第7話:サントリーホールへの道は、最難関の最適化問題
七月に入ると東京は梅雨の終わりを迎え、本格的に暑くなった。
啓太の家庭教師も三ヶ月目に入り、隆史の成績は安定して上がり続けていた。
物理は八十点台をキープし数学も七十点台の後半で推移している。
志望校の判定も夏前の模試で「可能性あり」が出た。
貴子さんはその結果を見て「白井先生のおかげ」と何度も言った。
啓太は「隆史くんが頑張ってるからです」と返す。
そのやり取りももうすっかり習慣になっていた。
七月最初の火曜日。
授業が終わりリビングで食卓を囲んでいるときだった。
貴子さんがふと思い出したように言った。
「そういえば今週の土曜、有子とクラシックのコンサートに行く予定だったのよ。サントリーホールでね。でも急に用事ができちゃって」
「え、お母さん行けないの」
有子さんが顔を上げた。少し残念そうな声だ。
「ごめんね。どうしても外せなくて。でもチケットは二枚あるのよ。もったいないから誰か誘って行ってきたら」
「誰かって言っても」
有子さんは少し考え込むように小首を傾げた。その横顔を啓太は視界の端で捉えていた。
サントリーホール。クラシックコンサート。
有子さんが一人で行くのか、あるいは友人と。どちらにしても自分には関係のない話だ。
彼は味噌汁を一口飲んだ。
そのとき貴子さんが何気ない調子で言った。
「白井先生を誘ってみたらどうかしら。」
啓太はむせそうになった。味噌汁が喉の奥で引っかかる。
彼は慌てて湯呑みに手を伸ばした。有子さんも明らかに動揺していた。
「お母さん、何言ってるの」
「だって白井先生、クラシックに興味あるって前におっしゃってたじゃない。 前そう言ってたわよね」
「それは、はい、まあ」
啓太は曖昧に頷いた。
確かに貴子さんにそう答えたことはある。
だがそれは食卓の何気ない会話の中で、音楽の話がたまたま出たときに「クラシックも少し」と答えただけだ。
まさかこんな形でそれが使われるとは思わなかった。
「ほら、白井先生だって嫌がってないじゃない。ねえ有子、白井先生誘ってみたら」
「お母さん、白井先生はお忙しいんだから」
有子さんはそう言って貴子さんを制した。
その声は少しだけ早口だった。照れているときの癖だ。
啓太はもう三ヶ月の付き合いで、彼女のそういう細かい変化に気づくようになっていた。
有子さんは湯呑みを両手で包み俯いた。
『有子さんが照れている?。僕への好意か? ただの癖?いいや、貴子さんの突然の提案に対する苦笑いだ。』
『……ダメだ、選択肢が多すぎて波動関数が収束しない。』
『そもそも僕は、なぜ「僕に気があるかも」なんて図々しい仮説を立てているんだ。思考が都合よすぎるだろ。』
ぐるぐると思考が空回りし、啓太は自分の顔がどんどん熱くなっていくのを止められなかった。
「白井先生、今週の土曜、空いてる?」
貴子さんがまっすぐに啓太に尋ねる。
その目はもう『おせっかいは止めないわよ』と言っている。
啓太は一瞬考えた。
土曜日は特に予定はない。研究室の予定もない。サークルの集まりもない。
ただアパートで論文を読んで過ごすだけだ。
だが本当にそれでいいのか。
有子さんと二人でコンサートに行く。それはつまり、二人きりになるということだ。
家庭教師の日とは違う。隆史も貴子さんもいない。自分と有子さんだけ。
その事実を想像しただけで、啓太の心臓は痛いくらいに打ち始めた。
「あ、空いてますけど」
声が少し裏返った。
有子さんが顔を上げて啓太を見た。
その目は驚きと、少しの戸惑いとそしてどこかで期待しているような色が含まれてる気がした。
気のせいかもしれない。だが啓太にはそう見えた。有子さんはすぐに目を逸らした。
「でも、白井先生に悪いよ」
「全然悪くないわよ。ねえ白井先生、有子と行ってあげて。チケットもったいないし」
貴子さんはもう決定事項のように言う。有子さんは何も言わずに湯呑みを置いた。
その指先が少し震えているように見えた。啓太は深呼吸を一つした。そして言った。
「じゃあ、もし有子さんがよければ」
有子さんはしばらく黙っていた。それから小さく頷いた。
「じゃあ、お願いします」
その声はいつもの敬語だった。
でもどこかこれまでより少しだけ近いところから聞こえた気がした。
貴子さんは満足そうに笑って「よかった」と呟いた。
隆史は何が起きているのかよくわかっていない様子でカレーを食べ続けている。
食卓の空気が、ほんの少しだけ違う色を帯びていた。
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啓太が帰ったあとの橘家。
玄関の扉が閉まる音を聞いてから有子は台所へ向かった。
貴子は食器を流しに置きながら鼻歌まじりに片付けている。
有子は腕を組み、母の背中に向かって言った。
「お母さん、あれはないよ」
「何が」
「何がって。白井先生をコンサートに誘うなんて。急すぎるし、迷惑だよ」
貴子は手を止めずに茶椀を水で流している。その背中はどこか楽しげだ。
「迷惑なら断るでしょ。白井先生は空いてるって言ったじゃない」
「それはお母さんが押し切ったからでしょ」
「押し切ってないわよ。ただ背中を押しただけ」
「それ一緒だよ」
有子は椅子を引いて座った。テーブルの上にはまだプリンが残っている。
彼女は自分の分をスプーンですくい、一口食べた。
甘さが口の中に広がる。でもいつもの味ではない気がした。気のせいだろう。
「有子だって断らなかったじゃない」
貴子が振り返って言った。その顔はもう完全に笑っている。
有子はスプーンを持つ手を止めた。
「だってお母さんが」
「お母さんのせいにしないの。有子が本当に嫌なら、あの場で断ってたでしょ。『白井先生に悪いから』なんて言いながら、結局『お願いします』って言ったじゃない」
有子は黙った。反論できなかった。図星だった。
あのとき、断ろうと思えばいくらでも断れた。
母親の提案に乗る必要なんてなかった。でも彼女は乗った。
自分でもなぜだかわからない。
ただ、白井先生が「もし有子さんがよければ」と言ったとき、その声がどこか震えていて。
その震えが妙に胸に残って。断る理由が見つからなかった。
「別に、断る理由もなかったし」
「そういうことにしておくわ」
貴子さんはそう言って最後の皿を水切りかごに置いた。
それからエプロンを外し、有子の向かいに座った。その顔からは笑みが消えていて、代わりに静かな優しさが浮かんでいる。
「有子。楽しんできてね」
その声は先ほどまでのからかうような調子とは違っていた。
まるで本気で娘の幸せを願う母親の声。
有子はスプーンを置いて俯いた。耳が熱い。返事の代わりに、小さく頷いた。
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コンサートの前日、啓太は自分のアパートのクローゼットの前で立ち尽くしていた。
土曜日の午後、窓の外は夏の日差しが照りつけている。
エアコンの効いた六畳間に、彼は開け放ったクローゼットの中身を前に途方に暮れた。
何を着ていけばいいのか。サントリーホール。クラシックコンサート。相手は有子さん。
白樺の英文学科でバイオリンをやっていてロンドンにいたことのある、あの有子さんだ。
検索窓に「サントリーホール クラシック 服装」と打ち込んでみる。いろいろな情報が出てくる。
あまり堅苦しく考えなくていい、と書いてある。
だが、自分の手持ちの服などたかが知れている。
ユニクロのシャツが三枚。古びたジャケットが一着。ジーンズが二本。
それと、卒業式や発表会用に買ってあった黒のスラックスが一本。 それだけだ。
トップス3×アウター1×ボトムス3。総組み合わせ数はわずか9通り。データセットがあまりにも貧弱すぎる。
この有限で貧困な選択肢の中から
『サントリーホールに馴染み、かつ有子さんの隣に並んでも恥ずかしくないコーディネート』
という最適解を導き出さなければならない。難関すぎる多目的最適化問題だ。
彼はジャケットを手に取り、鏡の前に当ててみる。
学生が就活で着るような、紺のリクルートスーツに近い代物。
コンサートには場違いではないかもしれない。ただ、有子さんの隣を歩くにはあまりにみすぼらしい。
結局、一時間以上かけて選んだのは白いシャツに濃紺のジャケット、それから黒のスラックスだった。
シンプルだが清潔感はある。大丈夫か。自分に問いかける。
大丈夫なわけがない。彼は深呼吸を一つした。
有子さんとはもう三ヶ月以上毎週会っている。火曜日の食卓で顔を合わせている。
でもまともに話したことがない。
彼女はいつも敬語で「白井先生」と呼ぶ。啓太も「有子さん」と呼ぶ。
その距離は最初からずっと変わっていない。
食卓で貴子さんが話を振っても、二人はすぐに言葉が途切れる。沈黙が流れる。隆史が何か言って空気が変わる。
その繰り返しだ。まともに話したのは、あの実験のあとのランチのときだけ。それも貴子さんが間にいてくれたから成り立っていた。
明日は違う。二人きりだ。
開演までの時間。休憩時間。終わってからの帰り道。何を話せばいいのか。音楽の話か。
でも啓太はクラシックに詳しくない。有子さんはバイオリンを弾く。彼女のほうがずっと詳しい。
話題を振るなら自分の知っている分野か。
でも量子力学の話をコンサートの前後に展開して、彼女が喜ぶだろうか。
『有子さん、オーケストラのハーモニーって、まさに音波の重なり合い、すなわち波動関数の干渉模様ですよね!』
……死ぬ。確実にキョトンとされる。一瞬で相手の心が絶対零度まで冷却される。 絶対に口にしてはいけない危険禁止ワードだ。
考えても仕方がない。明日になってみればわかる。
彼はそう自分に言い聞かせて、シャワーを浴びた。冷たい水が背中を流れていく。
緊張で火照った体が少しだけ落ち着く。彼は鏡の前で濡れた髪を拭きながら、明日のことを想像した。
橘家まで有子さんを迎えに行く。有子さんが現れる。
どんな服を着ているだろう。髪はどうしているだろう。笑うだろうか。
それとも緊張しているだろうか。彼女も緊張するのだろうか。あの、三日月のような笑顔の裏で。
啓太はベッドに横になり、目を閉じた。眠れる気がしなかった。
時計の針の音がやけに大きく聞こえる。
明日、有子さんに会う。二人で。コンサートに行く。
その事実だけで、彼の心臓は痛いほどに脈打っていた。




