5話 竜とひとの物語 二
ーーかつてこの世界には竜がいた。
今ではもうその事実を知る者も少ない。
この世界に残るのはもはや竜の物語だけだ。
だが、東方アキツのある島には人と暮らす【龍】がいるという。
人を愛したその龍は、聖剣術士の竜狩りには遭わなかった。
彼女は穏やかな暮らしを人の姿で人のように送る。四季を愛で、旬を味わい喜怒哀楽を表して、古く優しい歌を歌うのだ。
「まさかこの世界にまだ龍がいるとは思わなかったわ。あの日にみんな幻竜郷に渡ったとばかり」
東方アキツへ向かう鉱石船の甲板でニミュエは魔術師マーリンとともに潮風に吹かれていた。
「私も本当に驚いたよ。急に幻竜郷に現れたんだからね。でももっと驚いたのはタナトスが目をつけたらしいという事だよ。マトリとクルクには念のため聖剣術士の里の方を調べてもらっているけれど……」
「スカアハ軍には半竜がいるらしいわね。正体は……マトリの存在で察しがつくけれど……どういう竜なの?」
マーリンは少し考えて、
「それがわからないんだよね。属性も攻撃方法も姿さえも謎だ。ただマトリの過去を考えると聖剣術士の里に手がかりが残っている可能性は高い。クルクは半妖精で土地のマナを感知できる。その上、土地の記憶に触れられる可能性もあるから同行してもらった。マトリのストッパーも兼ねてね。彼は真っ直ぐ育っていて年相応の思考力もあるけれど、それでも彼の心は襲撃時で止まっている。それに、聖剣術士の悪行は……実際に見ているからね……」
「……そうね……少なくともマトリ自身に罪はない。あの子にあるのは多分、傷だけ。だけど知らなければ前にも進めない」
ニミュエは静かに頷く。鉱石船は穏やかにアキツへと進んでいく。
**
その頃南洋諸島の小島のひとつ。
どこまでも続く白い砂浜。南洋諸島の白い砂浜は珊瑚の死骸でできていると聞いたことがある。
海に潜るのは好きだった。眠りこける見張りの目を盗んで、何度も潜った。
海だけは、俺を優しく受け入れてくれたから。
身体中傷だらけでも海に入ると不思議と痛みが取れて傷が塞がっていった。
鮮やかな珊瑚と魚たちは目と心を楽しませてくれた。
やがて、逃げ出されたら困ると湖上の城に移されたけれど、南洋諸島の水中は同じように色鮮やかで、やっぱり居心地が良かったんだ。
反対に地上は、島は地獄だった。
太陽も風も波も穏やかなのに、道端に咲く花さえも鮮やかなのに。
「見ろよ。今日の戦利品だ」
俺の目に無理矢理映されるのは、竜の骨。
悲しみや戸惑いや怒りや諦めを纏った同族たちの成れの果て。
ーーこの島は竜と珊瑚の死骸で出来ているとその時に強く思ったのだった。
「……もう戻ってくることはないと思ってた。それに……戻りたくもなかったけど……これも運命なのかな」
「……マトリ。私がそばにいることを忘れないで。シェイルだってきっと見守ってくれてるわ。だから……」
クルクがマトリの服の袖をそっと掴む。
「……うん。大丈夫だけど、調査の前にひとつだけ頼みがあるんだ……海に潜りたい。俺の唯一安らげる場所は青くて鮮やかな世界だけだった。クルクにも見せたい。手を」
「海に潜ったこと、そういえばなかったわ。そもそも泳いだことがないのよ」
不安そうなクルクを不思議な光の泡が優しく包む。
「大丈夫。これで水中でも息ができるよ。俺は生まれた時からずっとそうだったみたいだけど……その頃は自分が人間じゃないなんて思ってなかったな……」
「いきましょう。海藻にも薬草になるものがあるかもしれないし、あなたの見てきた世界を知りたい。これからはふたりで世界を分け合っていくのよ」
手を繋いで飛び込んだ蒼の世界は、変わらずに優しくマトリとクルクを迎えてくれた。色鮮やかな珊瑚と魚たち。
「ああ、この世界はあの頃と変わらない……」
マトリの眼からこぼれた涙はやがてすきとおった結晶に変わる。クルクはそれを大事に受け止めた。
「驚いた。海中だと涙が結晶化して青い鱗が生えるのね」
「……え?尻尾とか角とかはない、よね?いやあってもいいけど……怖くない?」
「大丈夫、肌に鱗が生えてるぐらいで角も尻尾もないし、あったとしてもマトリだもの、怖くなんてないわ。でも、あなたにはやはり【竜】のマナが宿っているのね。海や水と相性がいいのだとすれば、[[rb:水>セレナイカ]]の竜でしょう」
「……だから水中にいると落ち着くのかな……思えばジャーマ火山島にいた時はあんまり調子が良くなかった気がする……フェリットは気づいてたのかな……俺が【半竜】だって」
クルクはスヴァンフフィードが今回の任務について説明した時の言葉を思い返す。
「しかしタナトスが【竜】に目をつけるとは思いませんでした。精霊界においてすら【竜】は御伽噺のようなもの。ミトラ様に使われた竜化毒は例外として、私たちですら生きている竜など見たこともありません。ただ、タナトスは研究者で、フルイドの研究所に関わりがあるから【竜】の知識自体は持ってたはずだ、とディアンが言っていたんです。その上にタナトスは実験体製造管理のスキルがあるから、もしも人間界【ジェンティア】に【竜】の骨とかが残っているのなら気をつけた方がいいって……なのでもしそのような場所があるのならすべての場所に向かい、最終的にはタナトスを討つべきだと」
「……どうかしら。かなりの刻を生きているソアやダインすら竜の話はしていなかったから……扉守たちが竜を知っていたかはわからない。ただ、マトリが人間とは違うマナを持っていることぐらいはわかったでしょうね」
「そうか。そろそろ地上に戻ろう。俺が海や水にゆかりのある竜なら父様もきっと同じはずだ。念のためにスヴァンフフィードさんに情報を共有しておこう」
「ええ。でも、いいの……?スカアハ軍に半竜が本当にいるなら……それは……」
浮かび上がりながらマトリは小さく首を横に振る。
「……そうだね。だけど俺はクルクの……この世界を護る側に立つ【半竜】だ。だから……父様と戦う運命なら……迷わない。戦う前に少し話だけはしたいけどね」
**
地上に戻ったマトリとクルクは島の中央の湖を目指して歩いていく。
聞こえるのは鳥たちの囀りと風と波の音。そこに生活音はない。人の声はない。
やがて湖の畔に遺された廃墟にたどり着いた。
「……聖剣術士の里に着いた。あの日全てが壊されて、今の俺が始まった場所だよ」
呟いたマトリの声は少しだけ震えていた。
「……大丈夫?」
「……建物が今でも燃えているように見えるんだ。目の前には廃墟しかないのに……悲鳴が聞こえる……」
そして世界は反転した。
**
【竜】よ、【妖精】よ。
この島に積み重なってきた【罪】を見せよう。
これはこの土地の記憶である。
この島にまだ生命がなかった頃。
島の湖に一体の竜が舞い降りた。
竜は湖で美しく輝く蒼い宝石を見つけ、それを取り込んだ。
竜は[[rb:水>セレナイカ]]のマナを得た。
その石の名はサフィル。竜は自らをサフィルと定義した。
サフィルから溢れ出た水のマナはやがて恵みの雨となり、島の土から最初の種が芽吹いた。それから何千年も過ぎた頃、ひとりの男が島に流れ着いた。
サフィルは人間というものをこの時に初めて見た。
そして小さく傷だらけで、けれど美しいこの生き物を喪いたくないと思ったのだ。
だからサフィルは、水のマナで傷を癒やし、その男に口移しで血を与えた。
竜の血を得た男は人間から竜に成った。
やがて目を覚ました男は記憶を失っていた。サフィルは彼にルーベウスと名前を与えた。
穏やかな日々が続き、やがてサフィルと男の間には【半竜】の子どもが生まれた。
「お前が我にと摘んできた白い花の名前から、【マトリ】と名付けよう。だが、この名前は真名だ。普段は別の名前で呼ぶように」
サフィルはマナの力と男の力を使い、湖に城を築いた。
湖上の城で彼らは穏やかで幸せな日々を過ごしていた。
ーー島に【竜狩り】が、やってくるまでは。
【竜狩り】はある嵐の夜にこの島に偶然流れ着いた。
その頃、この小さな島の外では【悪竜】たちが暴れ回り、人は【竜】への恨みをひたすらに募らせていた。
だから、彼らが湖上の城にたどり着いただけで悲劇が起こった。
ーーサフィルは剣で心臓を貫かれ、ルーベウスは瀕死の傷を負い湖に突き落とされて、マトリは【竜狩り】に捕えられた。
サフィルは絶命する瞬間に、自らの血に呪いをかけた。
「これより先、竜の血よ、すべてを殺す【毒】となれ……お前たちに報いを……!」
【竜狩り】は骨の髄まで竜を憎んでいた。
だが彼らはある意味ではひどく冷静だった。
だから半竜の子どもを【研究】することにした。
身体構造、耐久性、好きなもの、苦手なもの。
繰り返される実験の中で竜の心は砕け散った。
虚な半竜の心から【真名】を抜き出すのは簡単で、彼らは代わりに偽の記憶を植えつけた。
同じ頃【悪竜】に手をこまねいていた人間は、ある研究所に対策を依頼した。
島にやってきた研究所の職員は湖上の城の地下に機材を持ち込み、ある日ついにその方法を見つけ出した。
「この子どもの、竜の血を加えた武器で竜を狩れる」、と。
人間の逆襲が始まった。
【悪竜】を狩る【竜狩り】は、やがて畏怖を込めて【聖剣術士】と呼ばれるようになった。
やがて【悪竜】が狩り尽くされても、人間の持つ竜への深い怨みは消えなかった。
いつしか彼らの目的は、すべての竜を狩ることに変わった。
ほとんどの人間にとってすべての竜は悪だった。だから誰も止めようとはしなかった。人間は、むしろ竜を狩る彼らを歓迎した。
その頃、湖の底で、ひとりの男が再び目覚めた。
彼はすでに人の姿ではあるがすでに人ではなく、竜となっていた。
竜となった男は地上に戻り、子どもを探した。
その過程で今この島で何が行われているのかと、子どもを待つ運命を知ったのだ。
そして男は迷わずにこの島を焼き尽くした。
男の身に宿ったはずのサフィルの【水】のマナは、島に漂う竜の無念と悲しみ、そして愛しいものと同族を奪い去った者への憤怒で【炎】へのマナに変質した。
赤い鉱石の鱗を持つ竜はこうして生まれ、子どもを連れてこの島を飛び去った。
それからまもなく、事態を重く見た精霊界が動く。
不要な争いを避け、悲劇が二度と起こらないように。
大魔術師は自らを楔として、【幻竜郷】を作り出し、残った【竜】はそこに移住した。
こうしてこの世界から【竜】は去り、いなくなった。
【聖剣術士】が生み出されることもなくなり、争いは終わったのだ。
【半竜】の子よ。汝には人を憎むには十分すぎるほどの理由がある。
人により、心を壊され、家族を奪い去られたお前には復讐する権利がある。
事実、赤い鉱石の竜は世界を壊す側に立った。
これらはただの記憶だ。過ぎ去った過去で、起こった事実。
だが、知らないままで選択を迫るのは不公平だと判断した。
ゆえに【黒の夢守】はこの地に残る記憶を認証型の術式にてここに残す。
ーー白き花の名を持つ竜の子へ。
「……これが……この土地の記憶……俺は……」
全てを見届けたマトリは静かに告げる。
「……クルク。城へ……俺を、湖上の城に連れて行って」
**
朽ちて崩れた石造りの城は静かに湖に浮かんでいた。
「……」
城の居間だった場所に着く。そこにはもう何もない。遮るもののない部屋からは南洋諸島の強い日差しと抜けるような青空が見える。
「……あれ」
部屋の片隅に、青い宝石が無造作に転がっている。
マトリが埃を払うと、本来の青さを取り戻した宝石は青く煌めいた。
「……まさかこれは……サフィル母様の……」
「……ここに来ればいつか会える気がしていた」
「え」
不意に響いた低い声に顔を上げたマトリが見たのは、紅の髪と瞳を持つひとりの男だった。
「貴方……マトリの父親ね?マナが完全に竜だもの」
戦闘体制を取るクルクを、
「ああ。だが、流石にここで戦う気はない。妻の眠る場所、惨劇の舞台だが確かに温もりのあった場所を穢す気もない」
男は静かに制す。
「……父様」
「……土地の記憶を全て見たな」
「……はい。そして海に潜ることで自らが【水】の竜のマナを宿すことも知りました。俺の血が竜を殺したことも」
「お前がどの道を選んでも構わん。お前はそもそも私に似てこうと決めたらもう信念を曲げることはないから、本当は心が決まっていることもわかる。だが、これだけは覚えていて欲しい。確かにお前の血は罪なき竜を殺した。だが、そもそも竜の血に呪いをかけたのはサフィルなんだ。お前は、その罪を背負うな。この島の重すぎる罪を背負おうと思うな。そして人間をーー聖剣術士の里を憎め。お前の心は確かに一度砕けている。お前には……怒りが欠けている」
話を聞いたクルクは静かに頷く。
「そうね。確かにマトリには怒りの感情が欠けている。そばで見てきたからわかるわ。この人は……受け入れることに慣れすぎている」
男はその言葉に応えるように、クルクにだけ聞こえる声で本心を語った。
(【半妖精】の娘よ。私は壊すことしかできない。サフィルとマトリを奪われた日から、憎悪の炎が消えないのだ。だから、スカアハ側に立った。だが、マトリはそうではない。あの子は自分の痛みには無頓着だが、他者の痛みには敏感だ。どのみちもう私は正気を保っているのがやっと。だからこれから東洋アキツのある島に向かい、人と暮らす龍を襲う……どうか私を止めて欲しい)
「……父様?」
考え込んでいたマトリが顔を上げた時、男は消えていた。
「……あいつの行き先は東洋アキツよ。龍を襲うらしいわ。ニミュエたちと合流しましょう」
「わかった。まだ頭の中色々ぐるぐる回ってるけど……切り替えないとな」
「ええ」
マトリは最後にもう一度だけ湖上に浮かぶ城を見て、踵を返す。
ーーさよなら。もうこの島には戻らない。
言われた通りにもう心は決まっている。
ーー今の俺にはやっぱり怒りとか復讐とかはよくわからない。だけど、この剣は、【半竜】の力は、クルクや、この世界を護るために使いたいから。
「……貴方が世界の敵に回るなら、俺は貴方の敵になります……父様」




