第6話:出し巻き卵は観測者の前で甘くなる
実験室に戻ると篠原さんがまだいた。モニターの前に座り、データを整理している。
啓太が入っていくと、彼は椅子を回してこちらを向いた。その顔には、あの飄々とした笑みが浮かんでいる。
「お、おかえり。どうだった、ランチ」
「ええ、まあ」
篠原さんの視線が少し気になる。
何か言いたそうだ。案の定、彼はキーボードから手を離し、椅子の背にもたれて腕を組んだ。
「で、何か見えた?」
「……何がですか。普通にパスタ食べただけです」
「ふーん」
篠原さんはそれ以上何も追及せず、またキーボードに目を戻した。
だが、その口元にはあからさまな笑みが浮かんでいる。
彼の手元のモニターには、先ほど有子さんが測定していた脳波のデータが表示されていた。
篠原さんはタイピングの手を止め、その波形の一点をじっと凝視している。
「篠原さん、それ……何をそんなにじっと見てるんですか?」
啓太が画面を覗き込もうとすると、くるりと椅子を回転させて啓太の視界を遮った。
白衣のポケットに両手を突っ込み、どこか探るような、試すような視線を啓太に向けてくる。
その口元には、隠しきれない笑みが浮かんでいた。
「ん? データの整理。……いやあ、面白いデータが取れちゃってさ」
「面白いって、研究のデータとしてですか?」
「さあね。対象はさ、ただそこに存在するだけじゃ変わらないんだよ。『観測』が入って初めて、状態が揺らぐ。……物理の基本だろ?」
「……それは、量子レベルのミクロな話 であって」
「人間だって同じだよ。自分が一方的に相手を『観測』してるつもりでいて、実は自分の方が、相手から強く『観測』されてる……なんてことはよくある」
篠原さんはそこまで言うと、楽しそうに目を細めてキーボードへ向き直った。
「まあ、優秀な観測者さん。次の火曜日も、精度の高いデータ期待してるから」
「……火曜日は、ただの家庭教師です」
「知ってるよ」
背中を向けたまま、篠原さんがひらひらと手を振る。啓太は何も言い返せないまま、自分のデスクの前に立ち尽くした。
観測されることで、状態が変わる。
それは量子力学の基本原則だ。
だが、もしも——と、彼はまた頭の中で、無意味な仮説のツリーを伸ばしてしまう。
もしもそれが電子や光子だけでなく、もっと複雑な巨視的システム……たとえば人間同士の間にも適用されるのだとしたら。
誰かが誰かを観測し、その時、相手もまた観測返ししていたとしたら、二人の間の波動関数は一体どのように収束するのだろうか。
――そんな解のない計算に、意味などあるはずもないのに。静まり返った実験室に、ただファンの低い回転音だけが響いていた。
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実験の帰り道。東大前から本駒込まで、南北線に乗る貴子と有子。
土曜の午後の車内はほどよく空いていて、並んで座ることができた。
有子は窓際の席で外を眺めている。貴子はその隣で、ふと口を開いた。
「白井先生って、本当にいい人よね」
有子は窓から視線を戻した。
「うん」
「隆史の話もちゃんと聞いてくれるし、説明も丁寧でしょ。この前なんて隆史が『学校の先生よりわかりやすい』って言うのよ。あの子が先生を褒めるなんて珍しいの」
「そうなんだ」
「それに今日みたいに大学内の案内までしてくれて。忙しいのに」
有子は頷いた。
彼女は母の言葉を聞きながら、今日の白井先生の姿を思い出していた。
正門前で待っていたときの少し緊張した様子。
キャンパスを歩くときの、どこか不器用な案内の仕方。
ランチのとき、自分の趣味を聞かれて正直に「ゆるい集まりなんですけど」と言った声。
そして、ふとあの暗い実験室の感覚が蘇ってくる。
ヘッドギアをあてがう際、ほんの少し髪を引いてしまっただけで、真っ赤になって裏返った声で何度も頭を下げていた横顔。
『あんなに慌てなくてもよかったのに……』
要領が良いわけでも、飾った格好よさがあるわけでもない。けれど、不器用なほど一生懸命だ。その姿がなぜか、心に残る。
実験の最中も、目を閉じていると、すぐ近くに白井先生がいる気配だけがはっきりと分かった。
不思議な感覚だった。
でも嫌ではなかった。むしろ——もう少しだけ、その気配を感じていたいと思ってしまった。
「それにね」
その声に有子がハッとする。
貴子は声を少し潛めた。まるで秘密を打ち明けるように。
「白井先生、お父さんと同じサークルでしょ。それだけでなんだか応援したくなっちゃう」
有子は小さく笑った。
「お母さん、それだけでしょ」
有子は母の横顔を見た。貴子は窓の外を眺めている。その口元は緩んでいた。
有子は何も言わずにまた窓のほうへ視線を戻した。
電車が本駒込に近づく。有子は窓の外の景色を見ながら、火曜日のことを考えていた。
あと三日。白井先生がまた家に来る。いつものように隆史に物理を教えて、それから四人でご飯を食べる。
その当たり前だったはずの火曜日が、今日は少しだけ違って思えた。
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火曜日が来た。
啓太はいつものように講義を終えるとアパートに戻りシャワーを浴びた。鏡の前で三度深呼吸をする。
だが今日はいつもより心臓の音が大きい。土曜日のことが頭から離れない。
有子さんのうなじ。白いリネン。まっすぐに見つめられたあの数秒。
彼はメガネをかけ直し、家を出た。本駒込までの道のりはもうすっかり覚えてしまった。
曲がり角の公園。柿の木。黒い門。そのすべてが、彼の一週間のリズムになっている。
インターホンを押すと、いつもより早く扉が開いた。貴子さんが立っている。
「白井先生、こんばんは」
その声もどこか弾んでいる。貴子さんは啓太をまっすぐに見て、にっこりと笑った。
啓太は一瞬たじろいだ。
「こんばんは。よろしくお願いします」
「どうぞ、上がって」
部屋へ通されると隆史がもう机の前に座っていた。今日は自分から進んで準備をしている。
啓太は少し嬉しくなって、いつものように隣に座った。
授業は順調に進んだ。前回の続きの力学。応用問題。隆史は相変わらず質問が多く、そして的確だ。
啓太は説明しながらも時折台所のほうから聞こえる音に意識を持っていかれた。包丁の音。鍋のふたが触れ合う音。有子さんの声。何か話している。貴子さんと二人で。
「先生、今日の問題、前より早く解けました」
隆史が言う。啓太は我に返った。
「うん、すごくよくなってる。この調子なら早稲田も十分狙えるよ」
「本当ですか」
「本当。このまま続けよう」
隆史は嬉しそうに頷いた。その笑顔を見ていると、啓太の胸の内側が温かくなる。
教え甲斐がある。この子は伸びる。自分が関われている。それが素直に嬉しい。
授業が終わり、リビングに移動する。
貴子さんが来て「今日は少し凝ってみたの」と言った。
ダイニングテーブルに並んだ料理は、確かにいつもより手が込んでいた。
鶏肉の照り焼き。出し巻き卵。ほうれん草のおひたし。かぼちゃの煮物。
そしてお椀からは、湯気とともに鰤のあらの味噌汁の香りが立ち上っている。
それから、白いご飯。炊きたての艶が蛍光灯の下で光っている。
四人分の食器がきちんと並べられている。箸置きまで揃っている。
これはいつもの火曜日の食卓ではない。明らかに気合が入っている。
「すごいですね」
啓太は思わず言った。貴子さんは嬉しそうに笑う。
「そう? 今日は有子が手伝ってくれたのよ」
「え」
啓太は台所のほうを見た。
有子さんがちょうど最後の皿を持って現れた。
薄いグレーのニットに、デニムのスカート。髪はゆるくまとめられている。エプロンをつけていない。もう外したのだろう。
彼女は皿をテーブルに置くと、少し照れたように啓太を見た。
「手伝ったっていうか、お母さんに言われて切っただけ」
「そんなことないわよ。有子、料理上手なのよ。この出し巻きも有子が焼いたの」
「お母さん」
有子さんが少し咎めるように言う。その声に照れが混じっている。
啓太は出し巻きを見た。綺麗な黄色。均一に巻かれている。素人には見えない出来栄えだ。
彼は箸を取って一口食べた。だしの味が口の中に広がる。ふわふわで、少し甘い。美味しい。本当に美味しい。
「これ、有子さんが」
「はい。でもお母さんのほうが上手なので」
「そんなことないわよ。有子は本当に家庭的で助かるわ。料理もそうだし、掃除も洗濯もちゃんとするし。ねえ白井先生、最近の子って全然できない子多いでしょ。でも有子は違うのよ」
貴子さんはそう言ってにこにこと啓太を見る。
その目はもう完全に「有子をアピールしている」目だ。
啓太は箸を持つ手が少し汗ばむのを感じた。
「お母さん、やめてよ」
有子さんが言う。その頬は少し赤い。
彼女は湯呑みに手を伸ばし、一口飲んでから、ちらりと啓太を見た。
その目は少し困ったように笑っている。
でも嫌がってはいない。むしろ、母親の言葉を否定しながらもどこかでそれを気にしてくれている。そんなふうに見えた。
啓太は箸で出し巻きをもう一口食べた。
有子さんが焼いた卵。彼女の手が加わった料理。それが喉を通っていく。
温かい。美味しい。
それから彼は味噌汁を飲んだ。鰤のあらの出汁がよく出ている。ほっとする味。
この食卓のすべてが、誰かの手で作られている。貴子さんの手と有子さんの手。
その二人の手が、今自分をここに座らせている。その事実が啓太の胸の奥を静かに満たしていく。
その日の食卓はいつもよりずっと賑やかだった。
貴子さんが次々と料理を勧め、隆史がテストの話をし有子さんが時折それに相槌を打つ。
だがその中で、有子さんが啓太に話しかけるときは決まって敬語だった。
「白井先生、お味噌汁おかわりいりますか」
「あ、はい。ありがとうございます」
有子さんは一度席を立ち、台所で鍋からお玉で味噌汁をすくい、啓太の椀に丁寧に注ぐ。
その手つきは丁寧で、こぼさないように慎重だ。
彼女は『白井先生』と啓太を呼ぶ。出会った最初の日からずっとそうだ。啓太もまた『有子さん』と呼ぶ。お互いに一線を引いている。
その距離が心地よいようでもあり、もどかしくもあった。
「白井先生、うちの有子、料理だけじゃなくてねバイオリンも本当に上手なのよ。小学校から続けてて、大学でもサークルで弾いてるの」
「お母さん、それはもういいでしょ」
「いいじゃない。白井先生に知ってもらったほうが。今度聴かせてもらったら? 有子のバイオリン」
啓太は顔を上げた。
有子さんは明らかに照れていて、湯呑みを両手で包み俯いている。その耳が赤い。
彼女は「そんな、まだ練習中だし」と小声で言う。
貴子さんはそんな娘の反応を楽しむように、さらに言葉を重ねる。
「白井先生は音楽、聴くの好き?」
「あ、はい。クラシックも少し」
「よかったわね有子。白井先生クラシック聴くって」
「お母さん、もう」
有子さんが顔を上げて貴子さんを軽く睨む。その仕草もどこか可愛らしい。
啓太は箸を置いて、湯呑みを手に取った。僕の顔も少し熱い。
貴子さんは、一体どういうつもりなのだろう。まさか僕と有子さんをどうこうしようとしているわけでもあるまいし。
単にからかって楽しんでいるだけなのだろうか。
それとも、僕が何か勘違いしているだけなのだろうか。
『自意識過剰だ』と心の中で自分に言い聞かせる。
ただの雑音データを、自分の都合の良いように解釈してモデルを構築してしまう——典型的な過剰適合だ。
たかが息子の家庭教師にすぎない僕に対して、貴子さんがそんな特別な意図を持つはずがない。
そう思い込もうとすればするほど、湯呑みを持つ指先に余計な力が入ってしまうのだった。
しかし、どれほど貴子さんがお膳立てをしようと、当の二人の関係が急展開するわけではない。二人の間には見えない壁がある。
有子さんは僕に敬語を崩さない。
僕も有子さんを前にすると、どうしても言葉が少なくなる。目を合わせるのもままならない。
貴子さんはその様子を見て、少しだけ焦れたようにため息をついた。
でもすぐに笑顔に戻る。まだ始まったばかりだものね、とでも言うように。
「白井先生、デザートにプリンがあるんだけど食べる?」
「あ、はい。いただきます」
「有子が作ったのよ」
「お母さん、それは言わなくていいの」
有子さんがむっとして言う。その顔はもうすっかり赤い。
啓太はその赤い横顔を見て、自分の顔もまた熱くなっているのを感じた。
有子さんの作ったプリン。彼女の手が加わった甘いもの。それが食卓に出る。
貴子さんの策略は明らかだ。
でも、その策略に乗せられてもいいと僕は思ってしまった。有子さんの作ったものを食べられるなら。
啓太はプリンを受け取った。小さな器に、カラメルがかかっている。
スプーンですくって一口。なめらかで、ほんのりとバニラの香りがした。美味しい。
啓太は顔を上げて、有子さんに言った。
「美味しいです。有子さん、料理上手なんですね」
有子は少し驚いたように啓太を見て、それから小さく笑った。
「ありがとうございます。でもまだまだです」
敬語。先生。でもその声は、ほんの少しだけ柔らかかった。




