2話 晩夏滑走路
少しだけ、涼しくなってきました。そんな2人の夏の続きの話。
正面には大きな夕日が仁王立ちしている。少しロマンチックな雰囲気だ。でもそんなこと風情の無い私にとってはどうでもいい要素。なんなら、眩しくて鬱陶しい。そして何より私は紫外線が気になる。
「あ、コンビニ寄っていい?」
大事な用事を思い出したかのように夜凪が言う。どうせバイトの給料を引き落とすとかだろうけど。
「いいけど、なんか買うの?」
「ふふふ、今日はお給料日なのさ」
やっぱり。予想通りの回答が返ってきた。記述模試なら文句なしの満点だろう。と考えているうちに目的地に着いた。
自動ドアが、私たちの接近を感知して、まるで歓迎していないような無機質な音を立てて左右に開く。
流れ込んできたのは、冷房の効きすぎた空気と、いかにもコンビニといった感じのフランクフルトと揚げ鶏が混ざり合った匂いだ。
「あー、涼しい。ここが私の桃源郷か」
夜凪は自転車のハンドルから解放された手をぶらぶらさせながら、大袈裟に息を吐く。
「大層な桃源郷だね。百円で肉の塊が買える場所が神話の土地なら、現代日本は神様だらけだよ」
「しのみやは相変わらず一言多いなぁ」
夜凪は口を尖らせながら、真っ直ぐATMへと向かう。私はその背中を数歩後ろから眺めるのが、いつの間にか固定位置になりつつあった。
私は夜凪の髪の毛に目をやる。サラサラした髪の毛の中に少しだけ癖毛が混ざっている。って、私は一体何をしてんだ。
そんなものを観察したところで、私の人生の何かが好転するわけでもないし、明日のテストの点数が上がるわけでもない。
それなのに、私の網膜は勝手にその情報を脳の引き出しに仕舞い込んでしまうのだから、人間というのは本当に無駄なスペックばかり搭載している。
機械の電子音がピコピコと、これまた愛想のない音を鳴らし、夜凪が何枚かのお札を手にするのを見届ける。無事に懐が温かくなったらしい夜凪は、くるりとこちらを振り返ると、さっきのしりとりでの大敗を完全に忘れたかのように、何故か得意げに胸を張った。
「よし。じゃあ、しのみやに日頃の感謝を込めて、何か一つ貢いであげよう」
たまには優しいとこもあるのだなあ。ならお言葉に甘えるとしようか。
私が指を指したのは恐らく1番高いであろうカップのアイス。
「う、それはパスでお願いします、」
だろうなとは思った。初めから期待はしていなかったさ。
結局買ったのは、オレンジ炭酸飲料。
外に出て、口にジュースを流し込む。液体に溶け込んだ二酸化炭素が口の中で破裂する。この感覚が最高なんだな。
「生き返るー」
そして、そのジュースを夜凪に渡す。
「あ、ありがとう!」
言葉とは裏腹にどこか落ちつかなさそうな様子だった。夜凪がじっとジュースを見つめる。
「あのー、飲まないんですか」
と、急かすとハッと我に帰り、握られたジュースを1口飲んだ。
「お、美味しい、ありがとう」
夜凪の考えていることはいつも分からない。さっきのしりとりだってそうだ。私は一体、夜凪にどんなやつだと思われているのか。
ただのサボり仲間。あるいは、都合のいい時間潰しの相手。それとも、なんだ。うん、分からん。
それにしてもこれはただの炭酸飲料だ。それを一口、容器を共有して飲んだだけ。高校生にもなって、しかも同性の相手、間接キスを意識するはずがない。
それなのに、夜凪が手の中で大事そうに、あるいは爆発物でも扱うみたいに握っているオレンジ色のボトル見つめている。─────────
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私たちの帰り道には傾斜8パーセントという、それはまるで子供用の滑り台にちょっと魔法をかけて大きくしただけのような下り坂が待ち構えている。
水平方向から観測したら、間違いなく物理のテストで生徒を悩ませるためだけの問題に使えると思う。
大きな坂道と夕日が相まってとても良いロケーションだ。この道を見る度に、1日の終わりを感じる。頑張った自分を褒めようではないか。
私、偉いぞ。
と断ったが、実際のところ、これは「思春期の特権」だとか「思い出の1ページ」だとか、そういったお大層でポエジーな名前を冠するつもりは一切ない。
なにせ、私は昨日も一昨日も同じようにこのボロ自転車のサドルに跨がり、同じようにペダルを漕ぎ、同じようにこの坂の前に立っていた。明日も明後日も、世界が急に滅びでもしない限りはきっと同じことをする。
これはただの、私のひどく退屈で平坦な日常の、ほんの一幕に過ぎないのだ。毎日食べるコンビニのパンの味に、いちいち感動する人間がいないのと同じである。今更ドラマチックな特別感など見出せるはずもなかった。
例の坂は、もう私たちの眼の前。
「あの、篠宮さん。なんですかこの滑り台みたいな坂は」
この感じ、夜凪がこの道に来るのは初めてなのだろう。わざわざ着いてきてくれるほど暇人なのか、それとも私と帰りたいだけなのか。
そんな事よりも、先程から夜凪の口角が妙に引きつっている。あの夜凪がこんな表情をするなんて珍しい。
「まさか怖いの〜?よく授業サボってるくせに?」
夜凪とは対象的に私の口元が、だらしなく緩んでいく。
「怖くねーし。今日の晩ごはん考えてただけ」
一体どんな言い訳だよ、と喉の奥で鳴らす。
この坂では、メンテナンスという言葉とは対極に位置するようなボロ自転車でも、命をかければ簡単に30キロほどの出力は出せる。
今日も坂があり、今日も私がいて、それでも時間の流れというものは、私を待ってくれない。いつもと違うのは、私の隣にニコニコ笑っている女の子がいること。ただ、それだけのことだ。三百六十五日、薄汚れた日常をただ塗り潰していくための、これは私なりのごく凡庸な手立てに過ぎない。
でも、その当たり前が消えた瞬間に、心臓の奥の方にある何かが錆びついてしまいそうになる。
私の体は加速度を帯びながら、眼の前に映る背景がぶれ始める。正面から突風をまともに受けて、あいつの前髪は完全に後ろへと吹き飛んでいた。普段ならおでこが少し見えただけで大騒ぎするくせに、今はそんなことこれっぽっちも気にしていないみたいだ。
どうせギャーギャー言うのだろう、と考えつつ、夜凪の顔を覗いてみると、予想外なことに、怖がっている様子はなかった。それどころか、あいつはなんだかすごく楽しそうに笑っていた。思ったより根性あるじゃん、とか思いながら釣られるように、私もブレーキを握る指の力をふっと抜く。
途端に、重力が私たちの背中をまとめて引っぱった。
ガタガタと鳴る車体も、吹き飛んでいく前髪も、何もかもがどうでもよくなる。ただ、世界のスピードが私たちの都合に合わせてぐんぐんと加速していく。この世界の主役が、まるで私と夜凪だけになったみたいだ。
それにしても、この自転車うるさいな。
ただの坂道を転げ落ちているだけなのに、私たちはまるで、どこまでも飛んでいけそうな無敵の乗り物に乗っている気分だった。
いつもなら、この坂道を行き来することなんて、私の人生において「コンビニのピザまんの底についている紙を剥がす作業」 と同じくらい、どうでもよくて、ほんの少しだけ煩わしい既定路線でしかなかった。学校という名の、あるいは日常という名の、義務のパッケージに含まれる退屈なルーティン。
私の毎日なんて、その辺に転がっている薄いプラスチックの板みたいなもので、熱もなければ色もない、ただそこにあるだけのものだ。
友達、という記号で呼ばれる人間関係についても同じ。私にとってそれは、インクが切れたら文房具屋で新しいものを買い直せばいい、使い捨てのボールペンみたいなものであって、代わりなんていくらでもいるし、いなくなったら別の誰かをその席に座らせればいいだけの話。
なんて、少し捻くれた感性を私は持ち合わせている。
そもそも、人が人を特別に「好き」になる感覚なんて、生まれてこの方、一度だってまともに理解できた試しがない。人間関係なんて、すべてはその場しのぎの、都合のいい距離感でできている。冷たい人間だと言われればそれまでだけど、私という人間はそういう風に切り離されて作られているのだから、今更どうしようもない。
でもどうしてだろう。多分、ここで夜凪を置いて帰ることはできない。こんな論理的な理屈を並べて、自分を保とうとはしてるけど、結局はその場の流れに身を任せているだけ何だと、つくづく思わされる。流れに逆らうということは、今までの自分を否定するということだ。
風の暴力によって前髪を完全に剥ぎ取られ、いつもより三分増しで間抜けな、それでいて冗談みたいに綺麗な額を晒して笑っているあいつを見る。その、世界のすべてを肯定してしまいそうな横顔から、私はどうしても視線を剥ぎ取ることができない。誰かと一緒にいるだけで世界が輝くだなんて、いかにも深夜アニメの観すぎか、さもなければ出来損ないのポップスが垂れ流す安い幻想だ。私はそんな安い奇跡に感化されるほど純粋でもなければ、若くもない。まあ、言っても高校生だけど。
斜面を、ただ落ちていくだけ。そこにロマンチックの欠片も、青春の1ページなんていう大層なラベルも、本来なら存在しない。私が夜凪にとっての特別ではないように、夜凪も私にとっての特別なんかじゃない。いつか教室の席替えをするみたいに、私たちはあっさりと離れて、別の誰かと笑い合う。そういう風にできている。それが普通だ。でも、私の世界の解像度を、夜凪が勝手に書き換えていく。
こちらの都合なんて一秒も考えない、ひどく理不尽で、身勝手な魔法。替えのきくはずのただの他人が、どうしてこんなに眩しいのか。その答えを知りたくもない私は、あのむき出しの額を前に、ただあえなく白旗を上げてしまうのだ。
まぁ、たまにはこういう日があっても、いいのかもしれない。
明日になれば、またいつもの席に戻る。そういうことにしておこう。
それでもまだ、夏はまだ続きます。




