第5話:カルボナーラと、ふたつの「いない」
実験は1時間ほどで終了した。
三人は篠原さんとともにエレベーターで一階に降りた。ロビーを抜けて外に出ると、五月の日差しがまぶしい。銀杏の緑が風に揺れ、葉の隙間から光の粒がこぼれ落ちる。
篠原さんは「本当に助かりました」と何度も頭を下げ、実験室へと戻っていった。
啓太はその背中を見送り、それから二人に向き直った。
「お疲れさまでした。あの、謝礼は」
「さっきいただいたわ。思ったより多くてびっくりした」
貴子さんはそう言って、小さな封筒を手提げの中にしまった。有子さんも「私も」と頷く。
それから貴子さんは少し考え込むように首を傾げた。
「ねえ、白井先生。せっかく来たんだからこのお礼に三人でランチでもどうかしら。謝礼いただいたばかりだし」
「え」
啓太は一瞬、言葉に詰まった。有子さんと貴子さんと、三人で食事。それは家庭教師の日の食卓とは違う。
あの食卓には隆史がいる。家庭教師として招かれているという安心感があった。
だが今日は違う。自分が案内役で、この二人が客で。その違いがなぜか妙に意識される。
「いいんですか、でも、今日は僕の先輩の研究に協力していただいたのに」
「もちろん。むしろこっちがお礼したいくらいよ。色々案内とか付き合ってもらったんだから」
貴子さんの言葉には有無を言わせない温かさがあった。
「じゃあ、学内にイタリアンの店があるんで。そこなら歩いてすぐです」
「学内にレストランがあるの」
「はい。ちょっと高いですけど、落ち着いて食べられます」
啓太は先に立って歩き出した。安田講堂の前を横切り、銀杏並木に沿って赤門のほうへ向かう。
土曜の昼前、キャンパスはまだそれほど混んでいない。部活の学生が何人か自転車で通り過ぎていく。
貴子さんは周囲を見回しながら「本当に広いのね」と何度も言った。
有子さんは啓太の少し後ろを歩いている。その足音が聞こえる。ヒールの音ではない。柔らかいスニーカーの音。
啓太はその音を聞きながら、なるべく自然に歩くように心がけた。
「向かっているのは赤門の近くにあるレストランです。学内なんですけど、すごく落ち着いていて」
「学内にそんなところがあるの?」
「ええ、普段の学食とは少し違って、ちゃんとしたお料理が食べられるんです」
赤門の脇に建つモダンな建物の前に着くと、貴子さんは「まあ、素敵」と声を漏らした。
ガラス張りの洗練された外観は、大学の施設というよりどこかのホテルのような佇まいを見せている。
自動ドアをくぐると、店内には穏やかな光が満ちていて、ほのかに香ばしい洋食の香りが漂っていた。
土曜の昼前だというのに、店内はすでに落ち着いた大人の客で半分ほど埋まっている。教授風の年配客や、近所から来たらしい上品な家族連れ。
「こちらへどうぞ」
案内された奥のテーブル席へ向かいながら、啓太は内心で小さく息を吐いた。
家庭教師の日の食卓とは違う、どこか特別で洗練された空間。その雰囲気が、二人の存在をいつも以上に際立たせている気がした。
「あそこ、空いてますね」
「じゃあそこにしましょう」
三人は席に着いた。啓太がメニューを手に取り、二人に渡す。
貴子さんは「いろいろあるのね。美味しそう」とメニューに目を輝かせた。
有子さんは「私はカルボナーラにしようかな」と呟く。その声がすぐ隣から聞こえる。
彼女は啓太の左側に座っている。貴子さんは向かい側。この配置が偶然なのか意図的なのか、啓太にはわからなかった。
だが左隣から感じる気配が、彼の集中を妨げる。有子さんはメニューを見つめている。その横顔を、啓太は見ないようにした。
「白井先生は何にする」
貴子さんが尋ねる。
「あ、じゃあ僕もカルボナーラに」
「あ、一緒ですね。」
有子さんが顔を上げて笑った。啓太はメニューで口元を隠すようにしながら、小さく頷いた。
心臓が痛い。でもこの痛みは、以前とは少し違う。悪いものではないと彼はもう知っている。
カルボナーラが運ばれてきた。湯気の向こうに濃い黄色のソース。黒胡椒が粗く挽かれている。
啓太はフォークを取り、一口運んだ。クリーミーで少し塩気が強い。悪くない。
有子さんも同じものを口に運んでいる。その横顔を、彼は見ないようにしながら食べ進めた。
「白井先生って、彼女いるの」
貴子さんが不意に尋ねた。あまりに突然で、啓太はフォークを持つ手が止まった。
麺が一本、皿に落ちる。彼は顔を上げる。貴子さんはワイングラスを傾けながら、ごく自然な顔でこちらを見ている。まるで天気の話でもするように。
「え」
「だから、彼女。いるの」
「い、いないです」
声が裏返った。自分でもわかるほどに。
啓太は慌てて水を一口飲んだ。炭酸の刺激が喉を通っていく。恥ずかしさが遅れてやってくる。顔が熱い。
有子さんはどう思っているだろう。彼は隣を見られなかった。
フォークを置き、ナプキンで口元を拭うふりをする。その数秒がやけに長い。
「そうなんだ」
貴子さんは少し驚いたように言った。それから軽く首を傾げて、まじまじと啓太を見る。その視線がくすぐったい。
「白井先生、かっこいいのにもったいない」
「そんなことないです」
啓太は即座に否定した。
それは本心だった。自分がかっこいいなんて一度も思ったことがない。
鏡を見るたびに、どこか締まらない輪郭頼りない目つき、そういうものばかりが目につく。
誰かに「かっこいい」と言われたことなど、生まれてこの方一度もない。
だから貴子さんの言葉は、あまりに遠いところから降ってきたように感じられた。
彼はうつむいて、フォークで麺をくるんだ。
「そんなこと言われたことないです」
「あら、そうなの」
貴子さんはそう言って、ふと隣の娘のほうを見た。ワイングラスを置き、軽い調子で言う。
「ねえ?」
その一言が、啓太の心臓を止めた。
ねえ。貴子さんは有子さんに同意を求めた。有子さんのほうを見ている。
啓太は固まった。フォークを持つ手に力が入る。麺がフォークの隙間からするりと落ちていく。
有子さんはどう答えるだろう。啓太は彼女のほうを見られない。
ただ、隣から聞こえる小さな気配だけを感じている。水を飲む音。グラスがテーブルに戻る音。それから、少し間があって。
「うん」
有子さんの声が聞こえた。短い、一言。だがその一言が啓太の耳の奥にずっと残った。
彼女は同意した。貴子さんの言葉に。それが本心なのか、母に合わせただけなのか啓太にはわからない。
でもわからないまま、彼の心臓は痛いくらいに打っている。顔がさらに熱くなる。彼は水をもう一口飲んだ。冷たい。でも熱は引かない。
「ほら、有子もそう言ってる」
貴子さんは満足そうに笑った。
啓太はようやく顔を上げた。有子さんのほうを見る勇気はまだない。
だが視界の端に彼女の横顔が入る。
彼女はフォークでカルボナーラをくるんでいる。その頬が、ほんの少しだけ赤いように見えた。気のせいかもしれない。
でも啓太にはそう見えた。彼はもう一度フォークを取った。麺を口に運ぶ。味はもうよくわからなかった。
貴子さんはワイングラスを傾けながら、まるで天気の話の続きでもするようにあっさりと言った。
「有子もいないのよね。この子、小学校からずっと女子校だから。ほんと奥手で困っちゃう」
啓太は完全に固まった。
フォークを持つ手が止まり、麺がまた一本皿の上に落ちる。
今、なんと言った。有子さんに、彼氏がいない。この人が。
この、左目尻にほくろがあって笑うと三日月のように目が弧を描いて、ロンドンにいてバイオリンを弾いて、肉じゃがを作って白いリネンのシャツが朝の光に透けていた、この人が。
彼氏がいない。その事実が頭の中でゆっくりと、しかし確実に広がっていく。
まるで水に落としたインク分子が、熱運動で静かに拡散していくように。 脳内の全ニューロンがその情報だけで満たされていく。
「お母さん」
有子さんの声がした。
少し咎めるような、でも照れ隠しのような響き。
啓太は隣の気配がわずかに動くのを感じた。
有子さんが姿勢を変えたのだろう。水を飲む音。グラスがテーブルに置かれる音。
啓太はまだ動けない。フォークを持ったまま、皿の上の麺を見つめている。
頭の中では貴子さんの言葉が繰り返し反響している。
『有子もいないのよね。小学校からずっと女子校。奥手で』
奥手。つまり彼女は、自分と同じような人間なのか。誰かと付き合ったことがなくて、もしかしたら自分と同じように、誰かを前にすると緊張するのだろうか。
……いや、そんな都合のいい『仮説』を検証なしに受け入れるわけにはいかない。彼女の容姿と魅力を考えれば、交際経験ゼロなんて統計学的な異常値だ。
でも、彼氏がいないというのは事実なのか。
「あ、ごめんなさい。余計なこと言っちゃったわね」
貴子さんが軽く笑った。
その声で啓太はようやく我に返った。
彼は慌ててフォークを動かし、麺を口に運ぶ。味はまったくわからなかった。ただ咀嚼して飲み込む。喉を通っていく感覚だけがある。
「いえ、あの、その」
何か言わなければ。だが何を言えばいいのかわからない。
啓太は水を一口飲んだ。冷たい。でも顔の熱は引かない。
有子さんのほうを見る勇気はまだない。
だが視界の端で、彼女がうつむいているのがわかる。その耳が、ほんのり赤い。
気のせいではない。彼女は照れている。母親にこんなことを言われて。
啓太は自分の心臓がうるさいほどに打っているのを感じた。
彼女には誰もいない。自分にも、いない。その事実が、二人の間に静かに横たわる。
『いや、落ち着け。なに勝手に舞い上がっているんだ。 彼女が照れているのは、単に母親にプライベートを暴露されたからに決まっている。それを「自分への意識」なんて都合よく置き換えるのは、典型的な自意識過剰だ。』
そう自分に言い聞かせる。
でも何かが変わった。確かに変わった。食卓の空気が、ほんの少しだけ違う色を帯びた気がする。
彼はもう一口、カルボナーラを食べた。今度は少しだけ味がした。
貴子さんはワインを一口含んでから今度は啓太のほうに体を向けた。
その姿勢の変え方が自然で、まるで長い付き合いの友人に話しかけるようだった。
「白井先生は普段、何してるの。研究以外で」
「ええと」
啓太はフォークを置いた。自分の趣味を人に話すことなどほとんどない。聞かれたこともない。
彼は少し考えて、それから正直に答えることにした。
「サークルに入ってて。洋書を読んだり海外のゲームをやったりするだけの、ゆるい集まりなんですけど」
啓太の「洋書」とという言葉に、うつむいていた有子さんの肩が、ぴくっと小さく跳ねた。
「洋書。すごいわね」
「いえ、みんなで邦訳本を読むだけなので。」
「有子も英文学科なのよ。ねえ、有子」
貴子さんが話を振る。有子さんは少し顔を上げた。まだ耳の赤みが残っている。
彼女は水を一口飲んでから、小さく頷いた。
「うん。でも私、英語は読むだけで話せないから」
「ロンドンにいたのにねえ」
「いたから余計に。向こうでは日本語ばっかりだったし」
有子さんはそう言って軽く笑った。その笑い方に、少し自嘲のようなものが混じっている。
啓太は思わず口を開いた。
「読むだけでも、すごいと思います。僕は専門書ばっかりで」
言ってから、余計なことを言ったかもしれないと思った。
だが有子さんは少し驚いたように啓太を見て、それからふっと表情を緩めた。
「専門書、読めるほうがすごいです。」
「いや、読んでるだけで理解してるかは」
言った瞬間、啓太はハッとした。どこかで聞き覚えのある言い回しだった。
有子さんが目を見開き、それから吹き出すように笑った。
「それ、私が最初に言ったやつです」
「え」
「シェイクスピアのとき。私、全く同じこと言いました」
「あ……」
有子さんが笑った。啓太もつられて笑った。
ほんの一瞬だけ、二人の間に同じ言葉が流れた。それが妙に嬉しかった。
彼はまたフォークを取った。カルボナーラはもう半分ほどになっていた。味が少しだけ戻ってきた。
貴子さんはその様子を静かに見ながら、満足そうにワイングラスを傾けていた。
彼女は何も言わなかった。ただ、笑っていた。
その笑顔は何かを見守る母親のそれではなく、自分だけが知っている秘密を、密かに愉しむような笑顔だった。
「デザートも頼んじゃおうか」
貴子さんがメニューを開いた。その声で空気がまた軽くなる。
有子さんが「ティラミスある」と指をさす。啓太は「じゃあ僕もそれにします」と言った。
三人で同じデザートを頼む。それだけのことなのに、なぜか妙に嬉しかった。
三人はレストランを出て、来た道を戻った。
昼を過ぎたキャンパスは朝より人が増えている。部活帰りの学生。観光客。自転車の列。
銀杏並木の緑が風にざわめく。
貴子さんは満足そうな顔で歩きながら「美味しかったわね。お付き合いありがとう」と言った。
有子さんは啓太の少し後ろを歩いている。その足音が、行きよりもずっと近く感じられた。
正門の前に着くと貴子さんが振り返った。
「白井先生、今日は本当にありがとう。実験もランチも楽しかったわ」
「こちらこそ、ありがとうございました」
「また火曜日にね。隆史も待ってるから」
「はい。よろしくお伝えください」
有子さんは啓太の前に立った。
午後の光が彼女の横顔に当たって、左目尻のほくろが小さく影を作っている。
彼女は少しだけ迷うように唇を開き、それから小さく笑った。
「また火曜日に」
「はい」
たったそれだけの言葉なのに、啓太は頷くのが精一杯だった。
有子さんは貴子さんと並んで歩き出した。正門を出て、本郷通りへ。その背中を啓太は見送った。
白いリネンのシャツが遠ざかっていく。髪をまとめたうなじ。淡いベージュのスカート。
彼女が角を曲がって見えなくなるまで、啓太はその場を動かなかった。




