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第3話:肉じゃがのぬくもりは本郷キャンパスへ続く

それから毎週火曜日は、啓太にとって特別な日になった。


授業が終わると急いでアパートに戻り、シャワーを浴び髪を整える。鏡の前で三度深呼吸するのも習慣になった。


本駒込までの道のりも、もうすっかり覚えた。曲がり角の公園。柿の木。黒い門。そのすべてが、彼の日常の一部になりつつあった。


玄関の扉を開けると、いつも貴子さんが笑顔で迎えてくれる。隆史は「先生」と手を振る。


授業後、ダイニングには、たいてい有子さんがいる。


啓太は彼女の顔をまともに見られないまま、決まった席に座る。有子さんの正面だ。それが嬉しくて、同時に辛い。


彼女の声は聞こえる。笑い声も。でも顔は見られない。顔を見れば、きっと何かが壊れてしまう気がした。


その日の食卓は肉じゃがだった。湯気の向こうに、ほくほくとしたじゃがいもと艶やかな牛肉が見える。甘辛い醤油の香りが部屋いっぱいに広がっている。


啓太はいつものように「いただきます」と手を合わせ、一口食べた。


柔らかい。味が染みている。じゃがいもが口の中でほろりと崩れる。彼は目を丸くした。


「これ、すごくおいしいです」


「よかった。今日は有子が作ったのよ」


貴子さんがそう言って隣の有子をちらりと見た。


啓太は思わず顔を上げた。一瞬だけ。有子さんは少し照れたように、湯呑みに手を伸ばしていた。


「私、料理はあんまり得意じゃないんですけど。お母さんが忙しそうだったから」


「そんなことないわよ。上手にできてる」


貴子さんがそう言って、有子さんの肩をぽんと叩く。


有子さんは「ありがとう」と小さく笑った。その笑顔を、啓太は見てしまった。


心臓が跳ねる。彼は慌てて視線を皿に落とした。でも遅かった。有子さんの照れた横顔が、網膜に焼き付いて離れない。


「先生、肉じゃが好きなんですか」


隆史が尋ねる。啓太は頷いた。


「うん。好きだよ」


「じゃあまた作ってもらおう」


「隆史、人に作らせるみたいに言わないの。」


有子さんがたしなめる。その声が優しくて、啓太はまた胸が苦しくなった。


彼女は料理もする。バイオリンも弾く。原文で英文学を読む。ロンドンにいた。


そのどれもが啓太の知らない世界で、でもその世界が今すぐ目の前にある。


手を伸ばせば届きそうな距離に。でも彼は手を伸ばせない。伸ばし方を知らないから。


「白井先生、お代わりどうぞ」


貴子さんが鍋を持ち上げる。啓太は遠慮しながらも、もう一杯もらった。肉じゃがの温かさが胃の底から体全体に広がっていく。


この家の食卓はいつも温かい。誰かが作った料理を、誰かと一緒に食べる。それがこんなに満ち足りたことだとは、彼は知らなかった。


「来週は何にしようかしら」貴子さんが呟く。有子さんが「クリームシチューは」と提案する。隆史が「それいい」と乗る。


啓太は黙って聞いていた。来週もまた、この食卓に座れる。そのことが彼の一週間を支えていた。


—-

五月の連休が明けると隆史の通う高校では定期テストがあった。


啓太はその一週間前から、いつもの授業に加えてテスト対策のプリントを用意していた。力学の総復習。電磁気の基礎。数学は二次関数と三角比。


隆史は「こんなにやったの初めてです」と言いながら、それでも最後まで食らいついてきた。


テストが終わって一週間後の火曜日。いつものように本駒込の門をくぐり、インターホンを押す。


だがその日の玄関はいつもと少し違った。扉が開く前から、中で誰かが弾んだ声を上げているのが聞こえた。


「先生!」


扉が勢いよく開いて隆史が飛び出してきた。手には一枚の答案用紙が握られている。


その顔は、いつもの屈託のない笑顔とは違う。もっと輝いている。誇らしげで、それでいてどこか照れくさそうで。


「どうしたの」


「物理、八十二点でした」


啓太は息を呑んだ。前回の定期テスト、隆史の物理は六十二点だった。それが八十二点。ちょうど二十点。


隆史は答案を啓太の胸のあたりに突き出すようにして見せる。赤ペンで大きく書かれた「82」。その数字が、蛍光灯の下で妙に眩しかった。


「やったな」


啓太はそう言って、隆史の肩を軽く叩いた。自分のことのように嬉しかった。いや、自分のこと以上に嬉しいかもしれない。


彼が説明した運動方程式。電場と電位の坂道の話。符号の直し方。その一つ一つが、この二十点の中に確かに生きている。


誰かの成長に自分が関われた。その事実が、胸の奥でゆっくりと温かく広がっていく。


「数学も上がったんです。七十八点」


「すごいじゃないか」


「先生のおかげです」


隆史はそう言って、深く頭を下げた。その真っ直ぐな感謝が啓太には少しだけ眩しかった。


奥から足音が聞こえて貴子さんが現れた。その手には、隆史の成績表が握られている。


彼女の顔はもう笑っているのか照れているのかわからないほどに綻んでいた。


「白井先生、見てください」


貴子さんは成績表を啓太の前に広げた。五教科の点数が並んでいる。


物理と数学が跳ね上がっているのはもちろんのこと、他の教科も少しずつ上がっている。順位も前回より二十番以上上がっていた。


「隆史がね、テストのあと『先生のおかげだ』って何度も言うんです。私も信じられなくて」


貴子さんの声が少し震えていた。その震えは、きっと長い間心配してきたからだろう。


高三の息子の成績。志望校。母親としての不安。それが少しだけ報われた瞬間。啓太はその気持ちが痛いほどわかった。


自分が誰かの不安を少しだけ軽くできたのだ。


「いえ、隆史くんが本当に頑張ったからです。僕はきっかけを作っただけで」


「そんなことないですよ。白井先生が来てくれてから、隆史が変わりました。机に向かう時間も増えたし、自分から問題集を開くようになったし」


貴子さんはそう言って、啓太の目をじっと見た。その視線にはもう疑いのかけらもない。確かな信頼があった。


啓太はその信頼が少しだけ重く感じられた。同時に、それがとてもありがたかった。


「これからも、隆史をよろしくお願いします」


貴子さんはそう言って、頭を下げた。啓太は慌てて背筋を伸ばした。


「はい。僕にできることなら、精一杯」


そして授業に入る。


----

その週の金曜日。研究室の飲み会があった。本郷の裏手にある小さな居酒屋。


地下への階段を下りると、すでに十人ほどの学生と教員が長テーブルを囲んでいた。


啓太は空いている隅の席に座った。こういう場は得意ではない。だが研究室の付き合いも大事だ。


ビールを一口含んで、人の話に耳を傾けるふりをする。


「白井くんは彼女とかいないのか」


声をかけてきたのは博士課程三年の先輩だった。


篠原さん。いつも飄々としていて、人の懐に入るのがうまい人だ。啓太はジョッキを置いた。


「いないです」


「本当に?」


「本当に」


「ふーん」


篠原さんはビールを煽って、それから少し身を乗り出した。その目が少しだけ愉快そうに光っている。


「じゃあ、気になる人は」


啓太は一瞬、止まった。喉の奥で言葉が詰まる。


頭の中に浮かんだのは、左目尻のほくろ。栗色の髪。三日月のような笑顔。バイオリンの話。肉じゃが。ロンドン。


全部が一瞬で駆け巡って、それから消えた。彼はジョッキを握り直した。


「いないです」


「即答じゃないな。怪しいな」


「本当にいないんです」


篠原さんは笑いながら「まあいいや」と引き下がった。


だがその笑顔は何かを見透かしているようで、啓太は少しだけ居心地が悪かった。


彼は残りのビールを一気に飲んだ。冷たい液体が喉を通って、胃の底に落ちていく。浮かんだ顔を消すように。


気になる人。そんな言葉を使ったことがなかった。


彼女が欲しいと思ったこともあった。誰かと一緒にいたいと思ったこともあった。


でも「気になる」という感情がどういうものか、実際に自分が誰かをそういう目で見たことがなかった。有子さんに出会うまでは。


啓太は湯呑みの温かさを思い出した。あの食卓。あの声。あの笑顔。週に一度だけ会える。それだけで一週間が持ちこたえられる。


でもそれは、気になるという言葉で片付けていいものだろうか。もっと重くて、もっと深いところに根を張っている。


「白井、どうした。ぼーっとして」


隣の同期が肩を叩く。啓太は我に返った。


「あ、うん。ちょっと考え事」


「お前が考え事なんて珍しい」


「別に」


啓太はまたビールを頼んだ。ジョッキが来るまでの間、彼は目の前のテーブルを見つめていた。


誰かのジョッキ。誰かの枝豆。誰かの笑い声。そのどれもが遠い。


彼の意識はまだ、本駒込の食卓に座っていた。肉じゃがの湯気。有子さんの横顔。


その横顔を、次は見られるだろうか。火曜日まであと四日。


----

月曜日の午後。啓太は研究室で論文を読んでいた。


すると肩を叩かれる。振り返ると、金曜の飲み会で彼女のことを聞いてきた篠原さんが立っていた。


「白井くん、ちょっといい?」


篠原さんはいつもの飄々とした笑顔ではなく、少し真剣な顔をしていた。啓太は椅子を回して彼に向き直る。


「はい、何でしょう」


「実はね、博士論文の実験で被験者を集めてるんだけど、女性のサンプルが足りなくて困ってるんだ」


篠原さんの研究テーマは、


『脳の微小管における量子コヒーレンスと、巨視的な脳波応答の相関――』


簡単に言えば、人間の脳内で量子力学的な現象が働いているかを調べるというものだった。


被験者に微弱な電磁刺激を与え、その際の脳波パターンを精密に計測する。


年代と性別を幅広く集める必要があるらしいのだが、理系研究室の性質上、被験者はどうしても野郎ばかりに偏ってしまう。


男性のデータはもう十分揃っているのに、女性のサンプルが圧倒的に足りないのだという。


「うちの研究室の女子だけじゃ到底足りなくてね。知り合いの女性で、協力してくれそうな人はいないかな」


啓太は少し考えた。サークルの女子部員。講義で同じ班になった女子。何人か顔が浮かんだが、どれも声をかけるほどの仲ではない。


そもそも彼は女子とまともに話せないのだ。声をかけること自体が高いハードルだった。


「すみません、あんまり心当たりがなくて」


「そっか。でももし誰か思い当たったら教えて。謝礼も出すし、所要時間は一時間くらい。拘束もそんなに長くないんだ」


篠原さんは少し間を置いてから、ふと思い出したように言った。


「そういえば白井くん、金曜の飲み会で『気になる人はいない』って言ってたけどさ」


「はい」


「いや、あれ怪しいなって思ってたんだよね。即答じゃなかったし」


篠原さんはにやりと笑った。その目はもう完全に啓太を見透かしている。


啓太は椅子の背もたれに背中を預け、視線を逃がすようにモニターへと向けた。


画面には読んでいた論文のPDFがまだ映っている。数式の羅列。そこに意識を飛ばそうとしたが、無理だった。


「別に怪しくないです」


「じゃあ、その気になってる子を誘えばいいじゃないか」


『え』っと声が出た。啓太は振り返った。


篠原さんは腕を組み、実に楽しそうな顔をしている。その表情を見て、啓太は自分が墓穴を掘ったことを悟った。


「いや、本当にいないんですって」


「いないのに今『え』って言った」

「それは、急にそんなこと言われたから」


「動揺してるね」

「してません」


「声が裏返ってる」


啓太は黙った。こういうとき、彼はいつも言葉に詰まる。弁解すればするほど墓穴を掘る。そういう人間だ。


篠原さんはそんな啓太の様子を面白がるように、さらに身を乗り出してきた。


「別に詮索するつもりはないよ。ただね、その子を被験者として連れてきてくれれば研究も進むし、白井くんもその子と会う口実ができる。一石二鳥だと思わない?」


「いや、あの、そういうのじゃなくて」


「そういうのじゃなくてもいいよ。とにかく女性のサンプルが足りないんだ。誰でもいいからさ」


「ちょっと考えてみます」


啓太はそう言うのが精一杯だった。


篠原さんは「頼むよ」と肩を叩いて去っていった。


----

次の日は火曜日。いつものように授業を終えリビングで四人分の食卓を囲む。


その日は鮭のホイル焼きだった。きのこがたっぷり乗っていて、バターの香りがふわりと漂っている。


啓太は一口食べて「おいしいです」と言った。貴子さんは嬉しそうに笑い、有子さんは味噌汁を啜っている。


隆史は「今日の問題、難しかった」とぶつぶつ言いながら箸を動かしている。


啓太は箸を置いた。心臓が少し早くなっている。今しかないと思った。


隆史がいる前で言うのは少し恥ずかしいが、かえって自然かもしれない。家族ぐるみの話にすれば、誘いやすい。


「あの、橘さん。ちょっと相談したいことがあって」


貴子さんが顔を上げた。有子さんも箸を止める。隆史はまだ食べている。


「なあに」


「実は、うちの研究室の先輩が博士論文の実験をしていて。脳波の計測なんですけど被験者を集めてるんです。女性のサンプルが足りなくて困ってるらしくて」


「まあ」


貴子さんは湯呑みを置いた。興味を持ったようだ。


「量子力学が脳波にどう影響するかっていう研究で、所要時間は一時間くらい。謝礼も出ます。」


「もしお二人のどちらか、あるいは両方でも協力していただけたら助かるんですけど」


言い終わってから啓太はそっと有子さんのほうを見た。


彼女は少し考え込むように小首を傾げている。その仕草が可愛らしくて、啓太はすぐに目を逸らした。


「私でよければ全然」


貴子さんがそう言ってくれた。それから有子さんのほうを見る。


「有子はどうする」


「うん、私もいいよ。面白そう」


有子さんはあっさりと頷いた。その軽やかな返事に、啓太の心臓がまた跳ねる。一緒に来てくれる。篠原さんの実験に。


その事実が、彼の中でじわじわと広がっていく。不自然じゃない。親子で被験者。ごく自然な流れだ。


でも、有子さんと大学に行くことになるかもしれない。その可能性だけで、彼の指先が少し震えた。


「じゃあ、先輩に連絡しておきます。日程はまた改めて」


「楽しみにしてるわ」


貴子さんはそう言って、また箸を取った。有子さんも「どんな実験だろう」と隆史に話しかけている。


食卓の空気はいつもと変わらない。温かくて、穏やかで笑い声が絶えない。その中に自分がいる。


啓太はもう一度、鮭を一口食べた。バターの味がいつもよりずっと濃く感じられた。


挿絵(By みてみん)


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(※完結保証。第15話まで予約投稿済みですので、安心してお読みいただけます)


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