第21話「同じ夜に、同じ場所に」
当日まで、夜叉羅刻は毎日スタジオに入った。
バイト代が消えた。睡眠時間が削れた。学校の授業中に居眠りをした。でも誰も文句を言わなかった。
ZEROは毎回、前の練習よりピッチが安定していった。
凱は毎回、前の練習よりリフのキレが鋭くなっていた。
JUNEは毎回、前の練習よりタイトなグルーヴを生み出していた。
DEADは毎回、前の練習より一発一発が重くなっていた。
俺も毎回、前の練習より。
(みんな、本気や。)
当たり前だった。でも改めてそう思った。
初めてのデカいイベント、気合いも入る、もちろん毎回本気ではあるが、力の入り方はやはり変わってくる。
当日の朝、俺は早く目が覚めた。
布団の中で天井を見つめていた。
(今日や。)
今日、BACK-KICKが来る。
今日、同じステージに立つ。
胸の中がざわざわしていた。興奮とも緊張とも違う、なんとも言えない感覚だった。
現代で、BACK-KICKのライブチケットがどれだけプレミアになるか、俺は知っている。何十年経っても売れ続けて、伝説と呼ばれて、後世のバンドマンが全員影響を受けたと言うバンド。
そのバンドと今夜、同じステージに立つ。
(どういうことやこれ。)
(現代だったらひっくり返っても無理やぞ、友達に自慢したい、、、どれだけ凄いことか、、、)
本当に、どういうことかわからなかった。
夕方、CLUB NOVAに向かった。
いつもより人が多かった。まだ開演前なのに、入り口に列ができていた。BACK-KICK目当ての客が、関西中から集まってきていた。
「すごい人ですね。」とJUNEが言った。
「東京のバンドはやっぱり違うな」と凱が言った。
ZEROは黙って人混みを見ていた。
楽屋に入ると、すでにBACK-KICKの機材が並んでいた。
ドラムセット、アンプ、エフェクターボード。五人分の機材だった。どれも使い込まれていた。傷がついていて、テープで補強してあるところもあった。
(この機材で、あの音を出すんか。)
俺はその機材をじっと眺めた。
傷だらけだった。テープで補強してある。高級品じゃない。でも、使い込まれた道具には、その人間の歴史が宿る。
(この人たち、どんな夜を過ごしてきたんやろ。)
しばらくして、BACK-KICKの五人が入ってきた。
全員黒い服を着ていた。髪が高い。目の周りが黒い。でも、見た目よりも、存在感が違った。
部屋の空気が変わった。
(でかい。)
身長の話じゃなかった。存在そのものがでかかった。
五人は機材のチェックを始めた。無言だった。俺たちのことを気にする様子もなかった。ただ、自分たちの仕事をしていた。
プロの空気だった。
俺は固まったまま、その五人を見ていた。
(この人たちが、あのBACK-KICKや。)
現代で何度も「この時代に生きたかった」と思っていた。インタビューを読んで、映像を漁って、どんな時代を経てあの音楽が生まれたのかを想像していた。
その人たちが、今、目の前にいる。
同じ空気を吸っている。
(夢みたいやな。)
夜叉羅刻は一番手だった。
ステージに出た。
客席を見た。
百二十人。パンパンや、今まで見たことのない景色だった。フロアが人で溢れていた。ほとんどがBACK-KICK目当てだろう。
前の方の客が、こっちをじっと見ていた。値踏みするような目だった。
(これが、東京のバンドを見慣れた客か。)
生半可なことをしたら、すぐに背中を向けられる。そういう空気だった。
(やったるか。)
DEADがカウントを叩いた。
演奏が始まった。
最初の一音で、客席がざわついた。
悪い意味じゃなかった。「なんやこいつら」という感じの、興味のざわめきだった。
全力でやった。今まで一番全力でやった。
二曲目。前の方の数人が体を揺らし始めた。
三曲目。口笛が飛んできた。
俺はギターを弾きながら、それが嬉しかった。
二十分が終わった。
拍手と口笛と、どこかから「もう一回」という声が飛んできた。
楽屋に戻った。全員が汗だくだった。
「ええライブやった」とZEROが言った。
「口笛来たな」と凱が言った。珍しく、素直に嬉しそうだった。
「来ましたね」とJUNEが言った。目が少し赤かった。
DEADは無言だったけど、口元が少し緩んでいた。
しばらくして、BACK-KICKのステージが始まった。
最初の一音で、空気が変わった。
(次元が違う。)
音が違った。存在感が違った。
最初の一音で、フロア全体が動いた。百二十人が、一斉に前に動いた。
前の方の客が雪崩のように押し寄せてきた。
叫び声が上がった。怒号のような歓声だった。
「かっこええ」と「もっとやれ」と「お前らが一番や」が混ざったような、ぐちゃぐちゃの熱狂だった。
(これが本物のライブや。)
俺はそのとき、泣きそうになった。
なんで泣きそうになるのかわからなかった。悲しいわけじゃない。悔しいわけでもない。
ただ、胸の中に何かが溢れてきた。
現代で、一人でイヤホンをして聴いていた音楽が、今目の前で生まれている。
誰かが作った音楽を消費していた俺が、今その音楽が生まれる瞬間の隣にいる。
しかも、同じステージに立った。
同じ夜に、同じ場所に、俺たちはいた。
(歴史の一ページに、俺たちの名前がある。)
誰も知らない。記録にも残らない。でも確かに、今夜ここにあった。
ZEROがステージを見ていた。
微動だにしなかった。でもその横顔が、今まで見たことのない顔をしていた。憧れと、悔しさと、それから決意が混ざったような顔だった。
凱がステージを見ていた。
拳を握っていた。唇を噛んでいた。普段は強がってばかりの男が、今夜だけは素直に圧倒されていた。
JUNEがステージを見ていた。
もう我慢できなかったのか、静かに涙を拭いていた。
DEADがステージを見ていた。
いつもより目が大きかった。そのまま、ずっと、一瞬も目を離さずに見ていた。
俺も、ステージを見ていた。
(この人たちが、これからもっとでかくなる。)
俺は知っている。この時代の誰も知らないことを、俺だけが知っている。
でも今この瞬間、そんなことはどうでもよかった。
知識じゃなく、体で圧倒されていた。
隣でZEROが静かに言った。
「俺たち、まだ全然やな」
「そうやな」
「でも」
「でも?」
「同じ夜に、同じ場所におった」
俺はZEROを見た。
ZEROはステージを見たまま言った。
「それだけで、ええと思わんか」
俺はしばらく考えた。
(同じ夜に、同じ場所に。)
そうだった。
実力は全然違う。客の数も違う。存在感も違う。
でも今夜、同じ場所にいた。同じ空気を吸った。
同じステージに立った。
それは本物だった。
「ええと思う」と俺は言った。
「やろ」
ZEROはそれだけ言って、またステージを見た。
その目が、少し光っていた。
BACK-KICKのライブが終わった。
怒号のような歓声が起きた。アンコールを求める声が上がった。
「もう一回」「もう一回」「もう一回」
アンコールが始まった。
また怒号のような歓声が起きた。
アンコールが終わった。
余韻の中で、五人で楽屋に向かおうとしたとき、BACK-KICKのボーカルが俺たちの前に現れた。
背が高かった。目の周りが黒い。でも目が優しかった。
「さっきのライブ、見てたよ」
全員が固まった。
「荒削りだけど熱かった。久しぶりに、前しか見てないバンド見た気がした」
前しか見てないバンド。
俺はその言葉を、頭の中で繰り返した。
「お前らまだ若いだろ。高校生か」
「はい」とZEROが答えた。
「そうか」
BACK-KICKのボーカルはしばらく俺たちを見た。
五人を順番に見た。
「いいバンドになるよ」
それだけだった。
たったそれだけだった。
でも、その一言の重さが違った。
何十年後も伝説として語り継がれる人間が、今夜まだ無名の俺たちに言った言葉だ。
(いいバンドになるよ。)
ZEROが口を開いた。
「ありがとうございます」
「また一緒にやりたいな。関西来たとき、声かけていいか」
「ぜひ」
BACK-KICKのボーカルは小さく頷いて、去っていった。
五人が残された。
誰も何も言わなかった。
しばらくして、凱が言った。
「…今、褒められたか」
「褒められた」と俺が言った。
「BACK-KICKに」
「BACK-KICKに」
また沈黙が落ちた。
JUNEがまた涙を拭いていた。今度は我慢しなかった。
DEADはまだ空を見上げていた。さっきから、ずっと空を見上げていた。
凱が壁にもたれて、目を閉じた。
ZEROは唇を結んでいた。何かを言おうとして、でも言葉が出てこないようだった。
こいつが言葉に詰まるのを、俺は初めて見た。
俺も、何も言えなかった。
(工場で死んでよかった。)
そんなことを思いたくない。
でも今この瞬間だけは、そう思ってしまった。
工場で死んで、1982年に転生して、山田蓮になって、夜叉羅刻を組んで、デモテープを落ちて、殴られて、泥臭くやってきた。
その全部が、今夜に繋がっていた。
帰り道、五人で並んで歩いた。
誰も何も言わなかった。
でも全員の歩幅が、少しだけ大きくなっていた。
昭和の夜風が吹いていた。
(まだ足りん。)
でも、確実に前に進んでいる。
夜叉羅刻は、今夜また一歩、でかくなった。




