第4話:脳波(データ)は嘘をついてくれない
次の土曜日の朝。啓太は東大の正門前に立っていた。
五月の空は高く、銀杏の緑が風に揺れている。
普段は講義に追われる平日と違い、土曜のキャンパスはどこか静かで観光客らしい人影がぽつぽつと写真を撮っている。
啓太は時計を見た。約束の十分前。彼は自分の指先が少し冷たくなっているのに気づいた。
緊張している。母親とその娘を案内するだけの、ただの実験協力。それなのに心臓の音がやけに大きい。
「白井先生ーー」
聞き覚えのある声がした。啓太は顔を上げた。正門の向こうから手を振りながら歩いてくる貴子さんと有子さん。
その姿を見た瞬間、啓太は息を呑んだ。
貴子さんはいつもの家庭的などこか柔らかな雰囲気のまま、淡い水色のブラウスに白いパンツという涼しげないでたちだった。
問題は有子さんのほうだ。家で会うときはいつもラフな部屋着か、せいぜいニットにスカートという格好だった。
それが今日は、白いリネンのシャツに淡いベージュのロングスカート。髪はいつもの外巻きではなく、ゆるく一つにまとめられてうなじがすっきりと覗いている。
耳元で小さなパールのピアスが朝の光を反射した。なのに、足元だけは真っ白なスニーカーだった。 歩くたびにスカートの裾がふわりと揺れて、そのシルエットが妙に目に残る。
有子さんは啓太に気づくと、にこりと笑って小さくお辞儀した。
その笑顔は家で見るものと同じはずなのに、外の光の下だとまるで違って見える。
朝の空気。銀杏の緑。石畳。そのすべてが彼女の背景になって、一枚の絵のように啓太の視界に焼きつく。
彼は一歩踏み出そうとして、足がもつれそうになった。慌てて重心を戻す。心臓が痛い。呼吸が浅い。彼女は、こんなに綺麗だったのか。
「おはようございます。わざわざ来ていただいてすみません」
啓太はようやくそれだけ言った。声は少し掠れていた。貴子さんは「こちらこそ」と笑う。有子さんはにっこり笑った。
三人は正門をくぐり、銀杏並木を歩き始めた。
土曜の朝のキャンパスはいつもより人が少ない。それでもあちこちで写真を撮る観光客や、部活の朝練に向かう学生の姿がある。
貴子さんは周囲を見回しながら、子供のように目を輝かせていた。
「東大って、こんなに広いのね。テレビでしか見たことなかったから」
「そうですね。慣れるまで迷いますよ」
「白井先生も最初は迷ったの」
「はい。安田講堂の地下に食堂があるって知らなくて、一週間くらいあの周りをぐるぐる回ってました」
貴子さんは声を出して笑った。有子さんもくすくす笑う。その笑い声が並木の間に溶けていく。
啓太は少しだけ肩の力が抜けた。
「お母さん、東大は初めてなの?」
「うん。」
「そうなんですか。ご主人と来られたりは?」
啓太は何気なく尋ねた。貴子さんは首を横に振る。
「主人と出会ったのはね、お互い社会人になってからなの。だから学生の頃の話はあんまり知らないのよ。」
「へえ」
「そうなんだ。お父さんもお母さんも学生の頃は別々だったんだ」
有子さんがそう言って、少し遠くを見るように歩く。その横顔を啓太は視界の端で捉えた。
朝の光が彼女の頬に当たって、ほんのりと赤く透けている。彼は視線を前に戻した。危ない。見すぎると。
安田講堂の前に着いた。赤茶けた煉瓦の建物が青空の下にどっしりと立っている。時計塔の針が十時を指していた。
「わあ」
貴子さんが立ち止まった。
「これが安田講堂。写真で見たことある」
「記念に撮りましょうか」
啓太が言うと、貴子さんは嬉しそうに頷いた。有子さんがスマートフォンを取り出す。
「お母さん、そこに立って。」
「有子も一緒に。」
貴子さんは有子さんの腕を引いて安田講堂の前に並んだ。有子さんは少し照れながら、それでも素直に母親の隣に立つ。
二人並ぶと、よく似ているのがわかった。丸い輪郭。優しい目。笑ったときの頬の膨らみ方。
有子さんが纏う柔らかい空気には、啓太の胸を強く打ち鳴らす特別な眩しさがあった。
肌の透明感。うなじの線。朝の光を受けて、彼女はまるでフィルムの一コマのように綺麗だった。
「僕が撮ります。」
「じゃあお願いします。」
「はい」
啓太はスマートフォンを受け取りシャッターを切る。画面越しの有子さんは、やっぱり綺麗だった。
彼は二枚三枚と撮った。すると貴子さんが手招きした。
「白井先生も一緒に」
「え」
「せっかくだから。三人で」
啓太は一瞬固まった。有子さんがこちらを見て小さく笑っている。
その笑顔が、断るのを許さない。彼は近くの学生に声をかけ、スマートフォンを渡した。
「すみません、撮ってもらえますか?」
三人が並ぶ。貴子さんが真ん中に立ち、有子さんが左、啓太が右。彼女との距離は五十センチほど。その距離が妙に遠く感じられた。
だがシャッターが切られる瞬間、有子さんがほんの少しだけ啓太のほうに身を寄せた。
その肩が、ほんの一瞬だけ啓太の腕に触れた。温かい。柔らかい。啓太の心臓はその一瞬で完全に止まった。
「はい、撮れましたー」
学生がスマートフォンを返しに来る。啓太が礼を言って受け取ると、横で貴子さんが「まあ、見せて」と覗き込んできた。
画面には、安田講堂を背景にした三人が写っている。真ん中で柔らかく微笑む貴子さん。その右側で、少し緊張した面持ちの啓太。
そして左側の有子さんは——ほんの少しだけ体を啓太の側に傾け、柔らかい笑顔を浮かべていた。
「綺麗に撮れてるわね」
貴子さんは画面を見つめたまま、ふふ、と嬉しそうに微笑んだ。
だがその視線は、写真の中の二人の『わずかな距離の近さ』をしっかりと捉えている。
彼女は一瞬だけ有子さんの顔を見やり、それから何事もなかったかのように啓太へ向き直った。
「白井先生、良い記念になりました。ありがとう」
「いえ……こちらこそ」
啓太は心臓の鼓動を必死に押し殺しながら答えた。
貴子さんのその一瞬の眼差しが、どこか深い意味を含んでいたことにはまったく気づいていなかった。
「白井先生、行きましょうか」
啓太は頷いて、スマートフォンをポケットにしまった。彼の心臓はまだ少し痛い。だがその痛みは、悪いものではなかった。
実験室は工学部2号館の建物の四階にあった。
廊下は土曜ということもあってどこかひっそりとしていて、足音がやけに響く。啓太は二人をエレベーターに案内し、扉を開けた。
「お待ちしてました」
篠原さんがすでに部屋の前で待っていた。今日は白衣姿で、いつもの飄々とした雰囲気より少しだけ研究者らしく見える。
彼は啓太の後ろから現れた貴子さんと有子さんを見て、にこやかに頭を下げた。
「わざわざお越しいただきありがとうございます。篠原です。白井くんの研究室の先輩です」
「橘です。こちらこそ、よろしくお願いします」
貴子さんが丁寧に挨拶を返す。有子さんも小さく会釈する。その仕草がまた綺麗で、啓太は思わず目を逸らした。
実験室の壁際には見慣れない機器が並んでいる。金属の筐体。無数のケーブル。モニターが三台。
部屋の中央には大きな椅子が一脚と、その横に頭部を覆うような半球状の装置が据えられていた。貴子さんと有子さんは同時に足を止めた。
「あの、これが例の」
「はい。TMS……超伝導コイルを使った局所磁気刺激装置です。頭の上から微弱な磁気パルスを当てて、脳内の量子状態の変化と脳波を測ります。」
「痛くはないですよ。ちょっと頭皮がピリッとする独特な感覚かもしれないですけど」
篠原さんはそう説明しながら装置の横に立って手で示した。
有子さんは少し身を硬くして、それでも興味深そうに装置を覗き込んでいる。貴子さんは「まあ、すごいわね」と呟いた。
啓太もこの装置は何度か見たことがある。だが今日は、自分が使うわけでもないのに妙に落ち着かない。
「じゃあまずどちらからやりますか?」
「私からで」
有子さんが手を挙げた。貴子さんが「大丈夫?」と声をかける。有子さんは「平気だよ」と笑って、椅子に近づいた。
篠原さんが椅子を引き彼女が腰を下ろす。
啓太は部屋の隅に立って、その様子を見守ることにした。なるべく目立たないところに。
だが、篠原さんが装置の調整をしながら啓太のそばを通りがかったときだった。
彼は手を止め、耳元に顔を寄せるようにして小さく囁いた。
「白井くん。めちゃくちゃかわいいじゃん。びっくりした」
啓太は息を止めた。背筋が一瞬で冷たくなる。
篠原さんはそれだけ言うと、何事もなかったかのように装置の調整に戻っていく。
その横顔は至って真面目だ。だが口元はほんの少しだけ上がっている。
「あの、違います。そういうんじゃ」
啓太は声を潛めて抗議した。だが篠原さんは聞こえないふりをして、手元のモニターをチラリと見比たあと、思案するようにあごを触った。
「あー、白井くん。俺手元のキャリブレーション(初期調整)入るからさ、橘さんのヘッドギア装着手伝って」
「えっ、僕がですか?」
「髪の毛挟まないように、額と頭皮にしっかり密着させなきゃいけないんだよ。頼むね」
篠原さんはそう言うと、ニヤリと意味深な笑みを浮かべてキーボードに目を落とした。
啓太は一瞬固まったが、有子さんや貴子さんの手前、断るわけにもいかない。生唾を飲み込み、ゆっくりと有子さんの座る椅子の前へ歩み寄った。
「あの……失礼します」
「あ、はい……よろしくお願いします」
有子さんは少し背筋を正し、見上げるように啓太を見た。
間近で見る彼女の顔。肩の線や綺麗なうなじ、髪をまとめたことで露わになった耳の形が嫌でも目に入る。
啓太は必死に意識を「作業」へと集中させようと試みた。息を潜め、指先が震えないよう細心の注意を払いながら、半球状の装置から伸びる電極つきのヘッドギアを持ち上げる。
「ちょっと締め付けますけど、痛かったら言ってくださいね」
「はい」
そっと頭部に装置をあてがう。位置を調整するため、自ずと顔と顔の距離が三十センチほどに縮まった。
髪の毛を挟み込まないよう細心の注意を払いながら、電極のパーツやフレームの角度を慎重に微調整する。
だが、緊張で啓太の手先がわずかに狂い、まとめた髪の端をほんの少しだけ強く引っ張ってしまった。
「っ……」
有子が小さく息を呑み、わずかに眉をひそめる。
「あっ、すみません! 痛かったですか!? ごめんなさい、髪、引っ張っちゃいましたよね……!?」
啓太は弾かれたように手を引っ込め、顔を真っ赤にして何度も頭を下げた。慌てすぎて声が裏返りそうになっている。
有子は一瞬目を見開いたが、至近距離でそこまで必死に狼狽える啓太の姿に、ふっと表情を緩めた。
「だ、大丈夫です。全然痛くないですよ」
有子のまとめた髪から覗く白い耳たぶが、うっすらと赤くなった。
「……よし、密着度OK。白井くん、モニターのほう手伝って」
背後から篠原さんのどこか楽しげな声が聞こえ、啓太は弾かれたように我に返った。
「あ、はい!」
啓太は逃げるように有子さんから距離を取り、早足でモニターの前に向かった。
画面には有子さんの脳波が波形として現れ始めていた。規則正しい波。静かな呼吸。
有子さんは目を閉じて、椅子の背にもたれている。その横顔を啓太はモニター越しにちらりと見た。
閉じた瞼。長い睫。小さく開いた唇。彼はすぐに画面に視線を戻した。だが心臓の音は、しばらく止まらなかった。
—
実験は順調に進んでいた。モニターには有子の脳波が規則正しく描かれていく。
後頭部を中心に、きれいな8〜12Hz帯のアルファ波 が安定して出現していた。
リラックスしている証拠だ。篠原は画面を確認しながら時折キーボードを叩き、パラメータを微調整している。
貴子は部屋の隅の椅子に座って、静かに娘の様子を見守っていた。
「白井くん、ちょっとペースト持ってきてくれる。棚の上にある、青いケースのやつ」
篠原の声が部屋の静けさに染みた。啓太は頷いて、部屋の奥の棚へと歩き出した。
有子の座る椅子の前を通る。ほんの二メートルほどの距離。
彼はなるべく視線を落としたまま、静かに足を運んだ。
だがすれ違いざまにふと顔を上げてしまう。有子は目を閉じているはずだった。
だが、啓太が横切った瞬間彼女の睫毛がわずかに震え、閉じたままの瞳が彼の足音を追うように、ほんの少しだけ首が動いた。
その瞬間だった。
[10:14:02] 9.2 Hz (α-Wave / Normal)
[10:14:03] 18.5 Hz (β-Wave / Transient Spike)
[10:14:04] 9.1 Hz (α-Wave / Normal)
モニターの波形が、ふっと乱れた。
規則正しいアルファ波の連なりが、一箇所だけ小さく跳ね揺らぎ、また元のリズムに戻る。
ほんの一秒にも満たない変化。だが、その一秒を篠原は見逃さなかった。
彼はキーボードを叩く手を止めた。眉がほんの少しだけ寄る。
『ノイズか。被験者の微動による基線の揺れか。それとも、何か別のものか。』
彼は画面をじっと見つめ、それから啓太の背中をちらりと見た。
『白井くんは今、棚の前に立って青いケースを探している。何も知らない。何も気づいていない。』
篠原はまた画面に視線を戻した。波形はもう元通りだ。静かな、いつものリズム。
だが彼の頭の中には一つの仮説が生まれかけていた。
「あった」
啓太が小さく呟いて青いケースを棚から下ろす。埃を払って、篠原の方へと戻ってくる。
今度もまた、有子の前を通る。啓太は今度こそ絶対に顔を上げまいと決めていた。視線は床のタイルの目地に固定されている。
だが、彼女のほうは違った。
有子は、今度は目を開けていた。
啓太が近づいてくる足音を聞いて、彼女は何気なく顔を上げる。
青いケースを抱えた啓太の姿。その姿を、彼女の目がまっすぐに捉えた。
ほんの一瞬。だけど確かに、
ーー彼女の視線は啓太の横顔に吸い寄せられた。
[10:14:28] 9.0 Hz (α-Wave / Normal)
[10:14:29] 42.8 Hz (γ-Wave / SPIKE DETECTED)
[10:14:30] 45.1 Hz (γ-Wave / HIGH EMOTIONAL RESPONSE)
[10:14:31] 38.6 Hz (γ-Wave / Sustained)
[10:14:32] 14.2 Hz (β-Wave / Recovering)
そしてまた、モニターが跳ねた。
本来なら目を開けたことで消えるはずの規則正しい波形が、啓太と視線が交差した瞬間、突発的な動揺を示すように激しく一跳ねした。
まるで、静かな水面に小石が落ちたような波紋。
篠原は今度こそ、はっきりとそれを見た。
彼は椅子の背にもたれかかっていた姿勢をゆっくりと起こした。
目が、少しだけ輝いている。研究者の目だ。何かを見つけたときの、あの静かな興奮。
「白井くん、そこに置いて」
篠原はケースを受け取り装置の横に置いた。
それから何気ないふりをして、有子に声をかける。
「橘さん、今、少し目を開けてました?」
有子は少し驚いたように、それから照れたように小さく笑った。
「あ、はい。すみません。なんか、気になっちゃって」
「いえ、大丈夫ですよ。むしろ良いデータが取れました」
篠原はそう言って、モニターを指差した。有子は首を傾げる。
「何か、変わったんですか?」
「ええ。あっ、いえ。」
篠原はしゃべりながら啓太のほうを見た。
その目は「どういうことかわかる?」とでも言いたげだった。
「面白い」
篠原は独り言のように呟いた。そして、何事もなかったかのように、またキーボードを叩き始めた。
彼はデータを保存しながら、頭の中で新しい解析の視点を組み立てていた。
微小管の量子コヒーレンスと脳波の相関――
それが彼の博士論文の主題だ。
だが今、彼の興味は少しだけ別の方向に逸れていた。
観測者と被観測者の相互作用。観測という行為そのものが、対象の状態を不可逆に変えてしまう――。
それは量子力学における「観測問題」の本質であり、同時に、人間の意識と意識が引き寄せ合う現象そのものでもあった。
「白井くん、次はお母さんの番だよ。準備手伝って」
啓太は「はい」と答え、貴子のほうへ歩き出した。
有子の横を通るとき、彼は意識して視線を外した。
彼女が今どんな表情をしているのか、モニターにどんな波形が出ているのか、確かめる勇気もなかった。
「白井くん」と篠原が呼んだ。
「そろそろ終わります。次はお母さんをお願い」
篠原はそう言って装置の電源を落とした。




