸の丈夫さが羨ましい。さっきまで車酔いで死にそうになっていた私とはえらい違いだ。教授の元気な声はしばらく続いていたが、やがて静かになった。
私は何となく窓の外へ視線を向ける。開け放した窓から、ひんやりとした夜風が流れ込んできた。見上げれば空には月が浮かんでいる。月明かりに照らされて、民宿の周りの景色がうっすらと見えた。
田んぼだ。暗闇の中に、幾枚もの田んぼが広がっている。風が吹くたびに稲が揺れ、さわさわと小さな音を立てていた。
温泉。田んぼ。そして『かかとおとし』。
ふと、先週食べたご飯の味が蘇る。あれほどおいしい米ができる理由は何なのだろう。
確かに、田んぼと温泉が共存している地域は珍しくない。
有名なところだと湯西川温泉や由布院温泉、土湯温泉なんかもそうだったはずだ。温泉水にはさまざまな成分が含まれている。ケイ素なんかは植物の生育を助ける可能性があると授業で習った。
だったら、この村の米のおいしさも温泉が関係しているのだろうか。
けれど、そう単純な話でもない。地域差はあるものの、温泉水には硫黄や鉄分、ナトリウム、塩化物なども含まれている。成分によっては土壌のpHが変化するし、場合によっては作物に悪影響を与えることだってある。
温泉があるからおいしい米が育つ。そんな簡単な話ではないはずだ。
「うーん……」
腕を組む。考える。考える。けれど答えは出ない。私は頭をがしがしとかいた。わからないものはいくら考えてもわからない。
「まぁ、明日の調査次第よね」
そう結論づける。ここでいくら考えたところで、答えが出るわけじゃない。それを確かめるために、私はこの村まで来たのだから。
私は窓を閉めた。ひんやりとした夜風が遮られ、部屋に静けさが戻る。布団へ近づき、そのまま身体を投げ出した。
「はぁ……疲れた」
車酔いのダメージも抜けきっていない。正直、もう限界だった。目を閉じると、すぐに眠気が押し寄せてくる。
窓の外では、相変わらずあの声が響いていた。
ぼぅあべべー。 ぼぅあべべー。
まるで村全体を包み込むように、その不思議な声は夜の闇の中へ溶けていく。その声を最後に聞きながら、私はゆっくりと眠りへ落ちていった。




