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第11話:初夏の匂いと、静寂に光るQRコード

レストランを出たのは、八時を過ぎた頃だった。


溜池山王の街はすっかり夜の静けさに包まれ、高層ビルの窓から漏れる灯りが、人気のないアスファルトを柔らかく照らしていた。


有子さんは店の前で一度振り返り、小さく頭を下げた。


「今日は本当に、ありがとうございました」


「こちらこそ。ごちそうになってしまって……すごく美味しかったです」


啓太が恐縮しながら答えると、有子さんはふっと目を細めて小さく笑う。


並んで歩き出すふたりの前には、駅へと続く緩やかな下り坂。


「あの出口から入りましょう。地下通路でつながってるみたいです」


啓太が少し先に見える地下への入り口を指すと、有子さんは「あ、はい」と頷く。


そして、スマートフォンの画面を閉じて啓太の隣に歩調を合わせた。


その声は、行きよりもずっと自然で、柔らかかい。


敬語は変わらない。でもその言葉の距離が少しだけ縮まっている。そんな気がした。


地下鉄の車内、行きと同じように並んで腰掛ける。


彼女はハンドバッグを膝に置き、両手で包んでいる。その指先がさっきより少しだけリラックスしているように見えた。


電車が動き出す。窓の外の光が流れていく。


「白井先生は、サークルいつから入ってるんですか?」


有子さんが尋ねた。


行きでは自分から話しかけてこなかった彼女が、今は自分から質問してくる。


その変化が啓太には嬉しかった。


「学部一年からです。もう四年目になります」


有子さんは小さく頷き、膝の上のハンドバッグに落としていた視線を、そっと窓の外へ向けた。


「お父さんがいた頃のサークルって、どんな感じだったんだろう……」


ぽつりと漏れたその声は、質問というよりも、彼女自身の胸の奥にある想いに触れるような静かさだった。


「お聞きになったことはないんですか?」


「あんまり。お父さん、昔の話をするとすぐ照れるんです」


「照れる」


「はい。『若い頃はいろいろあったんだよ』って言うわりに、具体的なことは言わないんです。お母さんに聞いても『自分で聞きなさい』って」


有子さんはそう言って笑った。その笑い声が車内に小さく響く。啓太もつられて笑った。


電車が後楽園を過ぎたあたりだった。


行きより少し混んでいる車内。向かいの席には若いカップルの姿がある。

二人は寄り添うように座り、時折顔を見合わせて笑っている。


その姿が視界に入った瞬間、啓太の胸にふとした疑問が過った。


『周りから見たら自分と有子さんはどう見えるのだろうか。』


年の近い男女が並んで座り、同じ店で食事を終え、同じ電車に揺られている。


『もしかしたら、恋人同士に見えているのかもしれない。』


そう思い至った途端、胸の奥で心臓が痛いほど早鐘を打ち始める。

動揺を隠すように、慌てて視線を窓の外へと逃がした。


暗いトンネルの中。自分の顔が窓ガラスに映っている。そのすぐ隣には、有子さんの横顔。


その二つの影が、妙に近くに並んでいるように見えた。


たまらず、そっと瞼を閉じる。


「白井先生」


不意に隣から届いた声に、啓太は弾かれたように目を開けた。


「どうかしましたか」


「いえ、あの、今日のことなんですけど」


有子さんは少し言いにくそうに、それでも言葉を続けた。


「お母さんが予約したレストランとか、勝手に決めてしまってすみませんでした」


「いや、全然。むしろありがたかったです」


「でも、急だったし」


「有子さんが嫌じゃなければ、僕は全然」


口にしてから、失言だったと焦りが走る。これは答えにくい質問だ。


有子さんはわずかに俯き、それから小さく笑った。


「嫌じゃないです」


その澄んだ一言が、車輪の軋む音の中に溶けていく。


啓太は息を吐いた。いつから息を止めていたのだろう。


有子さんは再び、窓の外の闇へと視線を戻す。その横顔を、今度は啓太も見た。


窓ガラスに映る彼女の横顔と、そのすぐ隣にある実際の輪郭が二重になって見える。どちらも綺麗だった。


電車は本駒込に近づいている。


あと数分でこの時間が終わる。啓太はそれが少しだけ惜しかった。


本駒込の駅に着いた。電車を降りるとホームの空気がひんやりとしている。


昼間の暑さが嘘のように夜は涼しい。二人は並んで改札を抜けた。


コンビニの明かりが妙に眩しい。


有子さんは小さく伸びをしてから、啓太のほうを向いた。


「送っていただかなくても大丈夫ですよ」


「いえ、近いですし。それに夜ですから」


「でも白井先生、家から遠いんじゃ」


「大丈夫です。歩いて15分ですから」


有子さんは少し迷うように啓太を見て、それから小さく頷いた。


「じゃあ、お願いします」


二人は歩き出した。昼間通った道を逆に辿る。


曲がり角の公園。柿の木。黒い門。


街灯の下、有子さんの影が長く伸びている。藤色のワンピースが夜の闇に柔らかく浮かぶ。


その背中を啓太は半歩後ろから追った。


昼間と同じ距離。でも昼間よりずっと近く感じる。


会話は途切れがちだった。でもその沈黙は重くない。


昼間の沈黙とは違う。何かを共有したあとの静けさ。そういう沈黙だった。


有子さんは時折、空を見上げた。夏の夜の空。星は見えない。


でも彼女は何かを見ているようだった。


「今日は、本当に楽しかったです」


有子さんが前を向いたまま言った。


その声は小さくて、でも夜の静けさの中で啓太の耳にはっきりと届いた。


「私、コンサートって久しぶりで。それにこんなにゆっくりお話ししたのも」


「僕もです。有子さんとこんなに話せたのは初めてでした」


「はい。火曜日はいつも隆史がいるから」


「そうですね」


有子さんは少し笑った。その笑い声が夜の空気に溶けていく。


やがて、見慣れた黒い門が見えてきた。橘家の前。


門の灯りが有子さんの横顔を照らしている。彼女は足を止め、啓太のほうへと向き直った。


「ここまでで大丈夫です。ありがとうございました」


「いえ」


さよならを言わなければ。そう思うのに、言葉が出てこない。


この特別な時間が、終わってしまう。


次の火曜日になれば、彼女はまた僕を『白井先生』と呼ぶのだ。あの少し距離のある、丁寧な敬語で。


今ここで別れれば今日のこの時間は本当に終わってしまう。


何か。何か残さなければ。そう思ったとき、口が勝手に動いていた。


「あの、有子さん」


「はい」


少し首を傾げ、有子さんが啓太を見上げる。


夜の灯りを宿したその瞳は、逃げ場がないほどまっすぐだった。


「LINE、交換しませんか」


声にした瞬間、心臓が凍りつきそうになる。


家庭教師と、その家の娘。立場を完全に踏み越えている。


けれど、もう言葉は取り消せない。


有子さんは一瞬、目を丸くした。それから、ふっと表情を緩める。


「いいですよ」


彼女はハンドバッグからスマートフォンを取り出した。


画面を啓太のほうに向ける。QRコードが表示されている。


啓太は慌ててポケットから自分のスマートフォンを取り出した。指が震えている。


カメラを起動し、青白いコードを読み取る。


ピコンという電子音が夜の静けさに響いた。


画面に浮かび上がる、『橘有子』の文字。


彼女も自分のスマートフォンを操作して、それから啓太のほうを見た。


「登録しました」


「あ、はい。僕も」


「では、また」


有子さんは小さくお辞儀をすると、門を開け、中へと入っていく。


玄関の灯りがつく。彼女が振り返って、もう一度お辞儀をした。


それから扉の向こうに消えていく。


啓太は門の前に立ち尽くしていた。


手元の液晶画面の中に、確かに彼女の名前がある。


『橘有子』


たったそれだけのことなのに、彼の胸の奥が熱く脈打っている。


彼はしばらくその場を動けなかった。


ふいに吹き抜けた夜風が、かすかに夏の匂いを運んできた。

挿絵(By みてみん)


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■ 更新スケジュール

毎週 火曜日・金曜日 21:00 更新

(※完結保証。第15話まで予約投稿済みですので、安心してお読みいただけます)


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