3話 遷移状態
夏が徐々に遠ざかり、秋が顔を出す。そんな季節の移り目での2人の他愛もない日常。
目が覚めて最初にするのは、天井にある木目のシミを数えることだ。 一、二、三……。いや、やっぱり四つ。昨日より一つ増えた気がするけれど、私の視力が落ちたのか、あるいは世界が少しずつバグを起こしているのか。
まずい、こんなことを考えていたらまた夢の世界に吸い込まれてしまいそうになる。
朝という名の、世界の強制再起動システム。カーテンの隙間から滑り込んでくる光の粒子は、私の目を刺激するだけで、この気怠い体温を少しも温めてはくれない。
枕元で冷たくなっているスマホの画面を指先で弾く。画面が明るくなり、液晶には時刻とバッテリーの残量が表示されるだけ。Twitterの通知と公式LINEからのメッセージが届いている。私は懐古厨おばさんということを理解しているので、意地でもXとは言わない。
寝ぼけてる間にスヌーズにしてしまったアラームを消していく。
6時50分。これが最初の、いわば世界からの第一警告だ。当然、私はこれを完全に無視する。この段階の私は、まだ人間というよりは布団の一部であり、意識という名の液体は脳の底に沈殿したままだ。無意識下でスマホの電源ボタンを押し、スヌーズに切り替える。
6時52分。わずか120秒後の第二警告。人類が開発したこの『2分間』という時間は、カップ麺を固めに仕上げるのには丁度いいけれど、一人の女子高生を覚醒させるにはあまりにも短すぎる。
あと、カップラーメンを作るなら2分半が私の好み。一体なんの話をしているんだ。
私はまだ夢の残滓を追いかけている最中だ。ここでも意識を放棄し、二度目のスヌーズを叩き込む。
6時55分。三度目の電子音。さっきとは違う音が流れる。ここでようやく、私の脳のOSがノイズ混じりの起動音を鳴らし始める。この5分間で見た夢の内容は、もうどこにも思い出せない。脳内の水槽に溶けて消えた。
そして、6時57分。これが最後の、最も中途半端で、最も容赦のない最終宣告。
この2分刻み、3分刻みの微細な攻防戦に、一体何の意味があるのだろう。最初から6時57分に一度だけ鳴らせばいいではないか、と世の生産性至上主義者たちは言うかもしれない。けれど、私にとってこの『7分間の無駄な抵抗』こそが、現実という名の巨大な歯車に巻き込まれる前の、唯一の防衛線なのだ。
7時4分、母親の声が私の意識を呼び覚ます。私がかけたアラームは全て無意味だった。
大きな伸びをしてから、ふらつく足で洗面台に向かう。目の前に広がる三面鏡が私の姿を反射する。そこには私が映っている。当たり前といえば当たり前だけど、毎日同じものを見るというのも、よく考えれば変な話だ。
鏡に映っている私は、昨日の私と同じ人間なのだろうか。
人生というものは、昨日から今日へ、今日から明日へと続いているからこそ、同じ自分だと思えるのかもしれない。
昨日と今日で、多少なりとも変わっている所はある。例えば、髪が少し伸びたとか、昨日よりちょっとだけ眠いとか。数え始めたらキリがない。
じゃあ、どこまで変わったら別人なんだろう。
髪の毛をバッサリ切ったら?それとも今までの記憶が無くなったら?
何十年も経てば、顔も身体も考え方も変わる。昔の自分と今の自分を突然並べられたら、きっとお互いを他人だと思う。
それでも、毎日少しずつ変わっていく自分を見ている私は、それをずっと「私」と呼び続ける。
変わっているのに、変わっていない。
たぶん人間というものは、その矛盾を一日ずつ積み重ねながら、自分というものを保っているのだろう。
まあ、明日の私が今日の私と同じかなんて、考えたところで確かめようもない。
とりあえず今日のところは、私ということにしておこう。
明日のことは、明日の私に任せればいい。
顔を洗い終えたら嗽をして、ご飯を食べる。着替えを済ませたら、ちょっとだけお化粧をする。なんの面白みもない毎日のルーティン。
そう思いながら、鏡の前で前髪を整える。
右に流して、少し戻して、また右に流す。別に誰かに見せるわけでもないのに、こういうところだけ妙に気になる。
スマホの時計を見る。
「あと五分」
朝というのは、どうしてこうも時間がないのだろう。起きたときにはまだ余裕があると思っていたはずなのに、気づけば出発する時間が迫っている。いや、初めから余裕なんてものはなかったか。
適当に鞄へ教科書を放り込む。昨日のプリントも、飲みかけのペットボトルもそのままだ。
お母さんが作ってくれたお弁当を右手に持ち、玄関に向かう。
「いってきまーす」
「気をつけてねー」
玄関の扉をあける。
あの秋の匂いがした。
どこからともなく、乾いた草みたいな匂いがする。朝露の残った土の匂いとか、どこかの家の庭から流れてくる植物の匂いとか。夏の終わりに取り残された匂い。そして庭に植えられた金木犀の匂い。
「……やっぱり好きだな」
空を見上げると、青い。
雲一つない晴天。遠くで鳥が鳴いている。
ただそれだけ。別に特別なものがあるって訳じゃない。青く広がる空が私を包み込んでいるだけ。
なのに、どうしてか少しセンチメンタルな気分になる。
何かを思い出したわけでもない。寂しいことがあったわけでもない。そもそも、今の私は別に悲しくなんかない。まだ何も終わっていないのに、何かが終わってしまったみたいな気分になる。
胸の奥に小さな穴でも開いたみたいに、何かが抜けていくような感じがする。
夏より静かで、冬より優しい。そんな秋が大好きだ。
この匂いも、少し乾いた風も、雲ひとつない青空も。何より、理由もなくこんな気分になれるところが好きだった。普段なら、何にでも理由をつけたがる私が、それ以上考える気にはならなかった。
乾いた風が吹いている。
空が青い。
秋の匂いがする。
それだけで、朝から少しだけ幸せだった。
自転車に跨る。冷たい。
ペダルに足を乗せ、軽く踏み込む。
キィ、と自転車が鳴った。相変わらずの音だ。
そろそろ油差そうかとか、メンテナンスに出そうかとか、一瞬だけ頭に過ぎったが、却下。
完璧じゃなくても、とりあえず動いていれば気にしない。自転車も、人間関係も、多分同じようなものだ。
私はペダルを深く踏み込む。ゆっくりと自転車が前へ進み始める。
いつもの道
いつもの電柱
いつもの景色
いつもの交差点
いつもの上り坂
いつものコンビニ
昨日も見たし、多分明日も見る。毎日同じ道を通って、同じ学校へ向かう。
それなのに、前とは違う。匂い、風、何より私の気分。あの地獄のような坂ですら苦痛ではなかった。それどころか少し心地良い感覚すらあった。
世界そのものが変わらなくても、自分の方が少し変われば、同じ景色まで別物に見える。
だから、景色が変わったのか、自分が変わったのかなんて、考えても仕方がない。
昨日と同じ道を走っている以上、少なくとも道の方は何も変わっていない。
変わったとすれば、私の方だ。
学校の近くまで来ると、同じ制服の人が増えてきた。自転車置き場へ向かう人、友達と話しながら歩く人、眠そうな顔でスマホを眺めている人。
みんな、それぞれの朝を終えて、同じ場所に集まってくる。
自転車を止めて鍵をかける。昨日と同じ場所。多分、明日も同じ場所。
何も変わらないというのは案外悪くないのかもしれない。
鞄を肩にかけて、校舎へ向かう。見慣れた廊下、見慣れた階段、見慣れた教室。ここまで来てしまえば、もう今日という一日から逃げることはできない。
私は小さく息を吐いた。
今日は、授業全部受けてみるか。ふと、そう思った。
自分でも珍しいことを考えたと思う。どうせ、5限目あたりで後悔するのだろうけど。その時はその時だ。
後悔するのは4時間後の私の仕事だ。
【夜凪と篠宮】3話を読んで頂き、ありがとうごさいます!
もう肌寒い時期ですね。




