第8話:靴音の不協和音、縮まる車内
土曜日の午後、啓太は約束の三十分前にアパートを出た。
歩いて十数分の距離なのに、あまりに早すぎる。だが部屋でじっとしているのも落ち着かなかった。
七月の強い日差しがアスファルトを照りつけている。
濃紺のジャケットを羽織った背中に、じんわりと汗が滲む。
彼はあえて遠回りをするように、ゆっくりとした足取りで歩いた。
いつもの曲がり角の公園。青々とした葉を茂らせる柿の木。そして、あの黒い門。
見慣れたはずの通い慣れた道なのに、今日はどこか風景の解像度が違って見える。
同じ景色なのに、空気の密度だけが妙に重い。
門の前に着いてしまったのは、約束の十分前だった。
流石に早すぎるかと迷ったが、通りに立ち尽くしているのも怪しい。
彼は門の前で小さく深呼吸を一つしてから、決意を固めてインターホンを押した。
「はーい」
貴子さんの声がした。すぐに扉が開く。
「白井先生、いらっしゃい。早かったのね」
「あ、はい。少し早く着いてしまって」
「いいのよ。有子、もう準備できてるから」
貴子さんは啓太を玄関に上げた。いつものリビングとは違い、今日は玄関で待つように促される。
彼は背筋を伸ばして立った。心臓がうるさい。手のひらが少し汗ばんでいる。上着のポケットで拳を握った。
「有子――、白井先生いらしたわよ」
貴子さんが階段のほうへ声をかける。
すると二階から足音が聞こえた。軽い、でもどこか慎重な足音。一段一段ゆっくりと降りてくる。
啓太は息を止めた。階段の途中、薄暗いところからまずスカートの裾が見えた。淡い藤色。それから胸元の控えめなレース。
そして、有子さんの顔。彼女は最後の一段を降りると、玄関の光の中に立った。啓太は息を呑んだ。
いつもより少しだけ濃い化粧。口紅の色は控えめだが、目元が丁寧に整えられている。
まつ毛が長く、瞳がいつもより深く見える。左目尻のほくろが、今日は特に際立っていた。
髪はハーフアップにしていて、耳元で小さなパールのピアスが揺れている。
そして、よそ行きのワンピース。淡い藤色の膝丈のワンピース。素材はシルクだろうか、光を受けて柔らかく艶めいている。
ウエストがきゅっと絞られ、そこから裾にかけてふわりと広がる。
彼女はいつもの部屋着とはまるで違う。
まるで、映画の中から出てきた女優さんのようだった。
啓太は言葉を失った。
三ヶ月間、毎週見てきた有子さん。
でも今日の彼女はその誰よりも美しかった。
心臓が痛い。呼吸の仕方を忘れそうになる。
彼は慌てて視線を落とそうとしたが、遅かった。有子さんの姿はすでに網膜に焼き付き、脳の処理器官——後頭葉のメモリを一瞬で埋め尽くす。
「白井先生、こんにちは」
有子さんは小さく会釈した。
その声はいつもの敬語。でも今日はその声が、いつもよりずっと近くから聞こえた。
彼女は少し照れているのだろうか。頬がほんのり赤い。いや、化粧のせいかもしれない。
でも、そう見えた。啓太はようやく口を開いた。
「あ、こんにちは。その、今日はよろしくお願いします」
声が震えた。自分でもわかる。でもどうしようもなかった。
有子さんは小さく頷いて、それから貴子さんのほうを見た。
「お母さん、行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい。楽しんできてね」
貴子さんはそう言って、啓太にも「有子をよろしくお願いしますね」と頭を下げた。
その顔はもう完全に笑っている。啓太は深くお辞儀を返した。
「はい。行ってきます」
二人は並んで門を出た。夏の午後の光がまぶしい。
有子さんのワンピースが風に揺れる。啓太は半歩後ろを歩いた。
彼女の隣に並ぶ勇気がまだなかった。
本駒込の駅へと向かう道すがら、夏の午後の日差しがアスファルトを照り返している。
有子さんの藤色のワンピースが風に揺れるたび、ほのかに石鹸の香りが漂ってきた。
啓太はその香りを意識しないように、前を向いて歩いた。
隣を歩く彼女との距離は、五十センチほど。腕が触れそうで触れない微妙な距離。
「今日は、お忙しいところすみません」
有子さんが口を開いた。その声はいつもの敬語。
でも、家の中ではなく外で聞くその声は少しだけ違って聞こえた。風に乗って流れてくる。
啓太は横を向かずに答えた。
「いえ、全然。楽しみにしてました」
言ってから、余計なことを言ったかもしれないと思った。
楽しみにしてました。それは本心だった。
でも相手にどう思われるだろう。彼は慌てて付け加えた。
「クラシックなんて、久しぶりなので」
「そうなんですか」
「はい。学部のとき、ちょっとだけ。今はほとんど聴かなくて」
「そうなんですね」
会話が途切れる。
足音だけが残る。
有子さんのパンプスの音は軽く、啓太の革靴の音は重い。
二つの音の周波数は完全にずれていて、アスファルトの上で綺麗に重なり合うことがない。
駅が見えてきた。改札を抜け、ホームへ降りる。
電車はすぐに来た。土曜の午後、南北線はそれほど混んでいない。二人は並んで座った。
電車が動き出す。暗い窓ガラスに、ぎこちなく並んだ二人の姿がうっすらと映っていた。
啓太は窓に映る有子さんの横顔を見ないようにしながら、視線を泳がせた。
でも視界の端に入る。
ハーフアップにした髪。耳元のパール。淡い藤色のワンピースの、すっきりとした胸元 。
彼女は膝の上に小さなハンドバッグを乗せ、両手で包んでいる。その手が少しだけ緊張しているように見えた。
有子さんも緊張しているのだろうか。
そう思うと、啓太は少しだけ安心した。自分だけではないのだ。
電車が後楽園を過ぎたあたりだった。
向かいの席に座っていたサラリーマン風の男性が、ふと顔を上げた。
四十代くらいだろうか。ネクタイを緩め、疲れた様子で座っていた。その目が有子さんに留まる。
啓太はそれに気づいた。男性はしばらく有子さんを見ていた。それから、我に返ったように目を逸らす。
でも数秒後またちらりと見る。
啓太は知っていた。有子さんは目立つ。家の中で見ていても綺麗だと思っていた。
でも外で、他の人と一緒にいるとその美しさがよりはっきりとわかる。
周りの人間が彼女を見る。電車の中でも、道を歩いていても。
彼女はそれに慣れているのだろうか。気づかないふりをしているだけだろうか。
啓太は少しだけ背筋を伸ばした。彼女を守るためではない。
ただ、隣に座っている自分が彼女にふさわしい人間に見えるだろうか。そう思ったからだ。
みすぼらしい学生だと思われていないだろうか。彼は自分のスラックスの膝のあたりを見た。
皺はない。ジャケットの袖も汚れてはいない。
でも、彼女の隣に並ぶには何かが足りない気がした。
それは服ではない。もっと別の何か。彼にはわからない何か。
電車は市ヶ谷を過ぎた。
有子さんはまだ窓の外を見ている。その横顔は、静かで少しだけ遠い。
啓太は膝の上に置いた手を見つめた。指を組み、ほどきまた組む。
何か話さなければ。そう思えば思うほど言葉が出てこない。沈黙が重くなる。電車の走行音だけが二人の間を埋めている。
やっと出てきた言葉は、自分でも意外なほど単純な質問だった。
「有子さんは、普段何をされてるんですか」
言ってから啓太は少し驚いた。
三ヶ月目にして初めて、有子さんにプライベートな質問をした。
これまではずっと「今日の料理は何ですか」とか「隆史くんの調子はどうですか」とか。
家の話、隆史の話、そういうことしか聞いてこなかった。
有子さん自身のことを聞くのは、これが初めてだった。
有子さんは窓から視線を戻した。少し驚いたように啓太を見て、それから小さく笑った。
「普段ですか。大学と、サークルと、あとは家で本を読んだり」
「英文学科でしたよね」
「はい。今は十九世紀のイギリス小説を読んでます。ゼミで」
「十九世紀」
「ディケンズとか、エリオットとか。長いんですけど慣れると面白くて」
有子さんはそう言って、少しだけ声のトーンを上げた。
その話題が好きなのだろう。啓太は頷いた。
「ディケンズは読んだことないです」
「機会があればぜひ。『大いなる遺産』とか、最初はとっつきにくいかもしれないですけど」
「有子さんは、好きなんですか。その十九世紀の」
「好きです。遠回りなところが。話がなかなか進まなくて、でもその遠回りが丁寧っていうか。人間関係とか、当時のロンドンの空気とかそういうのをじっくり描いてるのが」
有子さんはそこまで言ってふと口を噤んだ。
少し話しすぎたと思ったのか、頬がほんのり赤い。
啓太はそんな彼女を見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。
彼女はこういう人なのだ。文学の話をするとき、少しだけ早口になって目が輝いて、それから照れて黙る。
家の食卓では見せない顔。貴子さんがいて隆史がいて、その前では出さない顔。
今二人きりだから見せてくれた。それが啓太には嬉しかった。
「白井先生は、量子力学の研究どんなことをされてるんですか」
今度は有子さんが尋ねてきた。
啓太は少し姿勢を正した。自分の研究を人に話すのは久しぶりだった。ましてや女性に。
彼はできるだけ簡単な言葉を選んだ。
「量子コンピュータの基礎になるような理論をやってます。まだ実用化は遠いんですけど」
「量子コンピュータ。テレビで見たことあります。普通のコンピュータと何が違うんですか」
「普通のコンピュータはビットっていうので計算するんですけど、量子コンピュータは重ね合わせっていうのを使うんです。0と1が同時に存在できるみたいな」
「0と1が同時に」
有子さんは小首を傾げた。その仕草が可愛らしくて、啓太は一瞬言葉に詰まった。
でも彼女の目は真剣だ。ちゃんと理解しようとしている。
「なんとなく不思議です。それができると何がいいんですか」
「計算の速度が全然違うんです。今のコンピュータじゃ何万年かかる計算が一瞬でできたり」
「それはすごい」
有子さんは素直に感心したように言った。その声に世辞はない。啓太は少し照れて、メガネの縁に指をかけた。
「まだ理論の段階ですけどね。僕もその一端をやってるだけで」
「でも、そういうのが将来何かを作るんですね」
「そうなったらいいなと思ってます」
会話が途切れた。
でもさっきまでの沈黙とは違う。
重くない。お互いが何かを知って、それが少しだけ距離を縮めた。そんな沈黙。
電車は溜池山王を過ぎたあたりだった。
有子さんはまた窓の外を見た。だが今度は、その横顔がさっきよりずっと近く感じられた。




