第29話「西九条ニューブラン」
白夢のライブの日が来た。
平日の夕方、五人で電車に乗って西九条に向かった。
電車の中で、俺は妙にそわそわしていた。
(西九条や。ニューブランや。)
頭の中で何度も繰り返した。
現代では知らない人がいない、関西ヴィジュアル系の聖地。何百ものバンドがあのステージに立って、伝説を作ってきた。後にメジャーで活躍するバンドのほとんどが、一度はあそこで演奏していた。
そのライブハウスに、俺は今から行く。
しかも、まだ伝説になる前の姿を見られる。
(やばい。)
「お前、なんでそんなに浮かれてるんや」と凱が言った。
「浮かれてへん」
「浮かれてる」
「気のせいや」
ZEROがこっちを見た。
「ライブ見るだけやろ。なんでそんな顔しとるんや」
「いや、別に」
JUNEとDEADも俺を見ていた。四人の視線が痛かった。
「お前ら、初めてのライブハウスでこんな感じにならんのか」
「そりゃ、初めてやったら少し気になるけど」と凱が言った。「お前、なんか知ってる感じやん」
(やばい。)
「知らんよ。聞いたこともないわ」
凱は俺をじっと見た。
「ふーん」
それだけ言って、また前を向いた。
電車が西九条駅に着いた。
ホームに降り立った瞬間、俺は思わず立ち止まった。
(ここが、あの西九条駅。)
何の変哲もないホームだった。古い駅舎、錆びた看板、湿った空気。1982年の関西の駅って感じだった。
でも俺には特別だった。
(後でこのホーム、ヴィジュアル系のメッカになるんや。)
ファンが東京や名古屋から集まってくる場所。物販列ができて、出待ちの女の子たちが溢れて、駅員が困惑する場所。
それが、まだ何でもない地方駅として存在している。
「蓮、何しとんねん」とZEROが声をかけた。
「あ、ごめん」
俺は慌てて歩き始めた。
改札を出て、駅から出る。
しばらく歩いて、ライブハウスに向かう道沿いに、小さなタバコ屋があった。
俺はまた立ち止まった。
(あの伝説のタバコ屋や。)
差し入れのタバコを買うために、ファンが必ず立ち寄る店。「タバコのおばちゃん」として、後年バンドマンの間で語り継がれる人物がいる店。
その店が、今、俺の目の前にある。
おばちゃんがカウンターで雑誌を読んでいた。
俺は思わず、おばちゃんの顔を見つめた。
おばちゃんが顔を上げた。
「なんやの、坊ちゃん」
「あ、いえ、何でもないです」
俺は慌てて目を逸らした。
凱が後ろから俺の肩を叩いた。
「蓮」
「な、なんや」
「お前、絶対なんか知ってるやろ」
声が低かった。
「な、何が」
「駅で立ち止まる、タバコ屋のおばちゃんを凝視する。明らかにおかしい」
「気のせいやって」
「気のせいでこんなに反応するか」
凱が俺の目を覗き込んだ。
「お前、誰かに聞いたんか。それとも、雑誌で読んだか」
「あ、雑誌や、雑誌で読んだ」
苦し紛れの嘘だった。
「ふーん。何ていう雑誌や」
「えっと、なんか、バンド系の」
「具体的には」
「思い出せん」
凱は俺をしばらく見ていた。
それから、ふっと笑った。
笑ったけど、目は笑っていなかった。
「お前、ほんまに変なやつやな」
それだけ言って、また歩き始めた。
ZEROが俺の隣に来た。
「お前、何かあるな」
「何もないって」
「凱はお前のこと、ほんまに見てるからな。気をつけや」
ZEROは小声でそう言って、笑った。
(ZEROにも感づかれてるんか。)
ライブハウスの前に着いた。
「西九条ニューブラン」と書かれた看板が、二階への階段の入り口にあった。
階段を上った。
二階のフロアは、CLUB NOVAより少し広かった。ステージが少し高くて、照明がちゃんと組まれている。客は六十人くらい入っていた。
平日の夕方なのに、これだけ入っている。白夢の集客力か、ニューブランというハコの力か、両方だろう。
開演までの時間、俺たちはフロアの後ろで待った。
「いい箱やな」とZEROが言った。
「そうですね」とJUNEが頷いた。
DEADは黙って天井を見ていた。何かを観察している顔だった。
凱は何も言わなかった。腕を組んで、ステージを見ていた。
ステージにはドラムセットが組まれていて、その後ろに大きな十字架が置いてあった。そして、ステージの上から、一本のロープが垂れていた。
(ロープ。)
俺は息を呑んだ。
知ってる。あれは、後年語り継がれる伝説のあれだ。
凱がそのロープを見ていた。
「あれ、何や」
「さあ」と俺は答えた。「演出ちゃうか」
「演出って」
「わからん」
知っていたけど、知らないふりをした。
開演時間になった。
照明が落ちた。
ステージに白夢のメンバーが現れた。挨拶も、名乗りもなかった。
いきなり曲が始まった。
最初の一音で、フロアの空気が変わった。
(やっぱり本物や。)
俺は心の中で頷いた。
ボーカルの声が、フロア全体を包んだ。技術的に上手いとかじゃない。何か、人を引き込む力があった。
ギターのリフが、独特だった。一回聴いただけで、耳に残る音だった。
ベースとドラムが、グルーヴを作っていた。タイトで、でも遊びがある。
四人の音が、噛み合っていた。
数曲進んだところで、その曲が始まった。
(浮遊悲。)
俺は息を呑んだ。
現代で死ぬほど聴いた曲。何回もリピートした曲。歌詞を全部覚えている曲。
それが、今、生で目の前で演奏されている。
ボーカルの声が、夢みたいに揺れていた。ギターが、空中を漂うようなリフを刻んでいた。
俺は、何も考えられなかった。
ただ、目を閉じて、その音に身を委ねた。
(やばい、、、これがライブで聴ける、、、)
涙が出そうになった。
霧島蓮として、何度もこの曲を聴いた夜を思い出した。バイトで疲れた帰り道、誰もいない部屋で、ヘッドホンで聴いていた。あの時の俺に教えてやりたい。
「お前、いつかこの曲、生で聴けるで」
って。
曲が終わった。
ZEROがまた俺を見ていた。
「お前、泣きそうやん」
「うるさい」
「ほんまに泣いてるやん」
「うるさいって」
俺は慌てて目を擦った。
ライブが進んでいった。
そして、最後の曲が始まった。
ボーカルがマイクスタンドから離れた。
ステージの奥に行った。
そこに垂れている、あのロープを手に取った。
そのロープを、自分の首にかけた。
(やば、やば、やば。)
フロアがざわついた。
ロープがピンと張った。
ボーカルがそのまま、宙に浮いた。
俺は思わず一歩前に出た。
ボーカルは首にロープをかけたまま、何かを呟いていた。歌詞だった。途切れ途切れの歌詞だった。
歌よりも、その世界観で持っていかれた。
(持ってかれる、、、。)
俺は呼吸が浅くなっていた。
ZEROがこっちを見た。「お前、大丈夫か」と言いたげな顔だった。
俺は頷いたけど、目はステージに釘付けだった。
ボーカルの呟く歌詞が、だんだん途切れていった。
そして、ボーカルの体が、力なくなった。
意識が飛んだのだと、誰の目にもわかった。
スタッフが慌ててステージに駆け寄った。ロープを外して、ボーカルを下ろした。
そのまま、ライブは終了した。
照明がついた。
フロアに、異様な空気が流れていた。
「え、これで終わり?」とZEROが言った。
「終わりっぽいな」と俺が答えた。
「マジか」
「マジや」
凱が腕を組んでステージを見ていた。
「やばいバンドやな」
「やばいな」
JUNEは口を半分開けたまま、まだステージを見ていた。
DEADは無言だった。でも、いつもより目が大きかった。
しばらくして、フロアから人が引いていった。
俺たちはまだ、その場で動けなかった。
「すごかったな」とZEROが言った。
「すごかった」
「俺たちと、全然違う方向の音や」
「そうやな」
「でも、本物や」
凱が何も言わずに、ステージを見ていた。
その目が、少し光っていた。
しばらくして、楽屋の方からメンバーが出てきた。
四人で機材を片付けようとしているところだった。ボーカルは意識を取り戻していて、普通に歩いていた。
ZEROが先に動いた。
「あの、すいません」
白夢のメンバー全員がZEROを見た。
「俺ら、夜叉羅刻ってバンドやってる者です。今日のライブ、最高でした」
ボーカルの清治が少し笑った。
「ありがとう。バンドやってるんだね」
「はい。CLUB NOVAって箱で活動してます」
「ふーん、若いね」
「はい、高校生です」
「マジか」
清治が苦笑した。
「さっき、最後の曲、大丈夫でしたか」と俺が聞いた。
「ああ、あれ。死ぬかと思ったわ」
清治が普通の口調で言った。
「あの、聞いてもいいですか」
清治がこっちを見た。
「いいよ」
「あの独特のリフ、どう考えて作ってるんですか」
ギターの真が答えた。
「リフは、感覚やな。コードから組み立てるんやなくて、フレーズから先に出てくる」
「なるほど」
「メロディは?」
清治「メロディも結構感覚やな。ぱっと頭に浮かぶことが多い」
「すごいですね」
俺は次々と質問した。
「あの曲のBメロの転調、どこから思いつきましたか」
「ベースのあのフレーズ、ボーカルのメロディに対してわざとずらしてますよね」
「ドラムのフィル、あの位置に入れる発想、やばいです」
清治と真が、お互いを見た。
「君、よく聴いてるね」と清治が言った。
「あ、すいません、興奮しちゃって」
「いやいや、面白いから続けてよ」
俺はもう止まらなかった。
「あと、歌詞、違いません?」
その瞬間、清治が動きを止めた。
「…違う?ドユコト?」
清治が俺をじっと見た。
(あ。)
俺は、口に手を当てた。
「えっと、なんとなく、こう、別バージョンがあるかなって」
「うちの曲、君聴いたことあるん?」
「あ、ないです」
「じゃあなんで歌詞違うってわかるん?」
「…なんとなく」
清治はしばらく俺を見ていた。
それから、ふっと笑った。
「君、面白い男やな」
「いえ、なんとなく」
「『なんとなく』で、そんな細かい質問できるか?」
俺は答えに詰まった。
ZEROが横から割って入った。
「うちの蓮、よくこういうこと言うんですよ。なんとなく言ったことが、結構当たるんです」
ZEROがそう言いながら、ちらっと俺を見た。
笑っていた。
(こいつ、わざとや。)
ZEROは俺の援護に入ったふりをして、「お前のこと、見てるからな」と俺に伝えていた。
清治はそれを聞いて、少し笑った。
「面白い男だね、君」
「いえ、なんとなく言っただけです」
「うちのバンドにスカウトしたいくらいだよ」
冗談っぽく言われた。
でも、半分本気な気もした。
ZEROが慌てた。
「うちの蓮、渡しませんよ」
「そんな顔しなくていいよ。冗談」
清治が笑った。
それから俺の目をじっと見た。
「君、何か持ってるな」
「持ってる?」
「言葉にできない何か。目が深い。17歳の目じゃない」
俺は息を止めた。
「君、何抱えてる?」
その問いに、答えられなかった。
清治は、それ以上は聞かなかった。
「今日は会えてよかった。また機会があったら、対バンしような」
「はい」
「楽しみにしてるよ」
白夢のメンバーは機材を片付けて、楽屋に戻っていった。
五人が残された。
しばらく誰も何も言わなかった。
帰り道、駅に向かう道で、凱が俺の隣に来た。
「蓮」
「なんや」
「お前、なんで白夢の曲をあんなに細かく語れたんや」
「気のせいや」
「気のせいで初見のライブの曲、Bメロの転調まで指摘できるか?」
「思いついただけや」
「ふーん」
凱はそれだけ言って、また前を向いた。
でも、何かを考えているのが、横顔でわかった。
ZEROが俺の反対側に来た。
「お前、面白いやつやな」
「うるさい」
「白夢のボーカル、お前のこと気に入ってたで」
「気のせいや」
「お前、最近気のせいばっかり言うな」
ZEROが笑った。
笑いながら、目だけが俺を見ていた。
夜風が吹いた。
西九条の駅の、何でもないホーム。
このホームが、後で聖地と呼ばれるようになる。
俺はそのことを、誰にも言えなかった。
電車が来た。
五人で乗り込んだ。
凱は窓の外を見ていた。
ZEROは俺の隣で何か考えていた。
JUNEとDEADは何も言わずに、シートに座っていた。
電車が動き始めた。
俺は窓に頭を預けた。
頭の中に、まだ白夢の音が残っていた。ロープに首をかけたボーカルの姿。途切れた歌詞。浮遊悲のメロディ。
清治の言葉も、耳に残っていた。
「君、何抱えてる?」
(隠してるってバレるとまずいんかな、、、まぁこの先もうまくやるしかない、、、)
電車が梅田に向かって走っていった。




