第12話:『またぜひ』と、夜半の仮説検証
啓太はアパートに戻ると、上着を脱ぎもせずにベッドに座った。スマートフォンを握っている。
画面には『橘有子』の名前。さっき登録したばかりの、たった一つの新しいつながり。
彼はしばらくその名前を見つめていた。
何か送らなければ。でも何を送ればいいのか。
今日はありがとう、だけではそっけない。でも長文を送るのは重い。
絵文字はどうだろう。自分は絵文字を送るような人間だろうか。わからない。
彼は深呼吸を一つして、文字を打ち始めた。
『今日はありがとうございました。コンサートも食事も、とても楽しかったです。また機会があればよろしくお願いします』
送信ボタンを押す。
画面に既読がつくまで数秒。その数秒が長い。
彼はスマートフォンをベッドの上に置き、それからまた手に取った。
既読がついた。でも返信はまだ来ない。当然だ。向こうも今、家に着いたばかりだろう。
サーバーの遅延でも相手の通信障害でもない。 理由は分かっているのに、彼の脳内クロックだけが異常な速度で空回りしていた。スマートフォンをベッドに置き、3秒後にまた手に取る。そんな無意味なループ処理を何度も繰り返した。
やがて画面が光った。
『こちらこそ、今日はありがとうございました。私も楽しかったです。またぜひ』
その短い文面を、啓太は十回以上読み返した。まるでコードの構文解析でもするように、一文字ずつ噛みしめる。
『またぜひ』
その言葉が胸の奥に沁みていく。
彼はベッドに仰向けに倒れた。天井を見つめる。胸の奥に、心地よい熱がずっと残っている。
悪くない、むしろいつまでも冷めてほしくない温度だった。
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その頃、橘家では、有子が玄関を開けるとリビングから貴子が顔を出した。
その顔はもう待ちきれないという様子だ。
「おかえりなさい。どうだった」
「ただいま。楽しかったよ」
有子は靴を脱ぎリビングへ入った。
貴子はソファに座り、テレビをつけている。
でも画面は見ていない。明らかに娘の話を聞く体勢だ。
有子は向かいの椅子に座った。少し疲れているが、その表情は柔らかい。
頬がほんのり上気している。コンサートの余韻と、それから別の何かが混ざったような顔。
貴子はそんな娘の様子をじっと見ていた。
「コンサートはどうだった」
「よかった。ベートーヴェン、すごく」
「へえ。で、そのあとは」
「そのあとは、お母さんが予約した店」
有子は少し咎めるように言った。でも声に怒りはない。
「美味しかった?」
「うん。カルボナーラが」
「白井先生は」
「うん。白井先生も同じの頼んでた」
「そう。で、何話したの」
貴子は身を乗り出している。その目はもう完全に「続きを聞かせて」と言っている。
有子は少し困ったように笑った。
「サークルの話とか。洋書の話とか。お父さんの話も」
「お父さんの」
「うん。お父さんも同じサークルだったって」
貴子は少し目を細めた。
「それで、他には」
「他にはって」
「白井先生のこと、どう思った」
有子は顔を上げた。少しむっとしたようにも見えるし、照れているようにも見える。
「どうって」
「だって一緒にコンサート行って食事してきたんでしょ。感想くらいあるでしょ」
「お母さん、しつこい」
有子は立ち上がった。
そのときだった。スマートフォンが震えた。
彼女はポケットから取り出し画面を見る。一瞬、動きが止まる。
その表情の変化を貴子は見逃さなかった。
有子は画面を見つめたまま、少しだけ口元を緩めている。
「誰から」
貴子が尋ねる。有子は顔を上げ、少し言いにくそうにでもどこか嬉しそうに言った。
「白井先生」
「え」
貴子はソファから身を乗り出した。
有子は画面を少し貴子のほうに向ける。そこにはさっきの短いやり取りが映っている。
『またぜひ』という有子の返信も。
「LINE交換したの」
貴子の声が弾んだ。有子は小さく頷く。
「帰りに、聞かれて」
「そう」
貴子はにやっとした。もう完全ににやっとした。その顔は「やった」と書いてある。
有子はそんな母の顔を見て、少しだけ眉をひそめた。でも否定はしなかった。
彼女はスマートフォンをポケットにしまい、階段のほうへ歩き出した。
「お風呂入ってくる」
「はーい」
貴子の返事は弾んでいた。有子が二階へ上がる足音を聞きながら、貴子はソファにもう一度深く座り直した。
テレビの画面はまだついている。でも彼女はそれを見ていない。
天井を見上げて、小さく呟いた。
「ふふ。進んでるじゃない」
その声は誰にも聞こえなかった。でも確かに、橘家のリビングに響いていた。
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返信を送ったあと、間を置かずに届いた有子さんからのメッセージ。
『またぜひ』
啓太は心臓が跳ねるのを感じながら、慌てて短く打ち返した。
『はい。おやすみなさい』
送信ボタンを押してから、啓太はスマートフォンをベッドの脇に置いた。
天井を見つめながら、さっきの有子さんの返信を頭の中で繰り返す。
『またぜひ』。その四文字がやけに大きく響く。
また、というのは時間軸上のどのプロットを指すのだろう。
ぜひ、というのは本心のベクトルなのだろうか。それとも社交辞令という名の定型文に過ぎないのだろうか。
啓太の脳内ロジックが、猛烈な勢いで仮説検証を始めた。
有子さんは優しい人だ。誰に対しても丁寧で、礼儀正しい。
だからあの返信もただの礼儀かもしれない。
彼女は自分を『白井先生』と呼ぶ。今日一日ずっとそうだった。
その呼称には明確な境界条件が存在する。先生と生徒の家族。家庭教師とその家の娘。それ以上でも以下でもない。
啓太は寝返りを打った。壁の時計を見る。十一時を過ぎている。
脳内CPUの稼働率が100%に達していて、まったく眠れそうにない。
彼はスマートフォンをもう一度手に取った。
有子さんとのトーク画面を開く。
有子さんからの『またぜひ』という言葉と、それに慌てて返した自分の『はい。おやすみなさい』。
画面の端には、まだ『既読』の文字はついていない。
彼女はもうお風呂に入っているのだろうか。それとも、もうベッドに入ったのだろうか。
最後のメッセージは自分の素っ気ない挨拶。その先に何かが続く保証はどこにもない。
そもそも、今回だって貴子さんという外部要因が介入した結果だ。
チケットが二枚余り、用事ができ、僕がクラシックを聴くと言ったから。すべては貴子さんの設定した初期条件にすぎない。
自分が動いたのは最後の最後、LINE交換を申し出たときだけ。それも、回路が焼き切れそうなほどの出力を絞り出してやっとだった。
あんな限界を超えた処理、もう二度と再現できない。
もし次があるとしても、自分から誘うなんて自作プログラムのバグを自ら仕込むようなものだ。不可能だ。
僕なんかが。そう思う。
有子さんの隣に並ぶ自分。サントリーホールで隣に座った自分。六本木のレストランで向かい合った自分。
どれもこれも、自分には過ぎた時間だった。
彼女はあんなに綺麗で、教養があって、バイオリンを弾いて英文学を読んでロンドンにいたことがあって。
自分はというと、古びたジャケットを着て量子力学の難しい話しかできなくて、女性とまともに話したこともなくて。変数の桁が違いすぎる。
今日一日を振り返る。
彼女は笑ってくれた。話を聞いてくれた。
だが、それは彼女という存在の「優しさ」という恒常的な性質に起因するものだ。自分という特定のオブジェクトだけに向けられた例外処理ではない。
そう定義づけるほうが理にかなっている。そう思わないと、期待してしまうから。
期待して外れたときのことを考えると、胸の奥が冷たくなる。
彼はスマートフォンを伏せた。
もう見ない。そう決めて、目を閉じた。
だが、閉じた瞼の裏(視覚野)には、今日の有子さんの高解像度データが鮮明にレンダリングされる。
藤色のワンピース。ハーフアップの髪。パールのピアス。
コンサートの暗がりで見た横顔。レストランで目を大きく見開いた表情。
駅まで歩くときの、夜風に揺れるスカートの裾。
消去できない。上書きもしたくない。だが再生するたびに、彼女との物理的・心理的距離を突きつけられる。
彼は枕に顔を埋めた。心臓がまだ少し痛い。この痛みは、きっと当分続くのだろう。
それでも。彼は思う。
それでも、週明け、また大学へ行こう。研究室へ行こう。論文を読もう。
そうすれば、また火曜日が来る。
橘家へ行って、隆史に物理を教えて四人で食卓を囲んで、有子さんが『白井先生』と呼ぶ。
その日常が戻ってくる。その日常の中に、今日の一日が小さな光として残る。
それだけでいい。今は。彼はゆっくりと息を吐いた。部屋の暗闇が、少しだけ優しくなった気がした。




