第一話
ぼぅあべべー。
ぼぅあべべー。
耳慣れない鳴き声が、窓の外から聞こえてきた。
虫……だろうか。
少なくとも、私が知っているセミやコオロギの声ではない。
湿った熱気が、開けた窓から容赦なく流れ込んでくる。青空には、山の向こうから湧き上がるように入道雲がゆっくりと膨らんでいた。
私はワゴンの助手席で、でこぼこの田舎道に身を揺られていた。
ガタン。
車体が大きく跳ね、私は思わず助手席の手すりを握りしめた。
窓の外には、どこまでも田んぼが広がっている。七月の日差しを浴びた稲はまだ青く、風が吹くたび一面が波のように揺れた。その先には濃い緑の森が横たわっている。
ぼぅあべべー。
まただ。さっきよりも近い。
鳴き声は一匹ではないらしい。あちらこちらから重なるように聞こえ、ときおり静寂が訪れたかと思うと、示し合わせたように一斉に鳴き始める。
こんな声、生まれて初めて聞いた。
私は窓の外へ目を向けたまま、小さく首をかしげた。
ガタン。
車体がもう一度大きく跳ね、私は危うく頭を窓ガラスにぶつけそうになる。
運転席では、隅田教授がハンドルをぎゅっと握りしめていた。
私が通う宇佐宮大学農学部の教授で、植物のこととなると寝食を忘れるような人だ。そのくせ車の運転はどうにも苦手らしく、狭い田んぼ道をタイヤが落ちないよう真剣な表情でハンドルを切っている。
その横顔を見ているだけで、助手席の私まで肩に力が入ってしまう。
私はため息をつき、窓の外へ目を向けた。
見渡す限り、一面の田んぼ。
その向こうには深い緑の山並みが連なり、ぽつりぽつりと古い民家が見えるだけだ。
――はぁ……。
思わずため息が出る。こんなに田舎だとは思わなかった。
街灯らしい街灯も見当たらない。この道だって、日が落ちたら闇に飲み込まれてしまうんじゃないだろうか。
私はもう一度、隅田教授の横顔を見る。
細い道の端ぎりぎりを走るたびに、教授の肩がぴくりと動く。
――お願いだから落ちないで。目的地がどれだけ山奥でも構わないから。せめて、日が暮れる前には着いて。
私は助手席でシートベルトを握りしめながら、小さく息を吐いた。
それにしても……なんでこんなことに。
思い返せば、すべての始まりは数日前。
大学の研究室に、教授が炊飯ジャーを持ち込んでいたあの日のことだった。
◇
昼下がりの陽射しが、宇佐宮大学農学部の廊下に差し込んでいる。
私は白衣を腕に抱えながら、いつものように実験棟の三階を歩いていた。私は首から下げた学生証を白衣の下から引っぱり出す。
『上野まどか』
写真の中の自分と目が合う。
「ハハ、眠そうな顔……」
苦笑いして学生証を胸元へ戻した。
アルコール消毒液の匂いと、どこか湿った土の匂い。この空気を吸うと、「ああ、大学に来たな」と実感する。もう修士二年。ここへ通うのもすっかり日常になってしまった。
研究室の前で足を止める。プレートには見慣れた文字。
植物生理学研究室。
「よし」
小さく気合いを入れて、ドアノブに手をかける。
ガチャリ。
重たいドアを押し開けると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。
培養器のファンが静かに回る音。コーヒーの残り香。棚いっぱいに並ぶ試薬瓶と種子サンプル。窓際では実験用の植物たちが何事もないように光を浴びている。
「おはようございまーす」
いつものように声をかける。けれど返事がなかった。私は首を傾げ、研究室の中をキョロキョロと見まわした。誰も来ていないのかな、そう思った時、ふわりと甘い匂いが私の鼻をくすぐった。思わず足を止める。
――あれ、なんか……
甘い匂い。けれど、菓子や果物のような甘さではない。何度も嗅いだことのあるはずなのにどうしても思い出せない。私はもう一度、ゆっくりと鼻から息を吸った。やっぱりする。甘くて、柔らかくて、どこか懐かしい匂い。それが研究室の奥から、かすかに漂っている。
――あ! これ、ごはん炊けた時の匂いだ
炊飯ジャーを開けたときの匂い。炊き上がったばかりの米から立ち上る、あの何とも言えない匂い。まだ口に入れてもいないのに自然と唾液が湧いてくる。
クンクンと鼻を鳴らしながらその香りのする方向へ足を進める。近づくほどに匂いは濃くなっていった。そして、研究室の奥。机の上にそれはあった。
――やっぱりあった。
炊飯ジャー。白い本体が、まるでそこにあることが当然のように鎮座している。私は炊飯ジャーの前で立ち止まった。蓋は閉じている。それなのに、隙間から漏れ出す香りが研究室いっぱいに広がっていた。
――なんだろう……すっごくおなかが空いてきた。
さっきまで何とも思っていなかったはずなのに、急に空腹を意識する。お腹の奥が、きゅう、と鳴った。こんなにいい匂いが、蓋を閉めたままでも研究室中に広がっている。
――だったら……この蓋を開けたら、いったいどれほどの……。
ゴクリ。思わず喉が鳴った。甘い香りに誘われるまま私は躊躇いつつも手を伸ばす。もう少しで指先が蓋に触れる。その時だった。
「おぉー、上野君!」
「わあぁぁぁあああ!!」
突然背後から声をかけられ、私は文字どおり飛び上がった。心臓が跳ねる。反射的に数歩後ろへ飛び退き、慌てて振り返る。そこには、のんきな顔をした一人の男が立っていた。
「な、な、なっ……!」
胸を押さえながら言葉にならない声を漏らす私を見て、男はきょとんと首を傾げる。
「どうしたんだい? そんなに驚いて」
「どうしたじゃないですよ! 急に後ろから話しかけないでください!」
「あはは、ごめんごめん」
男は悪びれた様子もなく笑った。
白髪の混じったぼさぼさの髪。瓶底のように分厚いレンズの眼鏡。その奥の目はいつもどこかぼんやりとしている。顎には手入れをしているのかどうかもわからない無精ひげがうっすらと生え、よれよれのスーツをまとった体は五十代らしく少しふくよかだ。一言で言えば、くたびれた中年男。
この大学農学部の教授、隅田教授だった。
「……もう!」
胸を押さえながら呟く。だが、いつもと様子が違う。
普段の教授は、何を考えているのかわからないほどぼんやりしている。講義中ですら眠そうな顔をしていることがあるくらいだ。しかし今は違った。厚いレンズの奥で、その目が不気味なほどきらきらと輝いていた。まるで遠足前日の子供のように。いや、それ以上かもしれない。教授は満面の笑みを浮かべながら、私と炊飯ジャーを交互に見た。
「ほんと、ちょうどいいところに来た。そろそろ炊けるよ」
「なんでこんなところでご飯炊いてるんですか?」
「まぁまぁ。まずはそこに座って」
教授はそう言って、近くのパイプ椅子を指さした。今度は私が炊飯ジャーと教授の顔を交互に見る番だった。どう考えても質問への答えになっていない。しかし教授に説明する気がないことは、その満面の笑みを見れば明らかだった。
「はぁ……」
小さくため息をつき、私は大人しくパイプ椅子に腰を下ろした。
教授は満足そうに頷くと、机の脇に置いてあった紙袋へ手を突っ込んだ。がさがさと音を立てながら取り出したのは、お茶碗と箸だった。一セット。そしてもう一セット。
「いや、完全に食べる気じゃないですか」
「もちろん」
教授は即答した。その後、両手を擦り合わせるようにもみ手をすると、待ちきれない子供のような顔で炊飯ジャーを見つめる。
「じゃあ、いくよ」
そう言って、ゆっくりと蓋へ手を伸ばした。研究室の空気が、ぴんと張り詰める。なぜだかわからない。ただ炊飯ジャーを開けるだけだというのに、不思議な緊張感があった。
ゴクリ。
私は思わず喉を鳴らす。教授はにやにやと笑いながら蓋の取っ手をつかんだ。そして。
パカッ。
間の抜けた音とともに炊飯ジャーの蓋が開いた。そこにあったのは予想どおり炊き上がったご飯だ。
真っ白な米が炊飯釜いっぱいに広がり、ほんわかと湯気を立てている。その表面はつやつやと輝いていて、見るからに美味しそうだ。けれど、見た目は普通だった。どこにでもあるただの炊きたてのご飯。だが、そう思った次の瞬間だった。
ジャーの中に閉じ込められていた香りが、一気に解き放たれる。
ふわり。
いや、そんな生易しいものじゃない。甘く、柔らかく、温かな香りが洪水となって研究室いっぱいに広がった。
「っ……!」
思わず息をのむ。
――すごっ。なにこの香り。
さっきまで漂っていた香りとは比べものにならない。炊きたてのご飯の匂いなのに、それが何倍にも濃く、豊かになったような香りだった。
鼻孔をくすぐられた瞬間、空腹が一気に押し寄せてくる。お腹の虫がもう一度鳴った。いや、鳴ったどころではない。ぐぅぅぅ、と今度は誰の耳にも届きそうな音がお腹から響く。普段なら恥ずかしくてたまらないはずなのに、今はそれどころじゃない。すぐ茶碗をひったくってかき込みたい。そんな衝動に駆られるほど、その香りは魅力的だった。
すぅーっ、と教授が鼻から大きく息を吸い込んだのが横目で見える。その表情はまるで高級ワインの香りを楽しむソムリエのようだ。
「うんうん」
満足げに何度も頷くと、教授はしゃもじを手に取った。つやつやと輝く白米をすくい上げ、茶碗へと盛っていく。ほかほかと湯気を立てるご飯は、見ているだけで食欲をそそった。やがて教授と私の前に、それぞれ一膳ずつ茶碗が置かれる。白いご飯。箸。以上。
「さ、食べてみてよ」
隅田教授は満面の笑みで言った。私は机の上を見回す。
「あの……おかずは?」
「ないよ」
即答だった。
――えぇー、ないのか。
漬物も味噌汁もない。もちろんふりかけすらない。目の前にあるのは茶碗に盛られた白米だけ。
――白米だけで食べるのはちょっとなぁ。
そう思う。だが一方で、鼻をくすぐる香りは相変わらず強烈だった。早く食べてみろと急かされているような気さえする。
私はちらりと教授を見る。教授は期待に満ちた目でこちらを見つめていた。どうやら逃がしてくれそうにない。
「いただきます……」
半ば諦めながら箸を持つ。立ち上る湯気の向こうで、白い米が艶やかに輝いていた。そして私は、香りに誘われるようにご飯をひと口頬張った。その瞬間。
「っ!?」
頭のてっぺんからつま先まで、稲妻が駆け抜けたような衝撃が走る。
――なにこれ。うっま。甘い。いや、違う。甘いだけじゃない。噛むたびにじわりと広がる旨味。それが口いっぱいに溢れてくる。
夢中で噛みしめる。一粒一粒がしっかりと存在を主張しているのに、不思議と柔らかい。
――こんなお米、食べたことない。いや、同じ米という名前の別の食べ物なんじゃ……
呆然としながら茶碗の中のご飯を見つめる。すると、どこか得意げな声が聞こえた。
「ね、すごいでしょ」
顔を上げる。隅田教授はすでに二杯目に突入していた。茶碗を片手に、ものすごい勢いでご飯を口へ運んでいる。しかも口の端にはご飯粒がついていた。けれど、教授はまるで気にしていない。気にする余裕すらないのだろう。目の前のご飯を食べることに全神経が注がれている。
「これ……本当にお米ですか?」
「お米だよ」
教授は即答した。そしてまた一口。私も茶碗へ視線を戻す。
――今は教授よりもこのご飯だ。
冷静に味わおうと思ったはずなのに箸が止まらない。一口。また一口。米を噛むたびに広がる甘味と旨味が、次の一口を欲しがらせる。気が付けば私も夢中になってご飯をかき込んでいた。
ふぅ、と湯飲みに残っていたお茶を口に含む。温かいお茶が喉を通ると、ようやく一息つくことができた。茶碗の中はすでに空っぽだ。
「すごく……おいしかったです」
思わず漏れた言葉に、教授は満足そうに目を細めた。
「そうだろう、そうだろう」
何度もうなずく。そして得意げに胸を張ると一言だけ告げた。
「かかとおとし」
「……はい?」
思わず聞き返す。
――なに、今の。空手の技だよね。なんで急にそんな話?
私は首を傾げた。おそらく考えていることがそのまま顔に出ていたのだろう。
教授はくっくっと笑う。
「お米の名前だよ」
「お米?」
「そう。そのご飯に使った品種の名前」
「えぇ……」
思わず間の抜けた声が出た。
『かかとおとし』。改めて頭の中で繰り返してみる。やっぱり変な名前だ。少なくともおいしそうな名前ではない。むしろ痛そうな名前だ。
「実は以前にも私は食べたことがあるんだ。その味が忘れられなくて……」
教授はどこか懐かしそうな顔で語り始めた。
要約すると、こういうことらしい。
二十五年前。旅行先の食堂で食べたお米が信じられないほどおいしかった。
その味が忘れられず、後日もう一度その食堂を訪れたものの、店はすでになくなっていた。周辺で聞き込みまでしたそうだが、有力な手がかりはまったく得られなかったらしい。
それから長い年月が過ぎた。
半ば諦めていた教授だったが、つい最近、立ち寄った食堂で食べたかつ丼に使われていたお米に強烈な既視感を覚えたのだという。
――あ、これだ。
二十五年前に食べたあのお米の味だと。
「そこで、『かかとおとし』という名前を教えてもらってね。少し分けてもらったんだ」
教授は空になった茶碗を撫でながら言った。
「しかも驚いたことに、その店の店主は、そのお米を作っている村の出身者だったんだよ」
「へぇ……」
思わず声が漏れる。偶然にしては出来すぎている話だ。けれど、さっき食べたあのご飯を思い出すと、不思議と信じられる気がした。
教授の声に、次第に熱がこもっていく。
「村の場所を教えてもらったからね。来週にでも実地調査をするつもりだ」
その言葉を聞いて、私は少し考え込んだ。
来週。頭の中で、その言葉を繰り返す。そして、気がつけば口が動いていた。
「その実地調査……私も行っていいですか?」
教授は意外そうに私を見ると、顎に手を添えた。
「うーん……」
しばらく考えたあと、教授は申し訳なさそうに口を開く。
「実地調査は泊まりでするんだ。だから、年頃の女性を連れていくわけには……」
「教授」
私は教授の言葉を遮った。
「私の修士論文のテーマ、知ってますよね」
「もちろん知っているよ」
教授は少し困ったように笑った。
「『山間地域に残る在来米の特性調査』」
そう。私の修士論文のテーマは、山間地域に今も残る在来米について、その特性を調べることだった。
収量。耐冷性。食味成分。遺伝的な特徴。調べるべきことは多い。これまでにもいくつかの地域を回り、サンプルを集め、分析を進めてきた。論文も少しずつ形になってきている。
けれど、どうしても足りないものがあった。最後の一押し。論文全体を決定づけるような何かが。そのことは、指導教官である教授も分かっているはずだ。
そして……理由はそれだけではない。私にはどうしても行かなくてはいけない理由があった。
「いや、でも……しかし……」
教授が歯切れの悪い返事をする。
――もう一押しか。
私は記憶のインデックスをぱらぱらとめくった。
「泊まるってことは旅館ですよね?」
「まぁ、そうなるね」
「部屋は別々にしますし、それに予約関係なら私がやりますよ」
教授の眉がぴくりと動いた。
以前、教授はネットで旅館を予約しようとして盛大に失敗したことがある。結局、実地調査先で泊まる場所が見つからず、途方に暮れたらしい。どうやら予約サイトの会員登録の時点で一日かかったそうだ。
「うっ……」
これは効いてるな。私はさらに畳み掛けた。
「フィールドワークなんですよね?」
「そうだけど……」
「私、結構力ありますよ。荷物持ちなら期待してもらって大丈夫です」
教授の表情が曇る。
最近、膝と腰の調子が悪いことは知っている。大量の機材を抱えて山道を歩くのは、正直しんどいはずだ。
「うぐぐ……」
教授は腕を組み、唸った。私は黙って追撃の効果を待つ。さぁ、これでどうだ。
うーん、うーんと悩んでいた教授は、やがて諦めたように小さく息を吐いた。
「……本当に手伝ってくれる?」
「もちろんです」
即答した。教授はなおも少し悩んでいたが、やがて観念したように肩を落とす。
「わかった。じゃあ、よろしく頼むよ、上野君」
「はい!」
思わず声が弾んだ。
――よし!
心の中で小さくガッツポーズを決める。これで決まりだ。
その後、私たちは研究室の机を挟んで来週の予定を打ち合わせた。出発時間。現地までの移動経路。必要な調査道具やサンプル用の容器。そして、現地で何を調べるか。
一通り確認を終える頃には、すっかり夕方になっていた。
「じゃあ、今日はこのくらいでいいかな」
「はい。お疲れさまでした」
私は鞄を肩にかけ、研究室を後にした。廊下を歩きながら、来週の実地調査のことを考える。
そして、もう一つ――私がどうしてもあの調査についていきたい理由についても。
私の家は、代々続く米農家だ。
時代の流れなのか、米農家は少しずつ減っている。家の周りでも、後継ぎが見つからず農業をやめてしまう家は珍しくなかった。
私の父も子供の頃からずっと言っていた。「お前は好きなことをやれ」と。農家を継いでほしいとは一度も言われなかった。それでも、私は父の作る米が好きだった。炊きたてのご飯の匂いも。口いっぱいに広がる甘さも。そして、その米を作る父の姿も。全部好きだった。
私が農学部に進みたいと言ったときも、父は呆れたように笑っていた。
「バカだなぁ。ほかにいくらでも、やりたいことなんてあるだろ」
そう言いながら、父は窓の外を見ていた。その横顔がひどく嬉しそうだったことを、私は今でもよく覚えている。
さっき食べた米を思い出す。『かかとおとし』。名前だけ聞けばふざけているとしか思えない。けれど、あの味は本物だった。「二十五年経っても忘れられない。」教授がそこまで執着するのも、今ならわかる気がする。あの米には何かがある。そして、その何かを知りたいと思った。研究者として、そして、米農家の娘として。私は実家の米のためにも、『かかとおとし』の秘密を掴む。
夕暮れの廊下を歩きながら、私は改めてそう心に決めた。
◇
そう決めていた。そう決めていたのだが。揺れる車内で、私は早くも後悔していた。
「うぅ……」
思わずうめき声が漏れる。車が大きく揺れた。ぐらりと身体が左右に振られる。
「大丈夫かい、上野君」
運転席から教授の声が飛んできた。
「だ、大丈夫です……」
大丈夫ではなかった。窓の外には延々と続く山道。右へ。左へ。また右へ。車はこれでもかというほどカーブを繰り返している。私はぐったりとシートにもたれかかった。正直に言おう。完全に酔った。実地調査についていくと決めた時は、もう少しこう、知的で充実したフィールドワークを想像していたのだ。まさか開始早々、車酔いとの戦いになるとは思っていなかった。
「あとどれくらいですか……」
「もうすぐだよ」
さっきから三回くらい同じ返事を聞いている気がする。日はとっくに落ち、あたりは真っ暗だった。それほど長い時間を私はこの車内で過ごしている。もともと酔いやすい体質ではあったが、教授の運転技術と田舎道のコンボに完全に打ちのめされていた。
――酔い止め、足りるかな……。
そんなことをぼんやり考えていると、
「お、良かった。見えてきたぞ」
教授の声が聞こえてきた。
やっとこの苦痛から解放される。そう思うと、その声が天の声のように聞こえる。私は込み上げる吐き気を必死に押さえながら前方を見た。暗闇の向こうに、ぽつりぽつりと明かりが見える。どうやら目的地は本当に近いらしい。
やがて車は明かりの灯る建物の前で止まった。
「着いたよ」
教授の言葉に、私は安堵の息を吐く。助かった。もう少し揺られていたら、本気で危なかった。
車から降りると、ひんやりとした夜風が頬を撫でた。目の前にあるのは、この村で唯一の民宿らしい。古びた木造の建物が、山の斜面に寄り添うように建っている。大きく張り出した屋根は少し色褪せ、軒先には風に揺れる暖簾がかかっていた。
私と教授が車から荷物を降ろそうとしたその時、ガラリ、と玄関の戸が開く。中から一人のおばあさんが姿を現した。
「こんな遅くによう来たねぇ。隅田様かい」
年齢は七十くらいだろうか。小柄な体に、薄い灰色の割烹着をまとっている。白髪を後ろでひとつにまとめ、腰は少し曲がっていた。顔には深いしわが刻まれていたが、その表情はとても穏やかだった。
教授は荷物を降ろす手を止める。
「あ、そうです。夜分遅くすみません。お世話になります。あのー、文春さんの紹介で……」
少し慌てた様子で頭を下げた。文春さんというのは、教授にこの村のことを教えたとんかつ屋の店主のことだ。
「あぁ、話は聞いとるよ。まぁ、まずは中へ入りんさい。疲れたろうに」
そう言って女将さんは、私が持っていた荷物へ手を伸ばした。
「だ、大丈夫です。結構重いですから、自分で運びます」
慌ててそう言うと、
「そうかい、そうかい」
女将さんはあっさりと手を引っ込めた。そして、ひょこひょことした足取りで民宿の中へ向かって歩き出す。私たちもその後に続こうとした時だった。
「あぁ、そうそう」
女将さんが何かを思い出したように振り返った。
「申し遅れました。女将の雅代です」
そう言うと、その場で深々と頭を下げる。
「ようこそ、禍火渡村へ」
夜風に乗って届いたその言葉に、思わず足を止めた。
禍火渡。かかと村。『かかとおとし』と同じ名前。胸の奥が少しだけざわつく。
「あ、ご丁寧にどうも」
教授はぺこぺこと頭を下げながら、雅代さんの後をついていく。
「あ、よろしくお願いします!」
私も慌てて頭を下げ、その後を追いかけた。




