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伍の章 淀みなき、悲しき湖

【アキタ県 センボクエリア】に位置する、国内随一の水深を誇る湖――【タザワ湖】

 その起源は諸説あり、隕石衝突説や地盤陥没説、火山の噴火口説などが挙げられている。


 しかし隕石湖にしては湖周囲で『インパクタイト(衝突の高エネルギーで生じたガラス状の破片)』が発見されず、かといって火山口説は地質学の観点から見ても地形的にあり得ないそうだ。

 世界の多くが水没している現代では陥没説も有力とされたが、研究調査の結果、湖の形成は世界水没よりも()()()()と判明。


 結局、現代にいたるまでこの美しい湖が生まれた理由は解っていない。

 どれだけ科学技術や魔術が発展し、地球外文明が入ってきてもなお、この世は解らないことだらけだ。


「――なんと、もの悲しい湖か……」

 リュックから顔を出して焼き魚をむさぼっている筈のトヨが、ぼそっと呟いた。


 しかし俺は今、己の選択を後悔するのに忙しい。

 とてもじゃないが振り返ってまで確認する余裕はない。


 キウリさんのバイト先である土産店はレンタサイクル店も営まれていた為、湖周辺の観光にも便利だろうと思い、俺はマウンテンバイクを一台借りることにした。

 湖の外周は約二〇㎞。


『自転車でも一時間半程度で一周可能』

 との事で、実際、出発して間もなくの所に生える摩訶不思議な形状から観光スポットになっている『ホウライの松』を観察したところまでは問題なかった。


 だが、今更になって痛感する。

 キウリさんの言ったことは、普段から自転車に乗り慣れていて、なおかつ『若さ』という武器が前提。

 旅人から足を洗ってすっかり出不精になり、デスクワークで足腰の衰えたおっさんの脚力にはあまりに厳しい道のりだった。

 湖の北側にある【ゴザノイシ神社】を目指して湖を反時計回りに走行中だが、既に太ももと腰が痛いし重いしだるい。

 緩やかな坂道を延々えっちらおっちら漕ぎながら、金をケチって電動自転車にしなかった四〇分ほど前の自分が実に恨めしい。

 さらに道路の至る所には()()に包まれた立派な栗がゴロゴロと転がっている。

 実がみっちり詰まっていて、普段だったら喜び勇んで拾い集めていただろう。

 だが自転車を漕いでいる今は単なる障害物でしかない。

 うっかり踏むとコケるのは必至、パンクの危険性もあるので避けるのも一苦労だ。

 

「……~ぅあぁッ! の、登り切ったぁ‼」

 坂がようやく終わり、道が平坦になった所で膝がついに限界を迎える。

 自転車から降りて押しながら少し歩くと、湖側に設置された休憩所を発見。一休みすることにした。

ベンチにトヨ入りリュックを乗せて、体をそらせて大きく背伸び。

 自転車のドリンクホルダーに指していたペットボトルのアイスコーヒーを一気に半分ほど飲んで喉を潤した。


 軽く足のストレッチをしながら周囲を見渡す。

 休憩所の傍らには、何故か道路ではなく、湖の方を向いた銅像が立っている。

 通行人や車両の安全を祈るための『道祖神』ではない?


 気になり近づいてみるとずいぶんと古い物らしく、恐らく由来が書かれていたであろう看板はほとんど解読不能。

 所どころ苔むしていて、長らく手入れをされた気配もない。


 つまりココに人はめったに来ないという訳だ。

 これ幸いと、胸ポケットから煙草ケースと携帯灰皿を取り出した。


「あぁ⁈ 旦那サマ、はしたのう御座います!」

「ちょっとだちょっと。灰も吸い殻も残さないし、ちゃんと人がいないタイミング選んだろ?」

「吾輩が居るでは御座いませんか」

「置物はカウントに入らん」

「ぐぬぬ……。そも、キセルの吸い過ぎはお体に障るのですよ! 旦那サマに長生きして頂きたいという愛妻の想いを汲んでくださいまし!」

「ほざけ化け猫。神様だろうが何様だろが、こればっかりは誰にも口答えさせる気はない」

 トヨの忠告を無視して煙草の先に着火。めいっぱい紫煙を吸い込み、一呼吸おいてゆっくり吐きだした。


 青空に昇ってかき消える煙が、何とも風情があるではないか。

 酒も博打もそんなにだが、これだけは止められん。


「――そういえば、さっきなんか言ってなかったか?」

 頭にニコチンが回って来たようだ。

 何度か吸っているうちに疲弊していた思考がスッキリとしてきたので、トヨが言っていたことの真意を問う。

 太陽の光を乱反射させるコバルトブルーの水面を見て『綺麗』とか『美しい』と思うなら解るが、『もの悲しい』とはこれ如何に。


「この湖からは、生命の息吹が感じられないのです。皆無、という訳ではないのですが……」

「というと?」

「普通、湖の水面には目には見えないほど微細な生命がたゆたい、水中には水草が森の如く茂る物です。それを糧とする数多の小虫が(つど)い、虫を狙って小魚が群れを成す。すると小魚を狙う大型魚も寄り集まり、いずれその骸は新たな生命の苗床となる……。つまり『生命の循環』がなされている筈なのです。しかしこの湖には、」


「――命のサイクルが、巡っていない」

 不意にそんな声が聞こえ、俺たちは同時に左を向いた。

 一体いつからそこに居たのか?

 像の前に、ゆったりとした白のブラウスにデニムを履いた女性が佇んでいた。

 その立ち姿は『佳人(かじん)』という言葉がピッタリだ。

 人姿のトヨが『美少女』なら、この女性は『美女』としか言いようがない。

 若干微笑んでいるかのような横顔はなんとも穏やかで、切れ長の目を細めて湖を眺めている。


「ご旅行ですか?」

 女性は湖から目を離さず訊ねてくる。

 俺は「ぁ、はい」と短く返答するが、思わず声が上ずってしまった。

 それというのも、その美しさもさる事ながら、女性の全身から漂うオーラがキラキラとあまりに幻想的で、神様モードのスイッチが入っている時のトヨとは比べ物にならないほど浮世離れしているのだ。

 錯覚なのか、後光がさしているようにも見える。

 何だか煙草を吸う気分ではなくなってしまい、まだ半分以上残っていたが灰皿に突っ込んで喫煙タイムを切り上げた。


「貴方には、この湖が綺麗に見えますか?」

「えぇまぁ……。透明な水で、夏場には泳ぐ人もいるそうじゃないですか」

「……そうですね、淀みなく透きとおった――あまりに透きとおり()()()湖です」

 女性は「失礼します」と言って、像の乗る階段状の台座に腰を下ろした。


「かつての湖は、活気と命に満ち溢れたそれは美しい湖でした。この湖にしか生息しない固有種も多く、周囲にはアキタの内陸部にありながら漁業を生業とする漁村も存在していた程です。しかし、それも今は昔の事……。現在はほとんど、生き物が住んでいません」

「生き物が、いない? こんなにも広い湖なのに?」

「あれを御覧なさい」

 女性は上半身をひねり、左の人差し指で像の後ろ――すなわち道路を挟んだ山側を指さした。


 像から見て斜向かいに大きな門があり、脇には『アキタ県タザワ湖発電所』と書かれた大きな看板が立っている。


「この地域一帯はあちらこちらで温泉が湧き出ています。近代化の過程で発電や農業用水が必要となった国は、湖に温泉を引き入れる事でそれらをまかないました。しかし、温泉の泉質は()()()()。そんな水が絶え間なく流れ込んだ湖がどうなるか、想像に難くないでしょう?」


 彼女の言葉に、どうして湖の水が綺麗なのか合点がいった。

 池や川の水が緑や茶色に色付くのは、そこに有機物(水生のプランクトンや生き物の死骸、排泄物など)が混じっているからだ。

 湖がこんなにも透明なのは、強い酸性にやられて大半の生き物が死に絶えた結果という事。

 恐らくトヨが感じた数少ない生命反応は、強い酸性や劣悪な環境でも生きていられるコイやフナなどだろう。


「魚が取れなくなった漁村は廃れ果て、いまや文書でしかその過去を知るすべはありません。‥その過去を知った上でも、貴方はまだ、この湖が美しいと?」

「………」

 穏やかな口調と雰囲気からもにじむ、苛立ちのような感情。

 俺は何も言えなくなってしまった。


『無知とは罪である』とは古代ギリシャの哲学者の言葉。

 人の思惑によって死んだ――いや、()()()()湖。

 水深どころか、業まで深いとは……。

 真実を知っている地元の人たちからすれば、何も知らない余所者が語る言葉ほど残酷な物はないのだろう。

 以前似たような事でトヨを叱り倒したことがあるが、人の振り見て我が振り直せだった。


「……失礼、旅人の貴方を責めるつりは無いのであしからず」

「あ、いえ、俺も無神経が過ぎました。ちなみに、湖が復活する兆しはあるんですか?」

「何とか水質を再生させようと官民連携して取り組んでいるようですが、西暦の時代から見守っているというのに変化は微々たるものです……。恐らく、向こう一〇〇年でも足りないでしょう」

「壊すのは一瞬でも、直すのは途方もない、か……。――ぅん?」


 申し訳なさと、あまりにサラッと言うのでスルーしかけたが、今この人、変なこと言わなかったか?

『西暦の時代から見守っている』って、この人いくつだよ⁈

 以前読んだギネス記録の本に、三三五歳まで生きたロプスの狐族女性が載っていたのを見たことがある。

 が、言葉通りだとしたら、どう見積もっても桁が一つ違うぞ。


「――恐れながら!」

 不意に、それまで黙っていたトヨが声を上げた。

 何事かと見れば、リュックから弾かれるように飛び出したトヨが女性の足元に滑り込み、地べたにひざまずきながら女性を見上げている。

 他人に対していつも偉そうなトヨが、俺以外にこの様な態度を見せるのは初めてだ。


「よもや貴女様は、観自在(かんじざい)菩薩(ぼさつ)様で相違御座いませぬか?」

「そう言う其方(そなた)は、神霊ですね? それも他の地から来た」

「はい、【辰島】より参りました」

「観自在、菩薩……。え、つまり……観音様⁉」

 別に仏教に詳しくもないし信心深いという訳ではないが、流石に観音様がどういう存在かくらいは解る。

 俺もトヨの隣に慌てて正座。


 神々しい雰囲気の女性だとは思ったが、本当に仏神だったとは。

 トヨの例を考えるに、彼女はこの像――『観音像の化身』という事か?


「豊福招来猫多大明神と申します。隣は、我が夫で御座います」

 また性懲りもなく妻、夫宣言をするトヨ。

 何時もなら速攻ドついて否定しているが、流石に今は自重する。


「我ら訳あってこの地に赴いた故に、龍姫への巡礼に向かっている途中で御座います。よもや観自在菩薩様ともお会いするとは露とも思わず。ご挨拶が遅れた事、平にご容赦くださいませ」

 トヨが深々と頭を下げたので、銅像を見上げていた俺も遅れてそれに習う。

 

 しかし観音様は咎めるどころか「そんなにも畏まらなくて構いませんよ」と謙虚で、俺たちに顔を上げるように促した。


()()()()()()、あくまで湖の命を慰めるために鎮座する存在です。ただ、そうですね……。こうして巡り合ったのも何かの縁。どうかひと時だけ、この湖で消えていった命のために、祈っては頂けますか?」

「是非もございませぬ! さ、旦那サマも!」

「お、おう」

 再び立ち上がった観音様は湖を囲む柵の前に歩み寄り、両手を静かに合わせる。

 俺たちも遅れてその隣に整列して合掌。水音を聞きながら、暫しの黙とうが行われた。


 観音様、神様、そしてただの人間が、並んで拝んでいるさまは、傍から見たらどう見えていただろう……。


「それで、これから『辰子(たつこ)姫』に会うそうですね?」

「タツコヒメ?」

「龍姫の事で御座いますよ」

「あぁ、なるほど」

 正直、トヨ以外の神霊に会うという事にピンと来ていなかったが、観音様に会ったことで図らずも予行演習が出来た。

 いざ件の龍神に会っても、とりあえず恥をかかなくて済みそうだ。


「なら、一つアドバイスです。‥姫の前では、どうか心穏やかに」

「……? えーと、それはどういう?」

「う、うぅ~ん……。あの方は美を追求し、若くして神霊となった身。何を言われても、どうか平常心で」

 コソコソと、観音様は苦笑しながら俺たちにそう教えてくれた。

 観音様が困惑するって、龍神とは一体どんな奴なんだ……。


「臆していては始まりません。さぁ旦那サマ、日が暮れる前に向かいましょう」

「漕ぐのは俺だってのに、気軽に言ってくれる。……それじゃあその、お邪魔しました」

「はい、道中お気をつけて。……あぁ、でもその前に!」

 観音様が突然しゃがみ込み、おもむろに俺の足に触れる。


「――那謨(なも)

 観音様が静かに何かを呟くと、突然俺の足が光り輝いた。

 光は俺が驚く間もなく消えたが、「歩いてみてください」と観音様が言うので歩いてみる。


「お、おぉ?」

 直前までの疲労感が消え、そればかりか、足が凄まじく軽い。


「効果は一時的ですが、これで道中が楽になると思いますよ」

「何かすいません……。特別、信徒でもないのに色々と」

「いえ、貴方たちは湖に手を合わせ、ちゃんと消えた命を憂い、そして再生の未来を祈ってくれました。それで充分です」

 ホント、どこまでも慈悲深い。

 ちょっとしたことですぐ調子に乗る()()()()に、この人(?)の爪の垢を煎じて飲ませてやりたいものだ。


「わ、吾輩も! 吾輩も旦那サマのお体を癒して差し上げま、っぶへぇぇえ!」

 トヨが俺の体に飛び付こうとしたので、俺は素早く身をひるがえして回避。

 トヨはそのまま顔面から地面を滑っていった。


 彼女の突き出していた両手が触れた地面が、綺麗に抉れていた。

 何をしようとしたのか解らないが、触れられなくて正解だな……。

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僅かな反応も、創作家には無限のエネルギー!!

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