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第19話「二股、制裁、そしてメラメラ」

麻子と付き合い始めたのは、八回目のライブの後だった。


ライブが終わって、いつものように話していたら、麻子が「帰り道、一緒に行きませんか」と言った。


それだけだった。それだけで十分だった。


(付き合えた。)


現代でもこんなにシンプルにいくことはなかった。アプリで出会って、何回かやり取りして、ご飯行って、やっと付き合えるかどうかという話になる。


でもここは1982年だ。ライブハウスで会って、何回か話して、一緒に帰って、付き合う。それだけだ。


(現代の時より無双できてるやん。なんなんこれ、俺っていけてるんか?)


初めて「チートしてる気分」を味わった。


霧島蓮として生きてきた二十年で、こんなにスムーズに恋愛が始まったことはなかった。なのに山田蓮になってから、トントン拍子だ。


(これこそが主人公やな。)


少し調子に乗っていたかもしれない。


麻子は明るくて、音楽が好きで、話しやすい子だった。ライブのことをちゃんと見ていてくれる。


前のやらかしのことも「あのとき何かありましたよね」と笑いながら言ってくれた。


俺は「なんもない」と言った。


麻子は笑った。


その笑顔が好きだった。


付き合って一ヶ月が経った。


麻子はライブに来るたびに「今日もよかったよ」と言ってくれた。ライブが終わった後、二人で近くの喫茶店に寄るのが習慣になっていた。深夜まで営業している、煙草の匂いがする薄暗い喫茶店だった。


コーヒーを飲みながら、ライブの話をして、音楽の話をして、他愛ない話をした。


麻子はZEROの歌声が好きだと言った。凱のギターが好きだと言った。DEADのドラムが怖いけど好きだと言った。JUNEが一番まともそうで好きだと言った。


「恋のギターが一番好きやけど」


そう言って笑った。


(好きやな。)


素直にそう思っていた。霧島蓮として生きていた頃も、山田蓮として生きている今も、こんな気持ちになったのは初めてだった。


その夜も、ライブが終わって麻子と喫茶店に行こうとしていた。


「ちょっと待ってて」と麻子が言った。「友達に挨拶してくる」


「わかった」


俺はCLUB NOVAの前で待っていた。


夜風が気持ちよかった。今日のライブは悪くなかった。麻子も来ていた。喫茶店でコーヒーを飲みながら、今日のライブの話をしようと思っていた。


五分が経った。十分が経った。


(遅いな。)


店内を覗こうとしたとき、古株の男が出てきた。

いつもと違う顔をしていた。


「お前、ちょっとええか」


連れて行かれた先に、先輩バンドマンが待っていた。麻子も一緒だった。


麻子は俺を見た瞬間、顔が青くなった。


(あ、これはまずい。)


(なんか分からんけど、ヤバいことになると直感してる。)


体が勝手に強張った。


「お前が蓮か」と先輩バンドマンが言った。


「はい」


「麻子と付き合っとるんか」


「はい」


「知らんかったんか。麻子、俺と付き合っとる」


(え、そうなん。)


頭の中が真っ白になった。


(俺、知らんかった。)


「麻子がCLUB NOVAに来始めたのは三ヶ月前で、俺と付き合ったのは一ヶ月前なんですけど」


声が震えていた。


「知らん。とにかくそういうことや」


先輩バンドマンは俺をじっと見た。それから麻子を見た。


「麻子、こいつに言うたんか」


麻子は黙っていた。


「言うてへんのか」


麻子はまだ黙っていた。


俺は麻子を見た。


麻子は俺と目が合った瞬間、視線を逸らした。


(そういうことか。)


胸の奥が、すうっと冷たくなった。


俺のことが好きだったのか、どうだったのかはわからない。でも、言わなかった。ずっと、言わなかった。喫茶店でコーヒーを飲みながら笑っていたときも、ライブを見て「よかったよ」と言っていたときも、ずっと言わなかった。


(悲しいな。)


怒りより先に、悲しさが来た。


初めて感じた種類の悲しさだった。


「高校生が調子乗んな」


先輩バンドマンの声がした。


次の瞬間、頬に衝撃が走った。


(殴られた。)


よろけた。膝をついた。頬が熱かった。口の中に血の味がした。


(痛い。)


現代では殴られた経験なんてほとんどなかった。


喧嘩なんて漫画の中の話だった。


でもこの時代は違う。


立ち上がろうとしたら、今度は腹に衝撃が来た。


息が詰まった。その場にうずくまった。


「やめて」と麻子の声がした。


「うるさい」と先輩バンドマンの声がした。


「もうええやろ」と古株の男の声がした。


しばらくして、足音が遠ざかった。


麻子の足音だけが残った。


「ごめん」と麻子が言った。


俺はうずくまったまま、麻子を見上げた。


麻子の目が赤かった。


(泣いとるんか。)


泣いているのは麻子だった。殴られたのは俺だった。


なんかおかしくて、笑いたくなった。でも笑えなかった。


(なんで麻子が泣いてるんや。)


その疑問だけが、頭の中に残った。


「ええわ」


それだけ言って、立ち上がった。


「ほんまにごめん」


「ええって言うた」


俺はCLUB NOVAの中に戻った。


楽屋に向かう廊下で、足が少しふらついた。腹がじんじんしていた。頬が腫れているのが、自分でもわかった。


(情けないな、俺。)


無双どころか、こんな簡単に殴られて、こんな簡単に騙されて。


主人公はこんな目に遭わない。チートで全部解決する。女の子に騙されることもない。先輩に殴られることもない。


俺は、ただの高校生だった。何もない、ただの十七歳だった。


楽屋に入った瞬間、全員が俺を見た。


「何があった」とZEROが言った。


普段の声と違った。低かった。


「殴られた」


「誰に」


「先輩に」


「なんで」


「麻子が二股やった。先輩と付き合っとったらしい」


沈黙が落ちた。


楽屋の空気が、一瞬で変わった。


JUNEが「大丈夫ですか」と言った。顔が青かった。普段律儀で穏やかなJUNEが、こんな顔をするのは珍しかった。


凱が「言うたやろ」と言った。でも責める口調じゃなかった。むしろ、悔しそうだった。「このシーン、狭いから」と前に言ってくれた言葉が、急に重みを増した。


DEADが無言で絆創膏を差し出した。それから濡れたタオルも差し出した。


(どこから出してくるんや。)


「ありがとう、DEAD」


DEADは小さく頷いた。


その頷きに、いつもより少しだけ感情が乗っていた。


俺は絆創膏を頬に貼って、タオルで口元を拭いた。


誰も何も言わなかった。


でも、その沈黙が、嫌じゃなかった。


四人が、俺と一緒に怒ってくれている気がした。


俺と一緒に悔しがってくれている気がした。


(こいつら、本気で俺のために怒ってくれてる。)


そう気づいた瞬間、目の奥が少し熱くなった。


しばらくして、ZEROが俺の前にしゃがんだ。


目が合った。


ZEROは何も言わなかった。ただ、俺を見ていた。


いつものナルシストの目じゃなかった。真剣な目だった。


「悲しいか」とZEROが言った。


「悲しい」


「麻子にか」


「そうや」


「殴られたことか」


「それもある」


ZEROはしばらく黙っていた。


「それが一番悔しいんやろ」


俺は答えなかった。


答えなくてよかった。ZEROにはわかっていた。


「高校生が調子乗んな」


その言葉が、頬の痛みより、腹の痛みより、ずっと深く刺さっていた。


俺は、舐められた。


新人バンドの高校生やから、殴っても問題ないと思われた。俺たちが、まだそういうレベルの存在だった。


ZEROが立ち上がった。


「見返したろ」


静かな声だった。でもその声に、熱があった。


「見返す」と俺は言った。


「あの先輩が頭下げるくらいでかくなったろ」


「なる」


「このシーンで一番でかいバンドになったろ」


「なる」


「絶対にか」


「絶対に」


凱が立ち上がった。


「俺も混ぜろ」


JUNEが立ち上がった。


「僕も」


DEADが静かに立ち上がった。


何も言わなかった。でも立ち上がった。


それで十分だった。


楽屋に五人が立っていた。


頬はまだじんじんしていた。腹もまだ痛かった。


口の中にまだ血の味がした。


麻子の泣き顔が頭に浮かんだ。消えなかった。


でも、それでいい。


悲しさも、悔しさも、痛みも、全部燃料にしてやる。


(見返したる。)


絶対に見返したる。


俺は四人を見た。


凱は腕を組んで、まっすぐ俺を見ていた。「俺も混ぜろ」と言った時の声が、まだ耳に残っていた。


JUNEは普段律儀で穏やかなのに、今日は目に怒りがあった。「僕も」と言った時の声が、震えていた。


DEADは無言だった。でもその目に、強い光があった。


ZEROは、もう前を向いていた。次のステージを見ているような目だった。


(こんなことに首突っ込んでくれて、熱くなってくれる仲間ができてよかったなぁ。)


そう思った。


ライブを始めた頃、俺は「無双したい」「成り上がりたい」と思っていた。この時代を制覇するつもりだった。


でも違った。


俺は一人じゃ何もできない。


でも、こいつらと一緒なら。


(やったるか。)


四人がいる。それだけで、十分だった。


頬の痛みも、腹の痛みも、麻子への悲しみも、先輩への怒りも、全部燃料に変わっていく感覚があった。


(悔しさって、最高の燃料やな。)


転生してきた知識じゃない。チートスキルじゃない。


ただ、悔しさがある。仲間がいる。


それだけで、人は前に進める。


楽屋の電灯が、五人を照らしていた。


頬の絆創膏が、少しずれかけていた。


でも、もう痛みは気にならなかった。


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