第八話 水の瞳
――真っ暗だ。何も見えない。深い闇の中に囚われてたゆたっているそんな感覚。闇から吐き出される冷気で少しずつ体が麻痺していく。
正確には体と言っていいのかもわからない。今、俺は一糸纏わぬ姿の精神体のようになっていたから。体の主導権は突如俺の中に入り込んで来た何かに完全に奪われてしまっている。
だけど不思議なことに自分の周りを満たしている感情と彼らの声だけはわかった。
悲しんでいる。その何かも、そしてリヒト、シュリ、アルヒェも。
ひとつだけ喜びに打ち震えた感情がある。これはあのノナって奴のものだろう。
……まったくとんでもない奴だ。
ああ、声が聞こえる。
元に戻って。帰って来て。
爪が何かを裂いた音が聞こえる。
間違いない。異形と化した「俺」が今誰かを傷つけた。
俺は強く願う。もうやめてくれ。何が悲しくて大事な仲間を、命の恩人を傷つけないといけないんだ。
力が欲しい。この何かを弾き出してしまえるほどの強い力が。
闇が揺らめいた。誰かが優しく、力強い声で俺に問う。
「汝は我が資格者と成りうる者。代償を覚悟の上で真に我が力を求めるか?」
答えは最初から決まっている。先にどんな代償が待っていようと。
「力が欲しい。彼らを傷つける力じゃなく守る力が」
暗闇の中にはっきりと声が響くのがわかった。精神体だから声というより魂の叫びなのかも知れないが。
「承知した。我が力の欠片をシュネル、汝に託そう」
「あ……」
体の奥が熱くなっていくのがはっきりとわかった。ああ、この力は――
**
「……動きが止まった?」
痛む腕を抑えながらシュリが言った。
目の前のシュネルだったものは――緋色の狼は急に動きを止めた。
リヒトもシュリもアルヒェも受けたダメージは半端なものではない。元々シュネルの自身の戦闘能力が高いこともあり、なかなか攻撃が当たらず、攻撃も避けられずといった具合だったからだ。
三人とも服のあちこちが裂け、まさに満身創痍といった状態だった。
「動きが止まってくれるのは有り難いけど」
「リヒトさん、シュリさん……見て下さい!」
緋色の狼を緋色の炎が包み、炎が消えるとそこには元の姿に戻ったシュネルがいた。もっとも彼自身も満身創痍でひどくふらついてはいたのだが。
「……シュネルさん!」
アルヒェは痛む足も気にせずに彼の元へ駆け寄る。
「……無傷とはいかなかったけど……ただいま」
「良かったです……あたし……もう目の前で異形化されるのも……誰かが死ぬのも……!」
「……ごめんな。もう大丈夫だから」
シュネルはそう言うとアルヒェの頭をそっと撫でた。
「……どういうことなの?マナバランスを崩された人間は絶対に元に戻らないはずなのに……」
ノナはその様子に怒りしか覚えなかった。
無理もない。本来マナバランスを崩された人間がそのままの姿で命も失わずに目の前にいるということはありえないのだ……少なくとも理論上は。
「……まあいいわ。使えなかったのには変わりはない。シュネルちゃん、さよなら!」
ノナはシュネルの喉元目掛けて針を投げつける。
「シュネル!」
シュネルの反応は遅れたが、その針は彼の喉元を貫くことはなかった。
代わりに――
「……っ……」
彼を庇ったリヒトの手の甲をかすめて、地面に落ちた。
「リヒト!」
かすめたといってもその先端は完全に彼の皮膚を裂いており、傷口からはとめどなく血が流れ落ちていた。
ノナはその様子を冷たく見下ろして問う。
「……馬鹿じゃないの?あんた『月の子ども』よね。血を……マナを失うのは致命傷になるのに赤の他人を庇うなんて」
「……自分でも本当馬鹿だと思うよ。だけど……勝手に体が動いたんだ……」
リヒトは自嘲するようにそう言って、その場に崩れ落ちた。そしてほぼ同じタイミングでシュネルも。
「リヒト!シュネル!」
「さあ後は貴方達だけね……」
ノナは針の代わりに鎌を手にしてもう戦えないシュリとアルヒェに向けた。
「……!」
ふたりはリヒトとシュネルをそれぞれ庇うようにして座り込んだまま目を閉じる。
そして次の瞬間――
「縛れ!黒翼鳥籠〈シュヴァルツフェーダー〉!」
「な……何なの?」
涼しい声がして、漆黒の羽根がノナの上空から降り注ぎ彼女をその中に閉じ込めていた。
「この術……フィンスさん!」
「……また会ったね、シスターさん。ううんアルヒェさん」
フィンスが姿を現す。漆黒の髪に緋色の瞳。あの事件の一部始終を知りアルヒェを助けてくれた青年だ。
「残念だけどのんびりお話はしてあげられないんだ。アルヒェさん、そしてシュリさん。兄さんたちをこの先の清廉の泉へ……ここは僕が食い止めておくから……早く!」
「わかってる。急ごう!」
シュリとアルヒェはふたりを背中に担いで清廉の泉へと急いだ。
「さて……無事に逃げられたかな?」
フィンスはふたりが無事に逃げたのを見ると術を解いた。
「どう?ノナさん。マナをごっそり抜かれた感想は?」
「な……何なのよあんた。私の邪魔をどうして……」
フィンスは答えず、レイピアを彼女の腕に突き刺した。
「っ!」
「これは兄さんを傷つけた報いだよ。ついでにシュネルさんの毒を吸収した分もおまけしてあげたけど」
「……吸収?どうしてそんなことができるの?あなた一体……」
「さあどうしてでしょう?僕はしがない『月の子ども』だけど?」
フィンスはそう言って笑うと、レイピアを引き抜いた。
「いずれ貴方も狂うでしょう。その時どんなおぞましい化け物になるか楽しみです。いやもう心は狂ってしまってそうだけどね?」
「……覚えてなさい!」
ノナはそう言い残すと姿を消した。
「やれやれ……」
フィンスは心底疲れたように呟くとレイピアの刃先を浄化してから鞘に戻した。
「兄さん達も大変だね。まあそれは僕もあまり変わらないのだけど。……とりあえず今は早く元気になってね、兄さん」
フィンスも黒い羽根を纏って姿を消し、鍾乳洞には再び静寂が戻った。
**
「……これでもう大丈夫よ」
清廉の泉についてすぐに水の瞳――マリアはその姿を現し、事情も聞かずにリヒトとシュネルを浄化し、全員の傷を癒してくれた。今はふたりとも泉の畔で眠っている。
「ありがとうございます。マリアさん」
「気にしなくてもいいのよ。イージスやリートから話は聞いていたわ。貴方達には他の人達とは違う何かを感じるの」
マリアはそう言って微笑む。美しい水色の長い髪が風に揺れた。
「違う……何か?」
「変な意味じゃないの。もし気を悪くしたのならごめんなさい」
マリアはそう言うとシュリに真珠のペンダントを差し出した。
「シュリ様にこれを。強力な浄化の力を持つペンダントです」
「ありがとう。マリアさん」
「もしまたこういうことがあったら使ってくださいね。もしも、そのペンダントで浄化できないことがあれば遠慮なくまたここに来て下さい。リートかイージス、それかフェリットに頼めばここに飛ばしてくれるはずですから」
マリアはそう言って微笑んだ。
「何だかマリアさんって聖女ってイメージを形にしたみたいです。綺麗で優しくて」
マリアはその言葉に照れたように顔を赤くする。
「言い過ぎよ。まあ悪い気はしないけど」
ちょうど会話が一段落したところでふたりは目を覚ました。
「ん……あれ……僕は……」
「……ここはどこ……だ?」
「リヒト、シュネル。目が覚めましたか?」
「はい……えっと……?」
「私はマリア。『水の瞳』です」
「ということは無事に泉に着けたんだな。シュリ、アルヒェありがとな」
「そうか……僕、あの後気を失って……ふたりともありがと」
リヒトとシュネルは服の汚れを払って立ち上がる。
「マリアさんもありがとうございました。僕たちはもう行きます」
「どういたしまして。不穏な影をいくつか感じます。どうか気をつけて……」
リヒト達は一礼をして清廉の泉を後にした。
**
再び鍾乳洞を抜けてリヒト達はオアシスに戻って来た。陽はもう西に傾いている。
「砂漠の夜はめちゃくちゃ冷えるからな。とりあえず俺の村に来いよ」
「わかった」
全員がシュネルの意見に同意したので、四人は陽が沈む前に村に着くことを目指してすぐにオアシスを発った。




