第10話:二人きりのカルボナーラと、未観測の素顔
小さな声が漏れる。啓太は隣で立ち止まった。
「どうかしましたか」
有子さんはスマートフォンを少し啓太のほうに傾けた。
画面にはLINEのメッセージが表示されている。差出人は「お母さん」だった。
『コンサート終わったら、リストランテ・ソーレってところを予約してあるから。白井先生と行ってきて。地図も送るね』
有子さんは少し困ったように笑った。
「母が、レストラン予約したみたいなんですけど」
「え」
今度は啓太が驚く番だった。
貴子さんがレストランを予約した。コンサートのあとのディナーのために。しかも二人分。
それはつまり、コンサートだけで終わらせるつもりは最初からなかったということだ。
貴子さんの『おせっかい』はここまで徹底していたのか。
啓太は言葉を失った。有子さんはスマートフォンをしまい、少しだけ頬を赤らめている。
「ほんと、お母さん勝手で。ごめんなさい」
「いや、謝らないでください。でもいいんですか。僕なんかが」
「白井先生さえよければ。私も、お腹空いていますし」
有子さんはそう言って小さく笑った。
その笑顔は、気のせいか、照れ隠しのようにも見えた。
でも嫌がってはいない。それが啓太にはわかった。彼は頷いた。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
二人はロビーを抜け、アークヒルズの階段を下りた。
外に出ると、夏の夕暮れの風が頬を撫でる。
六本木通り沿いの高層ビル群の合間に、淡い藍色と橙色が綺麗に溶け合っていた。
有子さんはスマートフォンの地図を見ながら、溜池山王方面に向かって歩き出した。
その背中を、啓太は半歩後ろから見つめていた。
夕暮れの光の中で、藤色のワンピースが柔らかく揺れている。
時折立ち止まっては画面を確認し、また歩き出す横顔。
ベートーヴェンの旋律、隣で揺れていた気配、あのふたりきりの時間――
コンサートの熱い余韻が、目の前を歩く彼女の姿と重なり合って、妙に胸を締めつけた。
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リストランテ・ソーレは、溜池山王の駅からほど近いオフィス街の路地裏、古いビルの地下へ続く階段を降りた先にあった。
真鍮の小さな看板に、控えめな間接照明。
重厚な扉を開けると、心地よいジャズの音色とともに、香ばしいオリーブオイルとガーリックの香りが漂ってきた。
店内はテーブルが数卓だけのこぢんまりとした空間で、パリッとした白いクロスが敷かれたテーブルには一輪挿しの花が飾られている。
奥の落ち着いた半個室風の席に案内されると、有子さんが先に座り、啓太がその向かいに座った。
テーブルを挟んで向かい合う。
家庭教師の食卓でも、大学のレストランでもない。
薄暗い照明のなか、揺れるキャンドルの小さな炎を挟んで二人きりで向き合う――
そんな時間は、これが初めてのことだった。
啓太はメニューに視線を落とし、ただ文字を追うふりをする。
向かいの有子さんもまた、静かにメニューを開いていた。
落ちてくる沈黙。やがて運ばれてきた水と小さな前菜に続いて、店員が注文を取りに現れる。
有子さんは「私はカルボナーラで」と言い、啓太も「同じもので」と続けた。
店員が下がると、また二人きりになった。
「今日は、ありがとうございました」
有子さんが先に口を開いた。メニューを閉じ、テーブルの上に両手を重ねている。
「ベートーヴェン、よかったですね」
「はい。すごく」
啓太は頷いた。
その言葉は本心だった。あの第四楽章の旋律。隣で揺れる有子さんの気配。あの時間。
今思い出しても胸の奥が熱くなる。
「有子さんは、あの曲、お好きなんですか」
「好きです。……でも、聴くたびに右手が緊張しちゃう曲でもあります」
「緊張?」
「高校の時に弾いたことがあるんですけど、バイオリンにとっては本当に容赦のない譜面で。客席で聴いていても、指先が勝手に動いちゃいそうでした」
有子さんはそう言って、どこか懐かしそうに微笑む。
テーブルのグラスに手を伸ばし、一口喉を潤してから啓太は言った。
「有名な曲なので、僕も何度も聴いたことはありましたけど……今日は、なんだか全然違って聴こえました」
「違う?」
有子さんが小首を傾げる。啓太は少し考えてから正直に言った。
「一人で聴くのと、誰かと一緒に聴くのとではたぶん違うんだと思います」
有子さんはしばらく啓太を見ていた。それからふっと目を逸らし、水を一口飲んだ。
その耳がほんのり赤い。気のせいではない。
言ってしまってから、啓太の顔にも一気に血が上る。
少し言い過ぎただろうか、と背中に走る冷や汗。
けれど、視線が交わった一瞬の余韻が胸の奥にどこか心地よく残っていた。
ちょうどそこへ、料理が運ばれてくる。
湯気の向こうに濃い黄色のカルボナーラ。黒胡椒が粗く挽かれていた。
有子さんはフォークを取り、一口運んだ。
ふいに、その大きな瞳が見開かれる。口元がほんの少しだけ緩んで、それから「美味しい」と小さく呟いた。
その飾らない素直な表情に、啓太は思わず息を呑んだ。胸の真ん中を、確かな熱が貫いていく。
三ヶ月間、毎週火曜日の食卓で見てきた彼女は、どこか控えめに、貴子さんや隆史の陰で静かに食べていた。
あんな表情は見たことがなかった。これまで蓄積してきた彼女のどの観察データにもない、あまりにも素直な表情。
今ここで見せた表情は、誰にも気づかれないようにしていた素のもの。
それを自分だけが見ている。その事実が啓太の胸を締め付けた。
彼は慌てて自分の皿に目を落とした。
「本当に美味しいですね、ここ」
「はい」
有子さんは小さく頷いて、それから水を一口飲んだ。その耳はまだ少し赤い。気のせいではない。
「白井先生、あの……」
有子さんがふと思い出したように尋ねた。フォークを置き、少しだけ身を乗り出している。
「以前、少し仰っていた『国際文化交流研究会』って、普段はどんなことをされているんですか?」
「サークルのことですか」
啓太は少し気恥ずかしそうに頭を掻いた。
「名前は立派なんですけど、実際は洋書を読んだり海外のインディーゲームを一緒にやったりするだけの、かなりゆるい集まりなんです」
「洋書」
有子さんの目が、あのときと同じようにわずかに輝いた。
彼女は本を読む人間だ。英文学科で十九世紀のイギリス小説を読んでいる。『洋書』という響きにはやはり敏感らしい。
「どんな本を読むんですか」
「いろいろです。ポストモダンの短編をやったり……去年はオースティンをみんなで読みました。あ、僕らが読むのは邦訳本ですけど」
啓太がそう付け足すと、有子さんは声を少しだけ明るくした。
「オースティン……! 私も『高慢と偏見』、高校のときに読みました」
「あ、僕も読みました。あれ、何度読んでもいいですよね」
「はい。ダーシーが」
「あの最初のプロポーズのところ」
「ええ、あそこ何度読んでも」
有子さんは言いかけて、ふと口を噤んだ。
少し話しすぎたと思ったのだろう。でももう遅い。
彼女の表情には、本の話をするときのあの輝きが浮かんでいる。
家の食卓では決して見せなかった輝き。
啓太はそれを見て、胸の奥がまた温かくなるのを感じた。
「白井先生も、オースティンお好きなんですか」
「はい。あの、丁寧なところが。遠回りなところが」
「遠回り」
有子さんは小首を傾げた。
「それ、私がディケンズについて言ったことと一緒」
「そうですね。似てるかもしれない」
二人は同時に小さく笑った。
その笑いが自然に重なる。初めてだった。二人で同じ方向を向いて笑ったのは。
テーブルの上のカルボナーラは、いつの間にか半分ほどに減っていた。
けれど、啓太の意識はもう料理の味に向いていない。
啓太は、有子さんの紡ぐ言葉のすべてに耳を澄ませていた。
どんな本を読んできたのか、大学での日々のこと、オーケストラで弾く曲のこと――
有子さんもまた、啓太の言葉に楽しそうに耳を傾ける。
サークルでどんな本を読んだか。どんなゲームをやったか。海外の短編の話――
会話は途切れなかった。三ヶ月分の沈黙を埋めるように、言葉が次々と出てくる。
ふと有子さんが言った。
「お父さんも、そのサークルだったんですよね」
「あ、はい。サークルの先輩から伺いました。ずっと上の代にいらっしゃったって」
「お父さん、学生の頃の話あんまりしないんですけど。でも時々、サークルの話を懐かしそうにするんです。洋書を読む会だったって」
「そうなんですか」
「はい。だから、白井先生の話を聞いててなんとなくわかる気がしました。お父さんが何をしてたのか」
有子さんはそう言ってフォークで最後の一口をすくった。
その仕草は丁寧で、でもどこか楽しげだった。
啓太は自分の皿を見た。まだ少し残っている。
彼はゆっくりと食べ進めた。今この時間を、できるだけ長く味わいたかった。




