11話 残酷な、その真実を。
雨はまだ、弱まることもなく降り続いていた。
少女が立ち去った部屋の中、青年はしっかりとした足取りで大きな姿見の前に立った。
(ちゃんと床の冷たい感触がある。少なくとも僕は幽霊、ではないみたいだけど)
彼はおもむろに身に付けていたシャツのボタンを外し、床に脱ぎ捨てる。そして姿見に背中を向けた。鏡の中に映る背中には、一筋の深い傷痕が刻まれている。
「まいったな。本当に僕は僕のままで生き返ったのか。……目の色だけは緋色に変わってるけど」
それは少女を庇って負った、致命傷。彼の生を奪った理由。普通の剣ではなく、ある特殊な性質を持った剣で傷付けられた故に。
「……」
彼はしばらくそのまま立っていたが、床に脱ぎ捨てたシャツを再び羽織るとベッドに戻り、倒れ込んだ。
「……リアンと出会ったのは雨の日だった。僕が死んだのも雨の日だった。そして生き返るのも雨の日か。僕は雨の精霊にどれほど好かれているのだろうね」
**
3年前。居候させてもらっている薬局の師匠のお使いで、森まで薬草を採りにいった帰り道。天候が急変し、大粒の雨が叩き付けるように降り出した。
「山の天気は変わりやすい、とは聞いていたけど……」
背に薬草かごを背負ったクロワは、泣きそうな声で呟いた。帽子で隠している髪の色は白。瞳の色は青色。中性的で華奢な雰囲気。
「こんなの聞いてないよ……というかこれじゃ村には帰れないよ……」
激しい雨に加え、霧まででてきた状況では村への道どころか少し先も見ることが出来ない。
「とりあえず、雨をしのぐ場所を探さないと。まだ完全に霧に覆われてはいない。今のうちに。」
師匠から言われていたことだった。もしも帰れない状況になったらとりあえずは安全な場所を探せ。少年は樹に目印をつけながら安全な場所を探すために深い森の中を歩き出した。
どれだけ時間が経ったのかはよくわからない。唐突に彼は美しい湖の畔に出た。
「うわあ……」
霧に閉ざされた世界の中に浮かび上がる澄んだ青。そしてその畔に建つ巨大な屋敷。おとぎ話の中に来たみたいだ、と思った。
少し落ち着いたものの、雨はまだ降り続いている。少年は迷いもなく屋敷へと歩いていき、呼び鈴を鳴らした。
「すみません。今晩だけ雨宿りをさせてもらいたいんですけど、誰かいらっしゃいますか?」
「……どうぞ」
声の主の姿は見えなかったが、歓迎するように扉はひとりでに開いた。空腹と疲労で判断能力が鈍っていたクロワは警戒することもなく屋敷の中へと足を踏み入れる。
「おじゃましまーす」
彼が屋敷の中に入ったのと同時に、扉にはひとりでに鍵がかかり、固く閉ざされた。すると、それが合図であるかのように屋敷中のランプに灯がともり、奥から一人の少女が姿を現した。長く伸ばした夜色の髪と紫水晶色の瞳。年齢はクロワと同じぐらい。身長は少し低め。
「……この雨の中、大変でしたね。わたしはリアン・ル・フェ。リアンと呼んで下さい」
リアンはそう微笑むと、応接間のソファに座り、こほ こほ、と咳き込んだ。
「えっと、リアン大丈夫?僕はクロワって言うんだ。ちょうど風邪によく効く薬草を持っているから、台所借りていい?」
「あ、はい……」
リアンが台所を指差すとクロワは薬草かごを床に置き、必要なものだけを持ってぱたぱたと走っていく。しばらくすると彼は薬を溶かされたお湯を持って応接間へ戻って来た。
「はい、どうぞ。」
「あ……ありがとう……」
リアンは白い指をカップへ伸ばすと一口飲んだ。
「あの……クロワさんは……怖くないんですか?わたしの……こと」
「え?どうしてですか?」
クロワはリアンの問いに、きょとんとした顔をする。
「だ、だってこんな霧深い湖の洋館に独りで暮らしてるんですよ?」
「え、独りなら僕もだよ?僕、両親の記憶が無いもの」
「村で……『霧の魔女』の噂を聞いたこととかは?」
クロワはその言葉に、思い出したかのようにぽん、と手を叩く。
「ああ、湖の洋館に住む綺麗な……って……そっか、リアンのことだったんだ」
「……クロワさんって不思議な人ですね。わたしと同じ……精霊の匂いもする」
リアンはそう言うと長い睫毛を伏せた。
「同じって……僕は……月のこどもだけど……君は――」
「……わたしは黒妖精と人の間に生まれた子どもです。だから」
リアンは激しく咳き込むと、薬湯を一口飲んだ。
「……人間の薬は効きません。それにあと3年です。わたしは予知能力があるから……自分の終わりを知っているの」
「……そんな……」
あんまりだ。そう思ってクロワはぽろぽろと涙をこぼす。
「……わたしのために貴方は泣いてくれるのね。……ねえ、ひとつだけお願いをしてもいい?」
リアンは細い腕でクロワにそっと抱きつく。
「……うん」
「わたしに……外の世界を見せて欲しいの。綺麗なものを見てみたい。世界が好きだったって思えるように」
(うん、それが君の──リアンの望みだったよね……だから僕は)
**
彼は視ていた。血塗れで息絶えている銀の鎧を纏った者たち。そして涙を流し続ける夜色の髪の少女と、彼女に抱かれている抜け殻となった自身の姿を。額から、そして背中の傷痕から流れ出す血は止まる気配を見せずに、少女の髪と衣服を染めていく。 雨に閉ざされた暗闇の中で、その色だけがやけに鮮明だった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
まるで取り憑かれたように少女は同じ言葉だけを繰り返す。
「わたしが……願わなければよかった……外に出なければ……どうして貴方なの?わたしは同じ光景を何度も見ていた。そこで終わるのはわたしのはずだったのに」
(違うよ……リアン……どうか自分を責めないで……)
既に抜け殻となった彼の言葉はもう彼女には届かない。
「いや……いやあああ!クロワ……クロワ!ああ、もう神様でも悪魔でもいい……誰でもいいからクロワを助けて!わたしを……わたしのすべてを捧げるから!」
(駄目だよ……そんなこと願っちゃ駄目だ……!)
「やめろおおおっ!」
クロワはそう叫んで飛び起きる。汗で体はぐっしょりと濡れていた。
「……夢……か」
彼は濡れたシャツをその場に脱ぎ捨てる。
「……死んだ筈の僕がこうして生きている。それはつまりリアンの願いが叶ったってことなのか……」
それは嬉しいことのはずなのに。彼女の傍にいることを願って来たはずなのに。この胸騒ぎは何なのだろう?
「……」
雨はまだ激しく降り続いていた。
**
意識の水底。体の感覚はなく、ただ精神だけがくらげのようにゆらゆらとたゆたう世界。
そこに僕はいた。いつからここにいたのかはわからない。
記憶はまだひどくあいまいで、自分の名前さえもようやく思い出したぐらいだ。
……僕はリヒト。そして隣で目を閉じたままの弟は、ゾンネ。今の名前はフィンス。
正直、弟と言われてもまだ実感は湧いていない。
だけど、意識の水底で僕とフィンスは過去を視た。そしてそれが真実だということもわかった。
不意に、気付いた。僕の体が温かい何かに抱かれていることに。
その正体を確かめようとして、僕は静かに瞳を開いた。
「……兄さん?」
「……フィン……ス?」
「……良かった。目が覚めたんだね。やっと」
フィンスはそう言うと緋色の瞳を嬉しそうに細めて、僕をぎゅっと抱きしめる。
「……うん」
伝わってくるぬくもりはとても優しくて、彼が普段纏っている雰囲気とはまるで違っていた。そして思う。きっとこれが本来の彼なのだと。
「……精神体すら目覚めなくて、本当に怖かった。今度こそ兄さんは目覚めないんじゃないかって」
「……ごめんね。もう大丈夫だから」
フィンスの目から涙がこぼれて、その雫が水底へ輝きながら落ちていく。
「じゃあ、帰ろうか。兄さんにも聞こえるよね?この声」
誰かが僕とフィンスを呼び続けている。優しい声で、だけど泣きそうな声でずっと。水底の遥か上、ゆらゆらとさざめく水面の方から。水底まで届く一筋の光に、僕らは手を伸ばす。
「兄さん、僕が導いてあげる。だから手を離さないで。双子はね、初めに生まれた方が弟なんだって。だから生まれたときと同じように」
僕はフィンスの手を強く握った。
「うん、ふたりで帰ろう。在るべき場所へ」
**
「ん……」
「にい……さん……」
雨が降り止み、朝焼けの光に包まれた研究室兼医務室のベッドの上でリヒトとフィンスはその瞳を開いた。
「ここは……?」
「……わからないよ。少なくとも、僕たちのいたジェンティアじゃなさそうだけど……ね」
「おっ、ふたりとも目が覚めたか!」
「あら、本当ですわ。スヴァンフフィードに頼んでシュリ様にお知らせしないと!」
グロアはふたりの様子を見ると、嬉しそうにぱたぱたと駆けていく。
「あなた……たちは?」
「俺はディアン。科学者兼医者だよ。さっき走っていったのは癒しの巫女グロアだな」
「……なるほどね。あなたたちが僕と兄さんを助けてくれたのか。ここは?」
フィンスの問いに、
「ここは、精霊界ソウル・エーム。更に言えばアルスキールの神座ヴァラスキャルヴの医務室兼研究室だ」
ディアンは淡々と答える。
「精霊界?シュリの……故郷」
「そうさ。シュリ様やイージス達が君たちを助けたい一心で世界の壁を飛び越えて来たんだよ」
「……嘘じゃなさそうだね……」
フィンスはそう言うと疲れたように瞼を閉じる。
「君たちは精神世界からようやく現実に戻って来たばかりなんだ。今はおやすみ」
「……はい……」
フィンスに続いてリヒトも寝息を立て始めた。
「……ディアンさま。伝言は済みました。シュリさま達は既にこちらへ向かっているとのことです」
グロアはふたりを起こさないようにいつもより静かな声で告げる。
「そうか」
「私はわからないのです。素直に喜んでいいのか……どうなのか」
俯くグロアの肩をディアンはぽん、と叩く。
「喜んでいいに決まってるだろ。医者が患者の回復を喜ばないでどうする。それに、あいつだって絶対喜んでる筈だぜ」
「そうですね。何よりリヒトさんもフィンスさんも生きることを選んだんです。きっと何が待っていても大丈夫でしょう」
グロアの言葉にディアンは頷く。
「あのバルドルの息子達だ。それにシュリ様たちだっている。絆の力ってものは凄いからね」
「ええ、きっと。だから祈りましょう。彼らの未来に光がありますように」




