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第1話:波動関数は収束を拒む

白井啓太は、東京大学大学院工学系研究科修士1年生。量子力学の研究をしている。


彼の人生は、常に「観測者」であり続けた。


出身は群馬の県立高校——当然のように男子校。むせ返るような男だらけの空間で、女子という存在は、教科書の向こう側の物理法則と同じくらい「実体のない理論上の存在」だった。


高校三年間で、女子と直接言葉を交わした記憶は、数えて正確に三回しかない。


一度目は、高一の夏休み前、校門前で他校の他愛ないアンケートに捕まり「す、すみません、急いでるので」と裏返った声で逃げたとき。


二度目は、高二の文化祭の買い出し中、駅前の横断歩道で道を聞かれ、緊張のあまり、全く違う方向を教えてしまったとき。


そして三度目は、高校の卒業式の日、他校から来たという女の子にクラスメイトの居場所を聞かれたとき。


……いや、大学の入学オリエンテーション。隣に座った女子に「消しゴム、貸して」と言われた瞬間を含めて四回か。最後のは高校時代ではないが。どちらにせよ、そのたびに心臓が口から飛び出しそうになった。


彼は自分を「普通」だと思っている。身長一七八センチ、体重六五キロ。色白で目は悪いがメガネをかければ視力は問題ない。


顔立ちも、鏡を見る限りでは悪くはない。ただ、自分に自信がない。


それは、彼がこれまで一度も誰かに「好きだ」と言われたことがないという事実と無関係ではないだろう。


春の本郷キャンパスは、新緑の銀杏からこぼれる光の粒子が風に舞う。啓太は工学部の建物を出て、安田講堂の前のベンチに座った。


隣ではカップルが同じイヤホンを分け合っている。女の子が笑うたび、男の子が少し照れたように視線を落とす。啓太は目を逸らす。虚しさが、胸の奥で小さく振動する。


量子力学では、観測されるまで状態は確定しない。彼は自分がその「未観測の粒子」のように思えてならない。


誰にも見つけられないまま、存在の確率だけが薄く広がっている。


彼には彼女がいない。二十三年間、一度も。男子校から東大の理系へ。女子と話す訓練をすっかり怠ってきた。


ルックスが悪いわけではない、と友人に言われたこともある。長身で色白、性格も穏やかだ。


けれど、女子を前にすると喉が渇き言葉が詰まる。まるで波動関数が収束するのを拒むように。


啓太は大学でサークルに所属している。正式名称を「国際文化交流研究会」といった。


だが実際にやっていることは、洋書を読んだり海外のインディーゲームを一緒にプレイしたりするだけの、こぢんまりとした集まりだった。


部員は二十人ほど。男女比は八対二。女子部員とは相変わらずまともに話せないが、サークルの空気は居心地がよかった。


ここでは誰も彼を「観測」しない。ただ同じ画面を眺め、同じ本をめくる。それが啓太にはありがたかった。


四月中旬、この日はサークルの先輩であるOBの藤原さんが来ていた。


サークルの帰り道、藤原さんから呼び止められた。駒込駅近くのカフェに入る。


「白井くん、家庭教師に興味ない?」


藤原さんはいつもニコニコしている。コーヒーカップを両手で包みながら、湯気の向こうで笑った。


「家庭教師、ですか」


「うん。サークルの大先輩にあたる人がいてね、その人のお子さんが高三で家庭教師を探してるんだよ。」


「場所は本駒込。理系科目を見てほしいらしい」


本駒込。啓太は少し考えた。彼のアパートは駒込にある。歩いて十五分とかからない距離だ。


「なんで僕なんですか」


「家が近いから。あと、大学院1年ってだけで頭良さそうに見えるでしょ」


藤原さんは冗談めかして言ったが時給の話を聞いて啓太は少し目を丸くした。相場より明らかにいい。先輩の紹介だから、というのもあるのだろう。


「高三、ですか。受験ですか」


「そう。志望は早稲田だって」


受験。啓太は自分の五年前を思い出した。あの頃はただひたすら問題を解いていた。誰とも話さず、ただノートと睨めっこしていた。あの一年間、彼は完全に閉じた系(システム)の中にいた。


「やってみます」


藤原さんは頷いて、スマートフォンを取り出した。


「じゃあ、連絡先教えるね。先方も早く決めたいみたいだから、来週くらいに一度顔合わせかな」


その夜、啓太はもらった連絡先に電話した。出たのは、女性の声だった。


「はい、橘です」


落ち着いた、少し低めの声だった。四十代半ばくらいだろうか。啓太は喉の奥が乾くのを感じながら、用意していた言葉を絞り出した。


「あの、白井と申します。藤原さんからご紹介いただいた、家庭教師の件でお電話しました」


「ああ、白井さん。お待ちしておりました」


声のトーンがふっと柔らぐ。啓太は無意識に背筋を伸ばした。


「藤原さんからお話は伺っております。大学院の1年生でいらっしゃるんですってね」


「はい、一応」


「一応、なんて。すごいじゃないですか」


橘さんの声に、少し笑みが混じった。啓太は返す言葉が見つからず、曖昧に「いえ」とだけ言った。沈黙が一拍。彼は慌てて本題を切り出した。


「あの、今後の指導日時のことなんですが、橘さんのご都合はいかがでしょうか」


「そうですね……それなら、これから火曜夜の六時半でいかがかしら。白井さんのご都合は大丈夫ですか」


「火曜の六時半ですね。大丈夫です」


「よかった。では来週から六時半にお願いしますね。場所はわかりますか」


住所を聞き、アパートから歩いて十五分ほどだと伝えると、橘さんは「近くて助かるわ」と言った。


「あの、お子さんのお名前は」


「ああ、ごめんなさい。隆史と言います。高三で、数学と物理を見ていただきたいんです」


「わかりました。では火曜日に」


「お待ちしております。気をつけていらしてくださいね」



—

火曜日。啓太は講義が終わると真っ直ぐアパートに戻り、シャワーを浴びて髪を整えた。鏡の前で三度、深呼吸をした。


家庭教師の初日。相手は高校生の男の子だ。女子ではない。それなのに心臓は妙に落ち着かない。


本駒込までの道を歩く。駒込の駅前を抜け大きな通りから一本入ると、街の音がすっと遠のいた。住宅街の静けさ。木々の隙間から夕暮れの光が漏れている。


橘家は閑静な住宅街の中ほどにあった。古いが手入れの行き届いた二階建て。門の脇には小さな庭があり、季節外れの紫陽花が葉だけを茂らせている。


啓太は門の前で立ち止まった。指先が少し冷たい。彼はインターホンを押した。奥で小さくチャイムが鳴る。数秒の沈黙。足音が近づいてくる。玄関の扉が開いた。


「いらっしゃいませ」


現れたのは、丸顔で感じのいい婦人だった。歳は四十代半ばだろうか。背は啓太の肩ほどまでしかない。


栗色の髪を緩くまとめ、エプロンをつけている。目尻に優しい皺が刻まれ、その笑顔だけでこの家の空気がわかるような気がした。


少し年は重ねたが、『元アイドル』と言われても驚かない可愛らしい感じをたたえている。


「白井さん、ですよね。隆史の母の貴子です。わざわざありがとうございます」


貴子さんはそう言って、少し頭を下げた。啓太は慌てて背筋を伸ばした。


「あ、はい。白井啓太です。よろしくお願いします」


声が裏返りそうになるのを必死で堪えた。相手は年上の女性だ。しかも初対面。彼の喉はたちまち乾き、視線はどこに置けばいいのかわからなくなる。


玄関の靴箱の上に置かれた小さな陶器の猫。それをじっと見つめながら彼は靴を脱いだ。


「どうぞ、上がってください。隆史もいますがまずはお茶でも」


「あ、はい」


貴子さんは啓太をリビングへと導いた。木の香りのする、落ち着いた部屋だった。窓辺には観葉植物。


テーブルの上には湯気の立つ急須と湯呑みが三つ。

すでに準備してあったのだろう。その心遣いが、啓太の緊張をほんの少しだけ和らげた。


「隆史、先生いらしたわよ」


階段を下りてきたのは、啓太が想像していたよりずっと幼い顔をした少年だった。


背は啓太より頭一つ低いくらい。髪は短く整えられ、目は大きく笑うとえくぼができる。


高三と言われなければ中学生にしか見えない。だがその笑顔には、育ちの良さがにじんでいた。誰かに大切に育てられた者の、まっすぐな明るさだった。


「はじめまして、橘隆史です。今日はよろしくお願いします」


隆史はきちんと頭を下げた。その仕草が自然で、無理をしている様子がない。


啓太は自分の高三の頃を思い出した。あの頃の自分は、こんな風に人に会うたびにきちんと挨拶できただろうか。


いや、できなかった。いつも俯いて相手の目を見ずに、蚊の鳴くような声で「お願いします」と言うのが精一杯だった。


「白井啓太です。こちらこそよろしく」


啓太も頭を下げた。隆史は顔を上げると、にこにこと啓太を見つめた。


「東大で量子力学研究してるって、すごいですね。僕物理は好きなんですけど、量子力学とかまだよくわからなくて」


「いや、僕もまだ勉強中だから。君の方がよっぽどしっかりしてるよ」


啓太がそう言うと、隆史は少し照れたように笑った。


「そんなことないですよ。あ、でも今日はとりあえず何からやればいいか、相談したいです」


「そうだね。志望は早稲田だって聞いたけど」


「はい。理工学部です。数学と物理が不安で」


「じゃあ、とりあえず今日は隆史くんの今の状況を教えてもらって、これからの方針を決めようか」


「はい、お願いします」


隆史は嬉しそうに頷いた。その屈託のない笑顔に、啓太は少しだけ肩の力を抜いた。


高三の男子。かつての自分と同じように、これから長い一年を戦う。


「何か苦手なところとかあるかな」


「はい。あの、コンデンサーのところがまだよくわからなくて」


啓太は図を描きながら、電場と電位の関係を説明し始める。


「電場は電位の傾き。坂道みたいなもの。高いところから低いところへ、電荷は転がり落ちる」


「じゃあ電位差が大きいほど、電場も強いってことですか」


「そう。傾きが急なほど、転がる力も強い」


「あ、じゃあコンデンサーの問題って坂道の形を考えるのと同じなんだ」


台所のほうから、香ばしい匂いが漂ってきた。貴子さんがお茶の入った湯呑みを持って部屋に入ってくる。


啓太は立ち上がって受け取ろうとしたが、貴子さんが「どうぞそのままで」と優しく制した。啓太は素直に座り直す。


「隆史、なんだかすごく集中してるわね」


貴子さんが驚いたように目を細めた。隆史はノートから目を離さないまま、興奮気味に顔を上げる。


「お母さん、白井先生マジでやばいよ。ずっと意味分からなかったコンデンサー、坂道に例えてくれた一発で分かっちゃった!」


「あら、坂道?」


貴子さんはくすりと笑いながら、啓太の前に湯呑みを置いた。


「白井先生、ありがとうございます。隆史がこんなに楽しそうに物理の話をするなんて、初めて見ました。学校の先生の教え方だと、どうしても苦手意識が抜けなくて……」


「いえ、隆史くんの飲み込みが早いからです。僕は捉え方を少し変えただけで」


「そんなことないですよ。……本当に、白井先生に来ていただけて良かった」


貴子さんの言葉には、心からの安堵と小さな期待が滲んでいた。啓太は照れくささにメガネの縁を触りながら、湯呑みを両手で包み込んだ。温かいお茶の香りが、緊張を優しく溶かしていく。


初回の授業は順調に進み、隆史も慣れて来たようだ。


「今日教わったところ、さっそく復習してみます!」


隆史は嬉しそうにシャープペンを走らせている。


時計を見ると、すでに授業終了の八時半を回っていた。


「じゃあ、今日はここまでにしようか」


「はい! ありがとうございました!」


啓太はノートを鞄に収め、濃紺のジャケットを羽織って隆史の部屋を出た。

挿絵(By みてみん)


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■ 更新スケジュール

毎週 火曜日・金曜日 21:00 更新

(※完結保証。第15話まで予約投稿済みですので、安心してお読みいただけます)


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