第2話:初対面はスパイスの香りと共に
静かな階段を下りて一階へ向かうと、台所の方からパタパタとスリッパの音がして貴子さんが現れた。
「白井先生、お疲れ様でした。隆史、どうでしたか?」
「隆史くんすごく飲み込みが早くて、コンデンサーの概念も一発で理解してくれました」
「まあ、本当ですか? あの子、学校の物理にはずっと首をひねっていたのに……ありがとうございます、本当にお見事ですね」
貴子さんは心底ほっとしたように胸に手を当て、嬉しそうに目を細めた。
「いえ、隆史くんの筋がいいからです。それでは、僕はこれで」
啓太が鞄を持ち直して玄関へ向かおうとした、その時
「あの、白井先生……」
貴子さんがふと思いついたように、声をかけた。
「よかったら夕飯食べていきませんか。たいしたものじゃないんですけど」
啓太は一瞬、驚いた。家庭教師が生徒の家で食事をいただく。珍しいことではない。
だが彼にとっては、誰かの家で食事をするということ自体がどこか特別な行為だった。
アパートで一人、コンビニの弁当を食べる夜が頭をよぎる。
「い、いいんですか」
「もちろん。隆史も喜ぶし、私も作りすぎちゃって」
「お母さん、今日カレーでしょ。先生うちのカレーうまいんですよ」
隆史が横から言う。その屈託のない笑顔に背中を押されるように、啓太は小さく頷いた。
「じゃあ、よろしければ」
「よかった。すぐ準備するわね」
貴子さんは嬉しそうに台所へ戻っていった。
隆史が「先生、こっちこっち」と啓太をダイニングへ導く。テーブルの上にはすでに四人分の皿が並んでいた。
あれ、四人分。啓太は首をかしげた。隆史と貴子さんと自分の三人のはずだ。だが考えている暇もなく、隆史に椅子を勧められて腰を下ろした。
そのとき
「ただいま」
貴子さんと入れ違いに、リビングのドアを開けて入ってきた人物がいた。何気なく顔を上げた啓太。
薄いピンクのブラウスに、膝を隠す柔らかな白いスカート。背筋がすっと伸びた凛とした立ち姿が、視界に飛び込んでくる。
『……あれ?』
隆史と貴子さん以外の「誰か」がいるなんて思ってもいなかった。
遅れて、その人がこちらを向く。
肩までに伸びた栗色の髪。柔らかい輪郭に、透き通るような白肌。左の目尻の下に小さなほくろがひとつ。
派手さはないけれど、すっきりと品のある装い。ツンケンした美人ではない。
どちらかと言えば愛嬌のある親しみやすい顔立ちなのに、その佇まいを含めた全体の姿は、啓太がこれまで見てきたどんな女性よりも眩しく、美しかった。
『……えっ?』
思考が、完全に置き去りにされる。あまりにも突然の規格外の存在に、処理性能がまったく追いつかない。
視覚情報の解像度と情報量が急激に跳ね上がり、脳のメインプロセスが完全停止を起こした。心臓が、痛いほど強く打っている。
彼女が少し首を傾けて、啓太を見た。
「あ、はじめまして。隆史の姉の有子です」
有子さんはそう言って、丁寧にお辞儀をした。一つにまとめた栗色の髪が肩からこぼれ、柔らかな白いスカートの裾が、その動きに合わせてわずかに揺れる。
有子さん。優しい響きの名前だった。彼女はまっすぐ啓太を見つめ、にこりと笑った。
その笑顔という過剰な入力信号が、啓太の脳内回路を一瞬でショートさせる。脳天を直接撃ち抜かれたような衝撃だった。
彼は何か言わなければと思った。だが喉が完全に閉じている。手が少し震えた。彼は膝の上で拳を握った。
「あ、ど、どうも。白井、啓太です」
声が出た。だが震えていた。有子さんはそれに気づいた様子もなく、「お座りください」と軽く手を添えた。
「隆史の家庭教師さん、東大生なんですってね。すごい」
「いえ、そんな」
「量子力学とか、もう意味わかんないです」
有子さんはそう言って軽く笑った。その笑い方にも、どこか憎めない愛らしさがあった。
啓太は目のやり場に困って、目の前のスプーンを見つめた。
「有子、今日遅かったわね。」
「うん、サークルが長引いちゃって。」
それから、テーブルに着く。彼女は啓太の正面に座った。
貴子さんが大きな鍋を持ってきて四人分の皿にルウを注いでいく。とろりとした濃い茶色。湯気とともにスパイスの香りがふわりと立ち上る。
啓太は思わず息を呑んだ。家庭的でありながら、どこか本格的な香り。クミンだろうかカルダモンだろうか。
彼はカレーに詳しいわけではない。だがこれはただのカレーではないと直感した。
「どうぞ、召し上がれ」
貴子さんが最後の皿を有子の前に置く。有子さんは「いただきまーす」と手を合わせた。隆史も続く。啓太も慌てて手を合わせる。
「いただきます」
スプーンですくい一口運ぶ。口の中で複雑な味が広がった。最初に甘み。次にスパイスの辛さ。最後にほのかな酸味。層になっている。
野菜の甘みも肉の旨みもすべてが溶け合って、それでいて一つ一つが主張している。啓太は二口目を食べる前に顔を上げた。
「これすごくおいしいです」
素直な言葉だった。頭で考えて出た言葉ではない。心が勝手に口を動かした。貴子さんは目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。
「本当? よかった。市販のルウじゃなくて、スパイスから作ってるの」
「スパイスから」
「うん。隆史が小さい頃からアレルギーがあって、市販のルウだと合わないものが多かったの。それで自分で作るようになったのよ」
貴子さんはそう言って自分の皿に手をつけた。その仕草は自然で、少しも大げさではない。
だが啓太にはその言葉の重みがわかった。子供のために毎回スパイスからカレーを作る。その手間と愛情。彼の胸の奥がじんわりと熱くなる。
「お母さんのカレー、日本一ですから」
隆史が自慢げに言う。有子さんも「同感」と頷く。
「ほんと、これ食べたら他のカレー食べられないよね。」
有子さんの声。啓太はそっと横目で彼女を見た。有子さんはスプーンを口に運びながら、少し目を細めて幸せそうな顔をしている。
その横顔に、また心臓が痛くなる。彼は慌てて視線を皿に戻した。
「白井先生は、一人暮らしなんですよね」
貴子さんが尋ねる。啓太は頷いた。
「はい、駒込に」
「じゃあ普段は自炊?」
「いえ、ほとんどコンビニか学食で」
「まあ」
貴子さんの声に少し心配そうな色が混じる。啓太は慌てて付け加えた。
「あの、でも、不自由はしてないです。コンビニもそれなりに」
「今度、うちでご飯食べてから帰ったらいいわよ。どうせ火曜日は来てくれるんだし」
「え、でも」
啓太は戸惑った。厚かましいのではないか。だが貴子さんの笑顔は本気だった。
隆史も「いいじゃないですか」と言う。有子さんが啓太を見て、にこりと笑った。
「先生、遠慮しないでください。。お母さん人に食べさせるの好きですから」
その笑顔がまっすぐ啓太に向けられて彼はまた呼吸を忘れた。彼はスプーンを握り直して、小さく頷いた。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「よかった」
貴子さんが嬉しそうに言う。有子さんも満足げにカレーを食べ続ける。
隆史は「やった」と小声で呟いている。
啓太はもう一口、カレーを口に運んだ。さっきよりもずっと温かく感じた。料理の温度ではない。この食卓の空気が。
彼は気づけば、少しだけ笑っていた。アパートの冷たい蛍光灯の下でコンビニ弁当を開ける夜とはまるで違う。
ここには誰かがいて、同じものを食べていて笑っている。その事実が、彼の中の長い空白にゆっくりと染み込んでいく。
貴子さんはカレーを食べながら、ふと有子さんのほうを見て「そういえば」と切り出した。
「白井先生、有子のこと紹介してなかったわね。うちの長女で、今、白樺女子大学の英文学科三年生なの」
「白樺」
啓太は思わず復唱した。世田谷にある、あの白樺。
洗練された学生が多いことで名高い女子大だ。有子はスプーンを止めて、少しだけ照れたように笑った。
「文学部って言っても、あんまり勉強してないんですけどね」
「そんなことないでしょ。英文学科でしょ。シェイクスピアとか読んでるんでしょ」
隆史が横から茶々を入れる。有子さんは
「読んでるけど、わかってるかは別」
と肩をすくめた。その仕草も可愛らしい。
啓太は目の前の皿を見つめながら、有子さんの輪郭だけを視界の端で捉えていた。
「バイオリンサークルにも入ってるのよ。小学校からバイオリン続けてるの」
貴子さんがそう付け加える。バイオリン。啓太の脳裏に優雅な音が勝手に響いた。
彼自身、楽器は何もできない。中学の音楽の授業でリコーダーを吹いたのが最後だ。
さらに貴子さんが続ける。
「有子はね、高校までロンドンにいたのよ」
啓太は顔を上げた。
「ロンドン」
「主人の仕事の関係で、長く向こうにいたんです。有子が高二まで」
「お父さん、海外勤務が多くて。私が中学校の途中からずっとロンドンでした」
有子さんはそう言って少しだけ肩をすくめた。
その仕草に、どこか慣れた様子があった。何度も説明してきたのだろう。自分の経歴を。
ロンドン。バイオリン。本場の英文学。どれもが、男子校と量子力学しか知らない僕の人生とは内積ゼロ——つまり完全に直交していて、一生交わるはずのない次元の世界だ。
「それよりも、東大なんて、すごいですよ」
有子さんがそう言った。声に少し照れが混じっている。啓太は顔を上げられなかった。
カレーの皿の縁をスプーンでなぞる。彼女の言葉がまっすぐ自分に向けられている。
それがわかっているのに、目を合わせられない。もし目が合ったら心臓が止まるかもしれないと思った。
「いや、そんなことないです。ただのその、理系の」
「理系のって言っても東大ですよね。私、数学とかもう全然ダメで」
有子さんは笑った。その笑い声が啓太の耳に残る。
彼はようやく顔を半分だけ上げて、有子さんの顎のあたりを見た。それ以上は無理だった。
「白井先生は、うちの人とサークルが同じなんでしょ」
貴子さんが言う。啓太は頷いた。
「はい。藤原さんから伺いました。ずっと上の先輩だって」
「そう。和幸もね、学生の頃は同じサークルだったのよ。今は三凌商事で、四月からドイツに単身赴任してるの」
和幸。橘和幸。啓太はその名前を心の中で繰り返した。サークルの大先輩。経済学部卒。三凌商事。ドイツ。
すべてが彼の知らない世界だ。自分は物理工学の修士1年で、週に一度この家に来て隆史に物理を教えている。それだけの人間だ。
有子さんは「東大なんてすごい」と言ってくれけど、彼女の経歴を聞けば聞くほど、自分が小さく思える。
「お父さん、四月からいないから寂しいんですよ」
隆史が言う。有子さんが「そうだね」と小さく頷いた。
「ロンドン、いいところでしたか?」
啓太は気づけばそう尋ねていた。声は震えていなかった。自分でも意外だった。有子さんは顔を上げて、少し驚いたように啓太を見た。それからふっと笑った。
「はい。ハイドパークが近くて、よく家族でピクニックに行きました」
「いいですね」
「でも、帰ってきてから日本の電車がわからなくて。改札で一回止まっちゃいました」
有子さんはそう言って軽く笑った。啓太もつられて笑った。
彼女の言葉が、ふと距離を縮めた気がした。その小さな失敗談が、啓太の胸の中で温かく溶けていく。
彼はもう一度だけ、有子さんの顔を見た。今度は少し長く。有子さんは笑っていた。その笑顔を、啓太はしっかりと目に焼き付けた。




